日本婦道記 春三たび 山本周五郎  ④

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伊緒は和地家に嫁いで間もないが、夫・伝四郎が戦に行くことになる。

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(いくのすけはそのあといちどなおってけいこへでたが、それでまたかぜをひきかえし、)

郁之助はその後いちどなおって稽古へ出たが、それでまた風邪をひきかえし、

(こんどははつねつとがんこなせきにくるしめられてとこについてしまった、)

こんどは発熱と頑固な咳にくるしめられて床についてしまった、

(いおのてはいそがしくなるばかりだった、よるをてっすることもいくたびかあった、)

伊緒の手はいそがしくなるばかりだった、夜を徹することも幾たびかあった、

(しかしこのあいだにきこうはいつかゆるみはじめ、)

しかしこのあいだに季候はいつかゆるみはじめ、

(おもいだしたようにふるゆきもしめりけがおおくて、)

思いだしたように降る雪もしめりけが多くて、

(つもるいとまもなくきえるようになった。)

積るいとまもなく消えるようになった。

(のづらのざんせつがしらぬまにとけさると、)

野づらの残雪が知らぬまに溶け去ると、

(つつみのひだまりやたのあぜにちらちらとあおみがさしはじめ、)

堤の日だまりや田の畔にちらちらと青みがさしはじめ、

(くいせがわはとくとくとみずかさをました、)

杭瀬川はとくとくと水かさを増した、

(そしてあるひ、くるったようにとうなんのあたたかいかぜがふきあれたあと、)

そしてある日、狂ったように東南の暖かい風が吹き荒れたあと、

(まるでそのかぜがはこんできたもののようにはるがおとずれた。)

まるでその風がはこんで来たもののように春がおとずれた。

(にがつになってからくせんをほうずるばかりだったしまばらからは、)

二月になってから苦戦を報ずるばかりだった島原からは、

(「ほういじんになった」としらせてきたまましばらくさたをたっていたが、)

「包囲陣になった」と知らせてきたまましばらく沙汰を絶っていたが、

(さんがつふつか、ぞくととのあいだにげきせんのはじまったというししゃがき、)

三月二日、賊徒とのあいだに激戦のはじまったという使者が来、

(おいかけてむいかには、「にがつにじゅうしちにちはらじょうおつ、ぞくとちゅうにふす」)

追いかけて六日には、「二月二十七日原城陥つ、賊徒誅に伏す」

(というしょうほうがとうちゃくした。)

という捷報が到着した。

(そのしらせをきいてから、かえっていおはこころのおちつきをなくし、)

その知らせを聞いてから、かえって伊緒は心のおちつきをなくし、

(どうかするといてもたってもいられぬほどふあんなきもちにかられた。)

どうかすると居ても立ってもいられぬほど不安な気持に駆られた。

(じゅうはちにちになるとししょうしゃのきめいがとどいた、おもいのほかにそんがいはすくなく、)

十八日になると死傷者の記名が届いた、思いのほかに損害はすくなく、

(ししゃはないとうきゅうえもん、なりかわいちろうべえ、さかいげんえもん、もりでんべえのよにん、)

死者は内藤九右衛門、成川一郎兵衛、酒井源右衛門、森伝兵衛の四人、

など

(ふしょうしゃはむらいごろうざえもんいかさんじゅうよにんにすぎなかった。)

負傷者は村井五郎左衛門以下三十余人にすぎなかった。

(きめいしょはわちけへもまわされた、)

記名書は和地家へもまわされた、

(いおはしゅうとめといっしょによんだのだがきがあがってもじがよくわからず、)

伊緒は姑といっしょに読んだのだが気があがって文字がよくわからず、

(どこにもおっとのなのないことをたしかめるまでには)

どこにも良人の名のないことをたしかめるまでには

(さんどもよみかえさなければならなかった。)

三度も読みかえさなければならなかった。

(「でんしろうどのはごぶじのようですね」)

「伝四郎どのはごぶじのようですね」

(そういうしゅうとめのこえもこころなしかふるえていた、)

そういう姑の声も心なしかふるえていた、

(こたえようとしたがのどがつかえた、)

答えようとしたが喉がつかえた、

(それでいおはびょうどこにいるいくのすけにみせるためにいそいでたっていった。)

それで伊緒は病床にいる郁之助にみせるためにいそいで立っていった。

(しょうへいがおおがきへがいせんしたのはごがつようかのことだった。)

将兵が大垣へ凱旋したのは五月八日のことだった。

(はんしゅのとだおやこはそのままえどへくだったのでおもてむきのしゅくえんはなかったが、)

藩主の戸田父子はそのまま江戸へくだったので表むきの祝宴はなかったが、

(さむらいやしきはどこもかしこもよろこびにわきたっていた。)

侍屋敷はどこもかしこも歓びにわきたっていた。

(けれども、そのなかでわちのいえだけはひっそりとねをひそめていた、)

けれども、そのなかで和地の家だけはひっそりと音をひそめていた、

(ふしょうしゃのいえでも、せんししゃのいえでさえも、)

負傷者の家でも、戦死者の家でさえも、

(このいっかほどしめやかにちんもくしてはいなかった。)

この一家ほどしめやかに沈黙してはいなかった。

(おもいもかけぬおそろしいけっかがわちのかぞくをうちのめしていた、)

思いもかけぬ恐ろしい結果が和地の家族をうちのめしていた、

(それはでんしろうがかえらなかったのである、)

それは伝四郎が帰らなかったのである、

(ししょうしゃのきめいにもそのなはなかったし、)

死傷者の記名にもその名はなかったし、

(がいじんしたにんずうのなかにもいない、しかもふこうはそれだけでなく、)

凱陣した人数のなかにもいない、しかも不幸はそれだけでなく、

(そのことについてきくもいまわしいうわさがひとのくちにつたわっていたのだ。)

そのことについて聞くも忌わしい噂がひとの口に伝わっていたのだ。

(「にがつにじゅうしちにちのそうぜめにしろへふみこむまではみたものもある、)

「二月二十七日の総攻めに城へ踏みこむまでは見た者もある、

(それからさきはだれにもわからない、まったくゆくへふめいなのだ」)

それからさきは誰にもわからない、まったくゆくえ不明なのだ」

(ばんがしらはそうせつめいした、)

番がしらはそう説明した、

(「しろはやけおちたので、したいはずいぶんねんいりにさがしてみたが、)

「城は焼け落ちたので、死躰はずいぶん念いりに捜してみたが、

(みつからなかった、せめていひんのはしきれでもあれば、)

みつからなかった、せめて遺品のはしきれでもあれば、

(なんとかうちじにということにもできたのだが」)

なんとか討死ということにもできたのだが」

(おなじたいでたたかったひとたちもどうようのことしかいわなかった、)

おなじ隊で戦った人たちも同様のことしか云わなかった、

(そしてもっとたえがたかったのは、)

そしてもっと堪えがたかったのは、

(でんしろうはせんじょうからにげたらしいというひょうばんがひろまったことだった。)

伝四郎は戦場から逃げたらしいという評判がひろまったことだった。

(どうしてそんなひょうばんがひろまったのか、どこからでたのか、)

どうしてそんな評判がひろまったのか、どこから出たのか、

(つきつめてゆくとこんきょはなかった、)

つきつめてゆくと根拠はなかった、

(けれどもいちどくちのはにのぼったうわさはどうしようもない、)

けれどもいちど口の端にのぼった噂はどうしようもない、

(あまりのいがいさ、あまりのくちおしさに、)

あまりの意外さ、あまりの口惜しさに、

(いおはあたまがこんらんしてかんがえるちからもうしなってしまった。)

伊緒はあたまが昏乱して考えるちからも失ってしまった。

(しゅうとめのすぎじょはひねもすへやのすみでじっといきをころしていたし、)

姑のすぎ女は日ねもす部屋の隅でじっと息をころしていたし、

(いくのすけはびょうどこにぎらぎらとめをひからせていた、)

郁之助は病床にぎらぎらと眼を光らせていた、

(そしてときどきちをはくほどもはげしくせきこんだ。)

そしてときどき血を吐くほどもはげしく咳きこんだ。

(あんたんとしたいきぐるしいひがつづいた、そしてあるひ、)

暗澹とした息ぐるしい日がつづいた、そしてある日、

(やりぐみばんがしらのひらたげんばとじっかのあにのせいのしんとがおとずれてきた。)

槍ぐみ番がしらの平田玄蕃と実家の兄の正之進とがおとずれて来た。

(げんばはでんしろうといおとのなかだちをしたひとである、)

玄蕃は伝四郎と伊緒とのなかだちをした人である、

(ふたりのかおをみたときいおはすぐにようむきがなんであるかをさっした、)

ふたりの顔を見たとき伊緒はすぐに用向がなんであるかを察した、

(けれどまゆもうごかさなかった。)

けれど眉も動かさなかった。

(「きょうはごないいをうかがいにきたのだが」しゅうとめとのあいだにあいさつがすむと、)

「今日はご内意をうかがいに来たのだが」姑とのあいだに挨拶が済むと、

(げんばがあらたまったちょうしでいいだした、)

玄蕃があらたまった調子で云いだした、

(「あまくさへしゅつじんのおりでんしろうどのからおはなしがあった、)

「天草へ出陣のおり伝四郎どのからお話があった、

(もしもでんしろうどのがかえらなかったばあいには、かしてひもあさし、)

もしも伝四郎どのが帰らなかった場合には、嫁して日も浅し、

(いえにはあととりもいることゆえいおどのをじっかへもどしたい、)

家には跡取りもいることゆえ伊緒どのを実家へもどしたい、

(ははもとうにんもしょうちであるとそういわれたがごしょうちであろうか」)

母も当人も承知であるとそう云われたがご承知であろうか」

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