日本婦道記 春三たび 山本周五郎 ②
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問題文
(いおはじゅうななさいだった。みののくにおおがきはんのとだけで、)
伊緒は十七歳だった。美濃のくに大垣藩の戸田家で、
(かちぐみばんがしらをつとめるはやしはちろうえもんのむすめにうまれ、)
徒士ぐみ番がしらを勤める林八郎右衛門のむすめに生れ、
(せいのしんというあにと、いしろうというおとうとがあった。)
正之進という兄と、伊四郎という弟があった。
(かのじょはみめかたちのすぐれてうつくしいうまれつきで、)
かの女はみめかたちのすぐれて美しいうまれつきで、
(じゅうしごになるともうしょほうからえんだんがおこり、)
十四五になるともう諸方から縁談がおこり、
(ぜひとのぞんでくるかなりなけんもんもあった、)
ぜひと望んでくるかなりな権門もあった、
(けれどもはちろうえもんはがんこにあたまをふりつづけた、)
けれども八郎右衛門は頑固に頭を振りつづけた、
(「みめかたちでのぞまれるものは、やがてまたみめかたちでうとんじられる、)
「みめかたちで望まれるものは、やがてまたみめかたちで疎んじられる、
(ようぼうはすぐにおとろえるもので、)
容貌はすぐに衰えるもので、
(そのようなふたしかなものにめをつけるのは、たのみがたいあいてだ」)
そのような不たしかなものに眼をつけるのは、たのみがたい相手だ」
(そういうちちのことばをいくたびもきくうちに、)
そういう父の言葉をいくたびも聞くうちに、
(いおは、ひところじぶんのうつくしいうまれつきをはずかしくさえおもったほどであった。)
伊緒は、ひところ自分の美しいうまれつきを恥かしくさえ思ったほどであった。
(はちろうえもんはかのじょがじゅうななさいのたんじょうをむかえると、)
八郎右衛門はかの女が十七歳の誕生を迎えると、
(かねてめをつけていたもののようにわちでんしろうへえんづけたのであった。)
かねて眼をつけていたもののように和地伝四郎へ縁づけたのであった。
(かちゅうのひとびとはめをみはった、わちはにじゅっこくあまりのかちだったし、)
家中の人々は眼をみはった、和地は二十石あまりの徒士だったし、
(さしてぬきんでたひとがらでもない、)
さしてぬきんでたひとがらでもない、
(ろうぼとびょうしんのおとうとがあってかけいもまずしく、)
老母と病身の弟があって家計も貧しく、
(ごおんでんをたがやしてほそぼそとくらしていた。)
御恩田を耕してほそぼそとくらしていた。
(ごおんでんというのははんしゅとだうじかねがもうけたもので、)
御恩田というのは藩主戸田氏銕が設けたもので、
(じょうかちかくのあれちをひろくかいこんし、)
城下近くの荒地をひろく開墾し、
(そこでびろくのさむらいたちにのうこうをさせるのである。)
そこで微禄の士たちに農耕をさせるのである。
(できたものなりはごぶをじょうのうするだけで、)
出来たものなりは五分を上納するだけで、
(あとはじぶんのものになるきめだったから)
あとは自分のものになるきめだったから
(ふちのすくないものにとってはありがたいおんてんだった。)
扶持のすくない者にとってはありがたい恩典だった。
(もちろんそれはたんにびろくのさむらいをきゅうじゅつするというだけではなく、)
もちろんそれは単に微禄の士を救恤するというだけではなく、
(ぶとのうとをがっちさせることによって)
武と農とを合致させることによって
(しつじつのふうをやしなういみもあったのであるが、)
質実の風をやしなう意味もあったのであるが、
(しかしいっぱんには「ごおんでんもち」というと)
しかし一般には「御恩田持ち」というと
(かるくみられるのがさけられないじじつであった、)
軽くみられるのが避けられない事実であった、
(いおのちちはちろうえもんはそのけいはくなめをおどろかしたのである。)
伊緒の父八郎右衛門はその軽薄な眼をおどろかしたのである。
(こしいれをするまえはちろうえもんはむすめにむかってじゅんじゅんとといた。)
輿入をするまえ八郎右衛門はむすめに向って諄々と説いた。
(ぶしだからふちをいただいておればよいということはない、)
武士だから扶持を頂いておればよいということはない、
(たいへいになればごほうこうにもいとまがある、)
泰平になれば御奉公にもいとまがある、
(たちをもつてにくわをとるのもさむらいのみちだ、)
太刀をもつ手に鍬をとるのもさむらいの道だ、
(いにしえはみなそうだった、くわをにぎってごこくをつくり、)
いにしえはみなそうだった、鍬をにぎって五穀を作り、
(たちをとってはくにをまもる、これがこぶしのすがただった、)
太刀をとっては国をまもる、これが古武士のすがただった、
(そしてそういういきかたのなかにこそみちのまことがつたわるのだ、)
そしてそういう生きかたのなかにこそ道のまことが伝わるのだ、
(よいか、これもとくとこころえておけ。)
よいか、これもとくと心得ておけ。
(いおにはちちのきもちがよくわかった。)
伊緒には父の気持がよくわかった。
(ちちはかのじょにえいたつをさせようとはかんがえなかった、)
父はかの女に栄達をさせようとは考えなかった、
(あんらくなしょうがいをとものぞまなかった、まことのみちにそって、)
安楽な生涯をとも望まなかった、まことの道にそって、
(おのれのちからでつみあげてゆくじんせいをあたえてくれようとしたのだ。)
おのれのちからで積みあげてゆく人生を与えてくれようとしたのだ。
(わちけへかしてきて、うまれてはじめてのうじにてをつけたとき、)
和地家へ嫁してきて、生れてはじめて農事に手をつけたとき、
(だからいおはかえっていきがいをさえかんじた、すべてはこれからだ。)
だから伊緒はかえって生き甲斐をさえ感じた、すべてはこれからだ。
(そういうきがした、これからすべてをおっとと)
そういう気がした、これからすべてを良人と
(ふたりしてきづきあげてゆくのだ、そういうじっかんのたしかさが、)
ふたりして築きあげてゆくのだ、そういう実感のたしかさが、
(じゅうななさいのかのじょにはいかにもちからづよく、しんせんにおもえた。)
十七歳のかの女にはいかにもちから強く、新鮮に思えた。
(そしてにじゅうよにち、まだ「つま」ということばさえしかとはみにつかぬうち、)
そして二十余日、まだ「妻」という言葉さえしかとは身につかぬうち、
(おっとははれのせんじょうにめぐまれてしゅつじんすることになったのである。)
良人は晴れの戦場にめぐまれて出陣することになったのである。
(とだうじかねがおおがきへかえったのはじゅうにがつふつかだった。)
戸田氏銕が大垣へかえったのは十二月二日だった。
(じんぞろえはできていた、さえもんうじかねをはじめそのこあわじのかみうじつね、)
陣ぞろえはできていた、左衛門氏銕をはじめその子淡路守氏経、
(じなんさぶろうしろう、ろうしんではおおたかきんえもん、とだじろうえもん、)
二男三郎四郎、老臣では大高金右衛門、戸田治郎右衛門、
(そしてきばかちともにせんひゃくよにんである、)
そして騎馬徒士とも二千百余人である、
(わちでんしろうもにんずうにはいっていたし、)
和地伝四郎も人数にはいっていたし、
(いおのじっかでもあにとおとうとがおともにめされた。)
伊緒の実家でも兄と弟がお供に召された。
(ちちはこしつのいがひどくわるくてうごけず、)
父は痼疾の胃がひどく悪くて動けず、
(ないてむねんがったということをいおはあとできいた。)
泣いて無念がったということを伊緒はあとで聞いた。
(ぎていのいくのすけもないたひとりだった。)
義弟の郁之助も泣いたひとりだった。
(「ではるすをたのむぞ」)
「では留守をたのむぞ」
(そういってでんしろうがでていったとき、)
そう云って伝四郎が出ていったとき、
(いおとともにかれはおもてまでおくってゆき、)
伊緒と共にかれは表まで送ってゆき、
(そこにたったままぽろぽろとなみだをこぼしてないた。)
そこに立ったままぽろぽろと涙をこぼして泣いた。
(「ざんねんだ、こんなからだなら、いっそうまれてこないほうがましだった」)
「残念だ、こんなからだなら、いっそ生れてこないほうがましだった」
(くちおしそうにつぶやきながらいつまでもそこでないていた。)
口惜しそうに呟きながらいつまでもそこで泣いていた。
(いおはそれをきくとしめつけられるようにいたわしくなり、)
伊緒はそれを聞くとしめつけられるようにいたわしくなり、
(いっしょにおもてをおおってないた、そしてなきながらはげしくしかった。)
いっしょに面を掩って泣いた、そして泣きながらはげしく叱った。
(「なんというめめしいことをおっしゃるのです、)
「なんというめめしいことを仰しゃるのです、
(せんじょうへゆくばかりがさむらいですか、からだがじょうぶでぶじゅつにもたっしていて、)
戦場へゆくばかりがさむらいですか、からだが丈夫で武術にも達していて、
(それでもるすじろへおのこりなさるかたがたくさんあります、)
それでも留守城へお残りなさるかたがたくさんあります、
(ここにもごほうこうのみちはあるはずでしょう、あにうえさまにまんいちのことがあれば、)
ここにも御奉公の道はあるはずでしょう、兄上さまに万一のことがあれば、
(あなたはわちのいえをつぐべきひとなのですよ、)
あなたは和地の家を継ぐべきひとなのですよ、
(そんなめめしいことはにどとおっしゃってはいけません」)
そんなめめしいことは二度と仰しゃってはいけません」
(「あねうえにはおわかりにならない」いくのすけはさけぶようにいった、)
「あね上にはおわかりにならない」郁之助は叫ぶように云った、
(「るすのばんとしてのこるのとびょうじゃくでおやくにたたないのとはことがちがいます、)
「留守の番として残るのと病弱でお役にたたないのとはことが違います、
(けれどそれは、もうしあげてもおわかりにならない」)
けれどそれは、申上げてもおわかりにならない」
(そしてうででおもてをおさえながら、にげるようにいえのなかにはしりさった、)
そして腕で面を押えながら、逃げるように家のなかに走り去った、
(かれはいおよりひとつしたのじゅうろくさいであった。)
かれは伊緒よりひとつ下の十六歳であった。