めおと蝶 山本周五郎 ⑦
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問題文
(あくるひはごごからろくにんのきゃくがあり、)
明くる日は午後から六人の客があり、
(よるにかけてにぎやかにさけがつづいた。)
夜にかけて賑やかに酒が続いた。
(なにかひとかたついたのだ。)
なにかひと片ついたのだ。
(しゅせきのはずんだはなしぶりにはそれがあきらかにあらわれていた。)
酒席のはずんだ話しぶりにはそれが明らかに表われていた。
(りょうへいが「むずかしいもんだい」といっていたことであろう、)
良平が「むずかしい問題」と云っていた事であろう、
(どうじにそれはともやにもつながっているのかもしれない。)
同時にそれは知也にもつながっているのかもしれない。
(あのしょるいにれっきされていたひとたちのつみがけっていしたのだろうか、)
あの書類に列記されていた人たちの罪が決定したのだろうか、
(ともやはやはりしざいなのだろうか。)
知也はやはり死罪なのだろうか。
(きゅうじをしながら、めで、みみで、あらゆるしんけいでそれをさぐりとろうとした。)
給仕をしながら、眼で、耳で、あらゆる神経でそれを探り取ろうとした。
(だがかれらはようじんぶかくやくどころのはなしにはふれず、)
だがかれらは用心ぶかく役所の話には触れず、
(なにごともしることができなかった。)
なにごとも知ることができなかった。
(りょうへいのとじょうげじょうはへいじょうにかえった。)
良平の登城下城は平常にかえった。
(きのせいかまゆがひらいて、)
気のせいか眉がひらいて、
(ねるまえのさけーーかれはひとりではしょくじのときはのまなかったーー)
寝る前の酒ーー彼は独りでは食事のときは飲まなかったーー
(にはわらいがおさえみせるようなことがあった。)
には笑い顔さえみせるようなことがあった。
(こんなふうにしてなのかばかりたったあるよる、)
こんなふうにして七日ばかり経った或る夜、
(くれがたからあめになっていたが、いつものじこくにちゃをもってゆくと、)
昏れがたから雨になっていたが、いつもの時刻に茶を持ってゆくと、
(「このごろこうのすけはどうだ」)
「このごろ甲之助はどうだ」
(おっとがつねになくこうはなしかけた。)
良人が常になくこう話しかけた。
(そんなことははじめてである、しのはそこへすわった。)
そんなことは初めてである、信乃はそこへ坐った。
(「やはりこうのすけがそばにいてくれなくてはさびしいか」)
「やはり甲之助がそばにいてくれなくては寂しいか」
(「いいえ、もうなれましたから」)
「いいえ、もう慣れましたから」
(「なれたから、うむ・・・なれた」)
「慣れたから、うむ・・・慣れた」
(りょうへいはふとあめのおとをきくようにだまった。)
良平はふと雨の音を聞くように黙った。
(それからまどのほうをむいたまま、りょうてのゆびをくんでひおけのうえへかざし、)
それから窓のほうを向いたまま、両手の指を組んで火桶の上へかざし、
(ささやくようなひくいこえで、ひとりごとのようにいった。)
囁くような低い声で、独り言のように云った。
(「こどもはわたしとおまえのちをわけている、はじめからわたしのこであり、)
「子供は私とおまえの血を分けている、初めから私の子であり、
(おまえのこだ、しかしわたしとおまえとは、もとはたにんだ、)
おまえの子だ、しかし私とおまえとは、もとは他人だ、
(おまえがなにをのぞみ、なにをかんがえているか、)
おまえがなにを望み、なにを考えているか、
(わたしにはしんそこまではわからない、それではたまらない、)
私には心底まではわからない、それでは堪らない、
(ふうふであるからには、おたがいにこころのそこまでわかりあいたい、)
夫婦であるからには、お互に心の底までわかりあいたい、
(それにはふたりのみっせつなじかんがひつようだ。)
それには二人の密接な時間が必要だ。
(ことにわたしはこんなせいしつだから、じぶんでなっとくのゆくまではあんしんができない、)
ことに私はこんな性質だから、自分で納得のゆくまでは安心ができない、
(そこのそこからおまえをしり、みもこころもわたしのつまにしたかった、)
底の底からおまえを知り、身も心も私の妻にしたかった、
(それでこどももおまえからはなしたのだ」)
それで子供もおまえから離したのだ」
(しのはめをふせたままだまっていた。ずいぶんりこしゅぎだとおもった。)
信乃は眼を伏せたまま黙っていた。ずいぶん利己主義だと思った。
(ははおやからこをひきはなしてまで、つまをじぶんにひきつけておいて、)
母親から子をひき離してまで、妻を自分にひきつけて置いて、
(かたちだけみっせつであればきもちもそれにおうずるというのだろうか、)
かたちだけ密接であれば気持もそれに応ずるというのだろうか、
(じぶんがそれでなっとくできれば、はなされているこどもやははおやは)
自分がそれで納得できれば、離されている子供や母親は
(どうでもいいのだろうか。ふうふはこどもをつうじてはじめて、)
どうでもいいのだろうか。夫婦は子供を通じてはじめて、
(みっせつにつながるものではないだろうか。)
密接につながれるものではないだろうか。
(こうおもいながら、だがしのはなにもいわなかった。)
こう思いながら、だが信乃はなにも云わなかった。
(「おまえはわたしにふまんかもしれない、わたしはしょうしんもののでだ、)
「おまえは私に不満かもしれない、私は小身者の出だ、
(ずいぶんくるしくまずしいなかでそだった、にちじょうのことでも、)
ずいぶん苦しく貧しいなかで育った、日常のことでも、
(おまえのめにはけいぶしたいようなぶざまなことがおおいだろう、)
おまえの眼には軽侮したいようなぶざまなことが多いだろう、
(それはよくしっている」)
それはよく知っている」
(「ーーー」しのはびっくりしてめをあげた。)
「ーーー」 信乃はびっくりして眼をあげた。
(「しかしわたしはこのままではいない、)
「しかし私はこのままではいない、
(ここまでこぎつけるためにはすべてをすてなければならなかった、)
ここまでこぎつけるためにはすべてを棄てなければならなかった、
(なにもかも、ひとらしいところまでしゅっせをするために、)
なにもかも、人らしいところまで出世をするために、
(そうしてそのときがきた、これからはいくらかおちつくことができる、)
そうしてその時が来た、これからはいくらかおちつくことができる、
(すこしはそのほうのしゅうぎょうもして、)
少しはそのほうの修業もして、
(おまえにもけいぶされないくらいのにんげんに・・・」)
おまえにも軽侮されないくらいの人間に・・・」
(りょうへいはそこでことばをきった。ろうかをいそぎあしにくるおとがする、)
良平はそこで言葉を切った。廊下をいそぎ足に来る音がする、
(それはしょうじのそとでとまり、しゅうごくがたからつかいがきたとつたえた。)
それは障子の外で止り、囚獄方から使が来たと伝えた。
(「しゅうごくからししゃ」りょうへいはくびをかしげた。)
「囚獄から使者」 良平は首をかしげた。
(「きゅうをようしますので、おげんかんまでともうすことでございます」)
「急を要しますので、お玄関までと申すことでございます」
(よしゆくといってりょうへいはたった。)
よしゆくと云って良平は立った。
(どういうつもりでもない、いっしゅのちょっかんにひかれて、)
どういうつもりでもない、一種の直感にひかれて、
(しのはそのあとからついてゆき、げんかんわきのふすまのかげにみをひそめた。)
信乃はそのあとからついてゆき、玄関脇の襖の蔭に身をひそめた。
(「なにはろう、ろうをやぶったというのか」)
「なに破牢、牢を破ったというのか」
(きょうがくしたようなおっとのこえがきこえた。)
驚愕したような良人の声が聞えた。
(「ろうばんにないつうしゃがあったようでございます、たつみぐちでさんめいとらえましたが、)
「牢番に内通者があったようでございます、巽口で三名捕えましたが、
(あとは、おしろのからめてへぬけたらしく、)
あとは、お城の搦手へぬけたらしく、
(おもんのにんずうはばいましにいたしまして、まちぶぎょうのてのものも」)
御門の人数は倍増しに致しまして、町奉行の手の者も」
(そういうししゃのこえもとりみだしていた。)
そう云う使者の声もとりみだしていた。
(しのはあしおとをしのばせてそこをはなれ、おっとのいまへもどってすわった。)
信乃は足音を忍ばせてそこを離れ、良人の居間へ戻って坐った。
(ーーはろう、ともやさまだろうか。)
ーー破牢、知也さまだろうか。
(ろうしゃはじょうがいにもある。しょみんをいれるもので、)
牢舎は城外にもある。庶民を入れるもので、
(てっぽうばばのきたの、けいじょうのもりのなかにある、)
鉄砲馬場の北の、刑場の森の中にある、
(じょうちゅうのはさむらいだけのものだが、どっちではろうがあったのだろうか。)
城中のは侍だけのものだが、どっちで破牢があったのだろうか。
(しのはなにをいのるともなくいのるようなきもちで、)
信乃はなにを祈るともなく祈るような気持で、
(しんとあたまをたれながらめをつむった。)
しんと頭を垂れながら眼をつむった。
(りょうへいはすぐにもどってきた、そうしてたったまませかせかといった。)
良平はすぐに戻って来た、そうして立ったまませかせかと云った。
(「ごようででる、こんやはかえらぬかもしれぬ」)
「御用で出る、今夜は帰らぬかもしれぬ」