竹柏記 山本周五郎 ㉚

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね2お気に入り登録
プレイ回数1012難易度(4.2) 3520打 長文
不信な男に恋をしている娘に、強引な結婚を申し込むが・・・
不信な男に恋をしている友人の妹を守りたい一心で、心通わずとも求婚をする勘定奉行の主人公。

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問題文

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(いえへかえるあしはおもかった。じぶんというものがじつにちいさな、)

家へ帰る足は重かった。自分というものがじつに小さな、

(おろかしい、みじめなそんざいにおもえた。)

愚かしい、みじめな存在に思えた。

(じゅうねんまえ、やつかはやくめのうえでふせいをおかした。)

十年まえ、八束は役目のうえで不正を犯した。

(せんたくまちでたいうんじがはらで、おちるだけおちたすがたをみせた。)

洗濯町で大雲寺ヶ原で、堕ちるだけ堕ちた姿をみせた。

(しかしかれはりっぱにたちなおりそのさいのうをじゅうぶんにいかした。)

しかし彼は立派に立ち直りその才能を充分に生かした。

(かつてあれほどだらくしながら、みごとにかれはかったのだ。)

かつてあれほど堕落しながら、みごとに彼は勝ったのだ。

(このあいだにじぶんはどうしたか。)

このあいだに自分はどうしたか。

(じぶんはすぎのをあいしたし、いまもあいしている。)

自分は杉乃を愛したし、今も愛している。

(すぎのをふこうやこんなんからまもり、へいおんなせいかつのなかに)

杉乃を不幸や困難から護り、平穏な生活のなかに

(あたためようとおもった。それらはどうやらじつげんした。)

温ためようと思った。それらはどうやら実現した。

(これからもひどいさてつのないかぎり、このせいかつはつづけてゆくことが)

これからもひどい蹉跌のない限り、この生活は続けてゆくことが

(できるだろう。だがそれがいったいなんだ。すぎのがじぶんのあいを)

できるだろう。だがそれがいったいなんだ。杉乃が自分の愛を

(よろこばないとすれば、じぶんのあいなどはおわらいぐさではないか。)

よろこばないとすれば、自分の愛などはお笑い草ではないか。

(またにんげんは、かならずしもへいおんぶじなせいかつに、まんぞくするものではない。)

また人間は、必ずしも平穏無事な生活に、満足するものではない。

(ひんくやかんなんにすすんでぶっつかり、それをだかいすることに、)

貧苦や艱難にすすんでぶっつかり、それを打開することに、

(いきがいをかんずるものもいる。)

生き甲斐を感ずる者もいる。

(けっきょくおれはおくびょうでたいくつなにんげんにすぎなかった。)

結局おれは臆病で退屈な人間にすぎなかった。

(ちょうじりをあわせるのうだけのりちぎのすけだ。)

帳尻を合わせる能だけの律義之助だ。

(こんなときこそ、ちゃやざけにでもよいしれることができたら、)

こんなときこそ、茶屋酒にでも酔い痴れることができたら、

(とおもったが、かれにはそれもできなかった。すっかりまいって、)

と思ったが、彼にはそれもできなかった。すっかりまいって、

など

(じぶんでじぶんをひきずるようなきもちで、いえにかえった。)

自分で自分をひきずるような気持で、家に帰った。

(すぎのはでむかえなかった。きぶんがわるいから、ということであった。)

杉乃は出迎えなかった。気分が悪いから、ということであった。

(こうのすけはほっとした。いまつまとかおをあわせるのは)

孝之助はほっとした。いま妻と顔を合わせるのは

(かれにとってもつらかったのである。)

彼にとっても辛かったのである。

(ひとりできがえをし、しょくじをききにきためしつかいには、)

独りで着替えをし、食事を訊きに来た召使には、

(ちゃだけをめいじていまへはいった。)

茶だけを命じて居間へ入った。

(ひおけをひきよせ、つくえにもたれて、ものおもいにふけっていたが、)

火桶をひき寄せ、机にもたれて、もの思いに耽っていたが、

(やっぱりよっていたのだろう、そのままうたたねをしたらしい、)

やっぱり酔っていたのだろう、そのままうたた寝をしたらしい、

(めをさますとせにかいまきがかけてあった。)

眼をさますと背に抱巻が掛けてあった。

(「ねまのおしたくができました」こういわれて、)

「寝間のお支度ができました」こう云われて、

(ふりむくとすぎのがいた。よびおこされたのである。)

ふり向くと杉乃がいた。呼び起こされたのである。

(ああとこたえたが、かれはとむねをつかれた。)

ああと答えたが、彼はと胸を衝かれた。

(つまはかみをといてたばね、しろむくをきていた。)

妻は髪をといて束ね、白無垢を着ていた。

(かおにはこいけしょうをし、きょうべにをつけていた。)

顔には濃い化粧をし、京紅を付けていた。

(なにかいじょうなことがおこる。こうのすけはそうちょっかんし)

なにか異常なことが起こる。孝之助はそう直感し

(はっきりとめがさめた。「ねるまえにはなしがある、)

はっきりと眼がさめた。「寝るまえに話がある、

(かおをあらってくるからここでまっていてくれ」)

顔を洗って来るから此処で待っていて呉れ」

(かれはにげるようにたっていった。よるはかなりふけたらしい。)

彼は逃げるように立っていった。夜はかなり更けたらしい。

(たかやすはむかしからよるのはやいしゅうかんであるが、)

高安は昔から夜の早い習慣であるが、

(ひえるきおんや、ひっそりねしずまったようすでは、)

冷える気温や、ひっそり寝鎮まったようすでは、

(じゅうにじちかいのではないかとおもえた。)

十二時ちかいのではないかと思えた。

(いまへもどると、すぎのはもとのいちにうなだれてすわっていた。)

居間へ戻ると、杉乃は元の位置にうなだれて坐っていた。

(「きょうはすまなかった」こうのすけはせいざしていいだした。)

「今日は済まなかった」孝之助は正坐して云いだした。

(「だまってつれていったうえに、あんなあつかいをうけて、)

「黙って伴れていったうえに、あんな扱いを受けて、

(さぞはらがたったろうとおもう、いやまってくれ、)

さぞ肚が立ったろうと思う、いや待って呉れ、

(はなしというのはそのことではないんだ、)

話というのはそのことではないんだ、

(まずこれをわびておいてから、きいてもらいたいことがあるんだ」)

まずこれを詫びておいてから、聞いて貰いたいことがあるんだ」

(すぎのはなにかいおうとして、またそっとうつむいた。)

杉乃はなにか云おうとして、またそっと俯向いた。

(「わたしがおまえをめとったときのことは、しっているね、)

「私がおまえを娶ったときのことは、知っているね、

(おまえがのぞんではいなかったのを、むりにめとった、)

おまえが望んではいなかったのを、無理に娶った、

(まったくおまえのいしにはんし、おまえのあにのてつまも、)

まったくおまえの意志に反し、おまえの兄の鉄馬も、

(きたはたのおばもはんたいだったのをおしきってつまにむかえた、)

北畠の叔母も反対だったのを押し切って妻に迎えた、

(それはわたしがおまえをあいしていたのと、)

それは私がおまえを愛していたのと、

(もうひとつは、おかむらやつかというにんげんをごかいしたためだった、)

もう一つは、岡村八束という人間を誤解したためだった、

(おまえがもし、おかむらでなく、ほかのにんげんをあいしていたのだったら、)

おまえがもし、岡村でなく、他の人間を愛していたのだったら、

(わたしはけっしてあんなふうにはしなかったとおもう、)

私は決してあんなふうにはしなかったと思う、

(やつかはさいきもしゅわんもあった、せけんのひょうもひじょうによかった、)

八束は才気も手腕もあった、世間の評もひじょうに良かった、

(しかしわたしのめにはそうみえなかった、)

しかし私の眼にはそうみえなかった、

(かれのさいわんはいつかかれじしんをあやまり、)

彼の才腕はいつか彼自身を誤り、

(しゅういのひとびとをきずつけるようにおもえた、)

周囲の人々を傷つけるように思えた、

(そして、かれはぐうぜんそういうふしまつをした。)

そして、彼は偶然そういう不始末をした。

(いつかかさいでもはなしたが、もうはっきりいってもいいだろう、)

いつか笠井でも話したが、もうはっきり云ってもいいだろう、

(かれはごようしょうにんとはかって、ふせいにやくどころをりようし、)

彼は御用商人と謀って、不正に役所を利用し、

(やくどころのかねをひしょうしたのだ、そのときわたしは、)

役所の金を費消したのだ、そのとき私は、

(じぶんのめがまちがっていなかったとしんじ、)

自分の眼がまちがっていなかったと信じ、

(どうしてもすぎのをかれのてにわたしてはならない、とおもった。)

どうしても杉乃を彼の手に渡してはならない、と思った。

(こうしてむりにおまえをめとった、わたしはおまえをあいしていたが、)

こうして無理におまえを娶った、私はおまえを愛していたが、

(それいじょうに、おまえをふこうにしたくなかった、)

それ以上に、おまえを不幸にしたくなかった、

(こいはなによりうつくしくとうといものかもしれない、)

恋はなにより美しく尊いものかもしれない、

(しかしにんげんにはせいかつがある。)

しかし人間には生活がある。

(いきてゆくにはしんぼうづよいどりょくと、にんたいがひつようだ、)

生きてゆくには辛抱づよい努力と、忍耐が必要だ、

(しかもそのみちはけわしくとおい、おもわぬやくさいやびょうくにも)

しかもその道は嶮しく遠い、思わぬ災厄や病苦にも

(みまわれるであろう、わたしはそういうものからおまえを)

みまわれるであろう、私はそういうものからおまえを

(まもりたかった、ふうせつにあてたくない、くるしみやかなしみを)

護りたかった、風雪に当てたくない、苦しみや悲しみを

(あじあわせたくない、へいあんなかていと、あたたかくみちたりた)

味あわせたくない、平安な家庭と、温たかく満ち足りた

(くらしをあたえたい、これがなによりのねがいだった」)

暮しを与えたい、これがなによりの願いだった」

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