日本婦道記 梅咲きぬ 山本周五郎 ①
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数4212かな314打
-
プレイ回数96万長文かな1008打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数1.3万長文かな822打
-
プレイ回数809歌詞かな200打
-
プレイ回数364長文526打
-
プレイ回数25長文かな1546打
問題文
(「どうかしたのか、かおいろがすこしわるいようにおもうが」)
「どうかしたのか、顔色がすこしわるいように思うが」
(なおてるのきづかわしげなまなざしに)
直輝の気づかわしげなまなざしに
(かよはそっとほおをおさえながらびしょうした。)
加代はそっと頬をおさえながら微笑した。
(「おめざわりになってもうしわけがございません、)
「お眼ざわりになって申しわけがございません、
(さくやとうとうよるをあかしてしまったものでございますから」)
昨夜とうとう夜を明かしてしまったものでございますから」
(「どうして、なにかあったのか」)
「どうして、なにかあったのか」
(「はあ」かよははれぼったいめもとで)
「はあ」加代は腫れぼったい眼もとで
(はずかしそうにちらりとおっとをみあげた。)
恥ずかしそうにちらりと良人を見あげた。
(びょうしんというほどではないにしても、ほねぼそのたおやかなからだつきで、)
病身というほどではないにしても、骨ぼそのたおやかなからだつきで、
(こすぎるほどのまゆにもべにをさしたようなあかいくちもとにも、)
濃すぎるほどの眉にもべにをさしたような朱い唇もとにも、
(どこかしらんあやういうつくしさがかんじられる、)
どこかしらん脆い美しさが感じられる、
(なおてるはつまのめもとをみてうなずいた。「そうか、うたか」)
直輝は妻の眼もとを見て頷いた。「そうか、歌か」
(「はい、かんやのうめというだいをいただいているのですけれど、)
「はい、寒夜の梅という題をいただいているのですけれど、
(どうよみましてもこかににてしまいますので」)
どう詠みましても古歌に似てしまいますので」
(「いっしゅもなしか」「あけがたになりましてようやく」)
「一首もなしか」 「明けがたになりましてようやく」
(「それはみたいな」なおてるははかまのひもを、きゅっとしめながらいった。)
「それはみたいな」直輝は袴の紐を、きゅっとしめながら云った。
(したくがすんでいまへもどると、ちゃをたててきたかよは、)
支度がすんで居間へもどると、茶を点てて来た加代は、
(はじをふくみながらいちまいのたんざくをそっとさしだした。)
羞をふくみながら一枚の短冊をそっとさし出した。
(「おはずかしいものでございます」)
「おはずかしいものでございます」
(なおてるはてにとって、くりかえしくちずさんでいたが、)
直輝は手にとって、くりかえしくちずさんでいたが、
(やがてしずかにてんもくをとりあげてつまをみた。)
やがてしずかに天目をとりあげて妻を見た。
(「おとといであったが、よこやまがさいじょのはなしだといって、)
「一昨日であったが、横山が妻女のはなしだといって、
(おまえにはもうまもなくいんかがさがるだろうともうしていたが、)
お前にはもう間もなく允可がさがるだろうと申していたが、
(そのようなはなしがあるのか」)
そのようなはなしがあるのか」
(「はい、ついせんじつそういうごないだんはございました、)
「はい、ついせんじつそういうご内談はございました、
(ですけれどまだわたくしはみじゅくものでございますから」)
ですけれどまだわたくしは未熟者でございますから」
(つつましくめはふせたけれど、そっとびしょうするくちもとにはかくしんのいろがあった。)
つつましく眼は伏せたけれど、そっと微笑する唇もとには確信の色があった。
(「いんかがさがったらうたかいでももよおすかな」)
「允可がさがったら歌会でも催すかな」
(そういってなおてるはたった。)
そう云って直輝は立った。
(いんきょじょへゆくとははのかなじょはふるいこぎれをあつめて)
隠居所へゆくと母のかな女は古い小切を集めて
(なにかはぎぬいをしていた。)
なにかはぎ縫いをしていた。
(「ははうえただいまとじょうをつかまつります」「ごくろうでございます」)
「母上ただいま登城をつかまつります」「ご苦労でございます」
(かなじょはめがねをとり、えしゃくをかえしてからみおくるためにざをたった。)
かな女はめがねをとり、会釈をかえしてから見送るために座を立った。
(ごうふ、ごうしたちとともに、なおてるをげんかんにみおくったかなじょは、)
家扶、家士たちと共に、直輝を玄関に見送ったかな女は、
(よめとろうかをもどりながらそのかおいろのすぐれないことにめをとめた。)
嫁と廊下をもどりながらその顔色のすぐれないことに眼をとめた。
(かよはおっとにとわれたよりもこころぐるしそうに、)
加代は良人に問われたよりも心ぐるしそうに、
(「ついよふかしをいたしまして」とひくいこえでこたえた。)
「つい夜更しをいたしまして」と低いこえで答えた。
(「そういえば、あなたのおへやのまどにいつまでもあかしがうつっているので、)
「そういえば、あなたのお部屋の窓にいつまでもあかしがうつっているので、
(おけしわすれではないかとおもいました」)
お消し忘れではないかと思いました」
(そういってかなじょはふとよめのめをみた。)
そう云ってかな女はふと嫁の眼を見た。
(「それでうたはおできになりましたの」)
「それで歌はおできになりましたの」
(「はい」かよはどきっとした。)
「はい」 加代はどきっとした。
(よふかしをしたといえばうたをよんでいたということはすぐに)
夜更かしをしたといえば歌を詠んでいたということはすぐに
(わかるはずではあるが、そのときはみょうにふいをつかれたかんじだった。)
わかる筈ではあるが、その時は妙にふいをつかれた感じだった。
(「しばらくあなたのおうたをはいけんしませんからごきんさくといっしょに、)
「しばらくあなたのお歌を拝見しませんからご近作といっしょに、
(もってきてはいけんさせてくださらないか」)
持って来て拝見させて下さらないか」
(「ごらんいただくようなものはございませんけれど」)
「御覧いただくようなものはございませんけれど」
(よかんというのであろう、かよのこころはつよく)
予感というのであろう、加代の心はつよく
(とがめられるようなふあんをかんじた。)
咎められるような不安を感じた。
(かなじょはへやをきれいにかたづけ、こうをたいてまっていた。)
かな女は部屋をきれいに片づけ、香をたいて待っていた。
(このやしきにはうめのきがおおかった。)
この屋敷には梅の木が多かった。
(とりわけいんきょじょのまえにはなきあるじさぶろうざえもんが)
とりわけ隠居所の前には亡きあるじ三郎左衛門が
(「そうりゅう」となづけたこぼくがあって、きっくつとしたえだぶりに)
「蒼竜」と名づけた古木があって、佶屈としたえだぶりに
(よくあおごけがつき、いつもはるごとにもっともはやくはなをさかせる。)
よく青苔がつき、いつも春ごとにもっとも早く花を咲かせる。
(いまもまだほかのうめはつぼみがかたいのに、)
いまもまだほかの梅は蕾がかたいのに、
(ここではもうこずえのあちらこちら、)
ここではもう梢のあちらこちら、
(やわらかくほころびかかっているのがみえた。)
やわらかくほころびかかっているのがみえた。
(ぬれえんからへやのたたみいちじょうほどまでひがさしこんでいた、)
ぬれ縁から部屋の畳一帖ほどまで陽がさしこんでいた、
(びふうもなくはれたうららかなあさで、いかにもはるのちかいことを)
微風もなく晴れたうららかな朝で、いかにも春の近いことを
(おもわせるあたたかさだった。かよはきちんとすわり、)
思わせる暖かさだった。加代はきちんと坐り、
(ひざのうえにかさねたじぶんのてをじっとみまもっていたが、)
膝の上に重ねた自分の手をじっと見まもっていたが、
(いっすいもしなかったつかれがしだいにでてきて、)
一睡もしなかった疲れがしだいに出てきて、
(ともすればきがとおくなりそうなほどのねむけにおそわれた。)
ともすれば気が遠くなりそうなほどのねむけに襲われた。