めおと蝶 山本周五郎 ④

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プレイ回数1471難易度(4.3) 2985打 長文
妻に頑なな大目付の夫・良平、結婚は失敗だと思い夫を拒む信乃。
信乃は情の薄い夫・良平を好きになることができない。ある日かつて思いを寄せていた智也が投獄される。

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問題文

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(それまではおっとをあいせないきもちだったが、)

それまでは良人を愛せない気持だったが、

(そのときからしのはかれをにくみだした。)

そのときから信乃は彼を憎みだした。

(そうしていもうとがいつかいったことば、)

そうして妹がいつか云った言葉、

(おねえさまはおしあわせではないといったことばが、けっしてひとりがてんではなく、)

お姉さまはおしあわせではないと云った言葉が、決して独り合点ではなく、

(いもうとにははっきりさっしがついていたのだということをみとめた。)

妹にははっきり察しがついていたのだということを認めた。

(ともやさまはどうしていらっしゃるか。)

知也さまはどうしていらっしゃるか。

(しのはげんざいのくらいつめたいせいかつからにげだすように、)

信乃は現在の暗い冷たい生活から逃げだすように、

(しばしばかいそうのなかへとじこもった。)

しばしば回想のなかへ閉じこもった。

(にしはらともやはなくなったちちのゆうじんのこで、)

西原知也は亡くなった父の友人の子で、

(ながいことしんぞくのようにつきあっていた。)

ながいこと親族のようにつきあっていた。

(きしょうのあかるい、かんどうしやすい、たしょうらんぼうではあるが)

気性の明るい、感動しやすい、多少乱暴ではあるが

(おもいやりのふかい、だれにでもあいされるそしつをもっていた。)

思い遣りのふかい、誰にでも愛される素質をもっていた。

(おとなしいいっぽうのしのは、はやくからひそかにかれをあいしていた。)

おとなしい一方の信乃は、早くからひそかに彼を愛していた。

(それはひとをあいするということがどういうことであるか、)

それは人を愛するということがどういうことであるか、

(まだじぶんでもわからないとしごろだったので、)

まだ自分でもわからない年頃だったので、

(ほんのうてきなじこほごと、もうひとつはしゅうちから、)

本能的な自己保護と、もうひとつは羞恥から、

(じぶんではそうしようとおもわずにかれをさけはじめた。)

自分ではそうしようと思わずに彼を避けはじめた。

(なんだかいやにれいたんになったね、にげてばかり)

なんだかいやに冷淡になったね、逃げてばかり

(いるじゃないか、わたしがきらいになったのか。)

いるじゃないか、私が嫌いになったのか。

(ともやにそういわれたときの、かくしようのないこんらんと)

知也にそう云われたときの、隠しようのない混乱と

など

(ふしぎなよろこびのかんじょうを、しのはいまでもありありと)

ふしぎな歓びの感情を、信乃は今でもありありと

(おもいだすことができる、それからやくはんとしばかりあとのことだったろう、)

思いだすことができる、それから約半年ばかり後のことだったろう、

(あおいがわのあしのなかで、ふいにしのはともやにだかれた。)

青井川の葦の中で、ふいに信乃は知也に抱かれた。

(そのときはともやのははと、こちらはしのとははといもうとと、)

そのときは知也の母と、こちらは信乃と母と妹と、

(あにのしげじろうとろくにんで、ほたるがりにでたのであった。)

兄の繁二郎と六人で、螢狩りに出たのであった。

(はじめつないだやかたぶねのなかでじゅうづめをあけ、ふなやどからさんにんほどきて)

はじめ繋いだ屋形船の中で重詰をあけ、船宿から三人ほど来て

(さけをあたためたり、いけすからあげたさかなをつくってだしたり、)

酒を温ためたり、生簀から揚げた魚を作って出したり、

(にぎやかにこざかもりをひらいた。しのはそのうちにいもうとにせがまれて、)

賑やかに小酒宴をひらいた。信乃はそのうちに妹にせがまれて、

(やむなくひとりでほたるをとりにふねからでた。)

やむなく独りで螢を取りに船から出た。

(ふなやどでつくってくれたこざさのたばねたのと、ほたるかごをもって、)

船宿で作って呉れた小笹の束ねたのと、螢籠を持って、

(なかなかとれないほたるをおってゆくうち、)

なかなか取れない螢を追ってゆくうち、

(いつかひろいかわらのあしのしげったなかへまぎれこんでいた。)

いつか広い河原の葦の繁った中へまぎれこんでいた。

(そこへともやがさがしにきたのである。しのさん、どこです、しのさん。)

そこへ知也が捜しに来たのである。信乃さん、どこです、信乃さん。

(こうよぶこえがきこえた。しのはだまっていた。)

こう呼ぶ声が聞えた。信乃は黙っていた。

(くすくすわらいながら、だまってしんとあしのなかにたっていた。)

くすくす笑いながら、黙ってしんと葦の中に立っていた。

(しかししのはしろっぽいろのひとえをきていたので、)

しかし信乃は白っぽい絽の単衣を着ていたので、

(とびかうおびただしいほたるのひかりにうつってみえたのだろうか、)

飛び交うおびただしい螢の光にうつって見えたのだろうか、

(やがてあしをかきわけながらともやがちかづいてきた。)

やがて葦をかき分けながら知也が近づいて来た。

(かたをだきしめたはげしいちから、ほおやくちびるにうけたきのとおくなるようなせっしょく。)

肩を抱き緊めた激しい力、頬や唇にうけた気の遠くなるような接触。

(それはおもいだそうとしてもおもいだすことができない、)

それは思いだそうとしても思いだすことができない、

(みうちのどこかにかんかくのきおくとしてのこっている、)

身内のどこかに感覚の記憶として遺っている、

(たしかにきおくにはのこっているのだが、)

たしかに記憶には遺っているのだが、

(かぜのないむしむしするよるであった、あしのしげみはそよともうごかなかった。)

風のないむしむしする夜であった、葦の繁みはそよとも動かなかった。

(あおいがわのながれのおとが、ささやきのようにきこえていた。)

青井川の流れの音が、囁きのように聞えていた。

(「まずい、なんだこれは」あるよいのしょくぜんで、)

「不味い、なんだこれは」或る宵の食膳で、

(りょうへいがにものをはしでつつきながら、するどいめでこちらをにらんだ。)

良平が煮物を箸でつつきながら、鋭どい眼でこちらを睨んだ。

(それからはしをなげだし、「こんなものはくえぬ、かたづけろ」)

それから箸を投げだし、「こんな物は食えぬ、片づけろ」

(こういってあらあらしくたちあがった。)

こう云ってあらあらしく立ちあがった。

(めがぞうおにもえ、りょうてのこぶしがふるえていた。)

眼が憎悪に燃え、両手の拳が震えていた。

(「おれは、これまで、しょくじのことでもんくをいったことはない」)

「おれは、これまで、食事のことで文句を云ったことはない」

(かれはあえぐようなこえでいった、「どんなものでもたいてい、だまってたべる、)

彼はあえぐような声で云った、「どんな物でもたいてい、黙って食べる、

(だがこのごろのおまえのこしらえるものはなんだ、)

だがこのごろのおまえの拵える物はなんだ、

(こんなものをくわせるほどおれをけいぶしているのか」)

こんな物を食わせるほどおれを軽侮しているのか」

(けいぶということばをきいてしのはかおをあげた。)

軽侮という言葉を聞いて信乃は顔をあげた。

(りょうへいはそれをうえからいぬくように、すさまじいほどのめでにらみ、)

良平はそれを上から射貫くように、すさまじいほどの眼で睨み、

(なにかいおうとして、そのままじぶんのいまのほうへさった。)

なにか云おうとして、そのまま自分の居間のほうへ去った。

(しのはじっとすわっていた、ふしぎにこころよいような、)

信乃はじっと坐っていた、ふしぎにこころよいような、

(ふくしゅうでもしたもののような、いっしゅのいたがゆいかんじょうがわいてきて、)

復讐でもしたもののような、一種の痛痒い感情がわいてきて、

(われにもなくびしょうさえうかんできた。すくなくともいまのはほんきだった。)

我にもなく微笑さえうかんできた。少なくとも今のは本気だった。

(しのはこうおもい、だがともやはどんなばあいにも、)

信乃はこう思い、だが知也はどんなばあいにも、

(ほんきでぶっつかっていたということをついそうした。)

本気でぶっつかっていたということを追想した。

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