めおと蝶 山本周五郎 ⑧

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妻に頑なな大目付の夫・良平、結婚は失敗だと思い夫を拒む信乃。
信乃は情の薄い夫・良平を好きになることができない。ある日かつて思いを寄せていた智也が投獄される。

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問題文

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(おっとにしたくをさせておくりだしたあと、めしつかいをねかせてから、)

良人に支度をさせて送りだしたあと、召使を寝かせてから、

(じぶんもいちどしんじょへはいった。しかしねむれそうでもないし、)

自分もいちど寝所へはいった。しかし眠れそうでもないし、

(ことによるとおっとがかえるかもしれないとおもい、)

ことによると良人が帰るかもしれないと思い、

(いまへもどってひをかきおこし、ちゃをこくいれて、)

居間へ戻って火をかき起し、茶を濃く淹れて、

(ぬいかけのものをとりだしてすわった。)

縫いかけの物をとり出して坐った。

(おまえはわたしにふまんかもしれない、わたしはしょうしんもののでだから、)

おまえは私に不満かもしれない、私は小身者の出だから、

(けいぶしたくなるようなぶざまなことがおおいだろう。)

軽侮したくなるようなぶざまなことが多いだろう。

(おっとのいったことがおもいだされた。けいぶということばはいつかもでた、)

良人の云ったことが思いだされた。軽侮という言葉はいつかも出た、

(こんやはにど、しまいのほうでちゅうだんされたが、)

今夜は二度、しまいのほうで中断されたが、

(おまえにけいぶされないようなにんげんにといった。)

おまえに軽侮されないような人間にと云った。

(しのはおっとをあいすることができない、それがこうじて)

信乃は良人を愛することができない、それが高じて

(にくむようにさえなってきた。けれども「けいぶ」などということは、)

憎むようにさえなってきた。けれども「軽侮」などということは、

(じぶんではゆめにもかんじたことはなかった。)

自分では夢にも感じたことはなかった。

(「なにをおもいちがいしているのだろう、じぶんのどういうところが)

「なにを思い違いしているのだろう、自分のどういうところが

(そんなふうにみえるのだろうか」しのははりのてをひざにおいて、)

そんなふうに見えるのだろうか」信乃は針の手を膝に置いて、

(これまでのおっととのあけくれをおもいかえそうとした。)

これまでの良人との明け昏れを思いかえそうとした。

(そのときであった。すぐえんがわのそとのあまどをひそかにゆびさきでたたくおとがし、)

そのときであった。すぐ縁側の外の雨戸をひそかに指先で叩く音がし、

(じぶんのなをよぶようなこえがきこえた。)

自分の名を呼ぶような声が聞えた。

(はじめはかぜがとをゆらし、ゆきのささやきだとおもった。)

初めは風が戸を揺らし、雪の囁きだと思った。

(が、すぐに、しのさんというひくいささやきをはっきりきき、)

が、すぐに、信乃さんという低い囁きをはっきり聞き、

など

(ぞっとせすじにみずをあびたようにかんじながら、)

ぞっと背筋に水を浴びたように感じながら、

(しのはむちゅうでたってろうかへでていた。)

信乃は夢中で立って廊下へ出ていた。

(「しのさん、しのさん」こえはあまどのすぐそとでしていた。)

「信乃さん、信乃さん」 声は雨戸のすぐ外でしていた。

(「ともやです、あけてください、しのさん」)

「知也です、あけて下さい、信乃さん」

(しのはがたがたとふるえた、あけてはいけない、)

信乃はがたがたと震えた、あけてはいけない、

(こうおもいながらほとんどむいしきに、てはあまどをあけていた。)

こう思いながら殆ど無意識に、手は雨戸をあけていた。

(もうつもりはじめて、うっすらとしろくなったにわにくろいひとかげがみえ、)

もう積りはじめて、うっすらと白くなった庭に黒い人影がみえ、

(あけたとぐちへはりつくようによってきた。)

あけた戸口へ貼り着くように寄って来た。

(「かくまってください、わたしのためではない、)

「匿って下さい、私のためではない、

(はんぜんたいのためにしんではならないのです、)

藩ぜんたいのために死んではならないのです、

(あなたがぶしのむすめならわかるはずだ、おねがいします」)

あなたが武士の娘ならわかる筈だ、お願いします」

(それがともやであるとはっきりわかるまえに)

それが知也であるとはっきりわかるまえに

(しのはかれをうえへあげ、あまどをしめた。)

信乃は彼を上へあげ、雨戸を閉めた。

(「にわにあしあとはのこっておりませんか」)

「庭に足跡は残っておりませんか」

(「だいじょうぶです、ゆきがけしてくれました」)

「大丈夫です、雪が消して呉れました」

(「そのままこちらへ、どうぞ」)

「そのままこちらへ、どうぞ」

(ともやははだしであった。ざっとふいただけであがると、)

知也は跣足であった。ざっと拭いただけであがると、

(しのはじぶんのいまへつれてゆき、なんどをあけてなかへいれた。)

信乃は自分の居間へつれてゆき、納戸をあけて中へいれた。

(「ここはわたくしのほかにけっしてひとはまいりません。)

「此処はわたくしのほかに決して人はまいりません。

(いまなにかあたたかいものをもってまいります、)

いまなにか温かい物を持ってまいります、

(そこにふるやぐがございますから、)

そこに古夜具がございますから、

(どうぞおらくになすっていてくださいまし」)

どうぞお楽になすっていて下さいまし」

(しのはふすまをしめてもどり、ろうかからたたみのうえをよくみてまわった。)

信乃は襖を閉めて戻り、廊下から畳の上をよく見てまわった。

(おっとはみつける。よごれたところをたんねんにふきながら、)

良人はみつける。汚れたところを丹念に拭きながら、

(あたまのどこかでそういうけいこくをきいた。)

頭のどこかでそういう警告を聞いた。

(おっとはかならずみつけるにちがいない、あのれいこくな、)

良人は必ずみつけるに違いない、あの冷酷な、

(ようしゃのないめからのがれることはできない。きっとみつけるにそういない。)

容赦のない眼から逃れることはできない。きっとみつけるに相違ない。

(しのはのどへかたいものがつまったようにかんじ、)

信乃は喉へ固い物が詰ったように感じ、

(つばをのみこもうとして、はきそうになった。)

睡をのみこもうとして、嘔きそうになった。

(ろのまでぞうすいをこしらえていると、こうのすけのむずかるこえがし、)

炉の間で雑炊を拵えていると、甲之助のむずかる声がし、

(うばがかわやへだいてゆくのがきこえた。)

乳母が厠へ抱いてゆくのが聞えた。

(そのあとはまたしんかんとしずまった。)

そのあとはまた森閑と鎮まった。

(さいわいなのはこどもとはなされていることだ、)

さいわいなのは子供と離されていることだ、

(こうのすけとうばとはろうかをかぎなりにまがって、)

甲之助と乳母とは廊下を鍵なりに曲って、

(いつつばかりむこうのへやにいる、)

五つばかり向うの部屋にいる、

(おっとのこのみでめしつかいたちもずっとはなれていた。)

良人の好みで召使たちもずっと離れていた。

(でもおっとはみつけるだろう。)

でも良人はみつけるだろう。

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