ああ玉杯に花うけて 第十一部 1

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プレイ回数513難易度(5.0) 5829打 長文
大正時代の少年向け小説!
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問題文

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(やなぎいっかはいつもこうふくにみたされていた、こういちのこころはいつもへいあんであった、)

柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、

(かれのいちばんすきなのはあさである。かれはあさにめをさますとねどこのなかでこうかを)

かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと寝床の中で校歌を

(ひとつうたう、それからとこをでてちょうずをつかいちゃのまへゆくとちちとははといもうとが)

一つうたう、それから床をでて手水をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が

(まっている。「おにいさんはねぼうね」いもうとのふみこはいつもこうわらう、きょうだいの)

待っている。「お兄さんは寝坊ね」妹の文子はいつもこうわらう、兄妹の

(きやくとしておそくおきたものがおじぎをすることになっている、こういちはまいにちいもうとに)

規約としておそく起きたものがおじぎをすることになっている、光一は毎日妹に

(おじぎをせねばならなかった。しゃくにさわるがしかたがない。ちゃのまには)

おじぎをせねばならなかった。癪にさわるが仕方がない。茶の間には

(さわやかなあさひがいっぱいにさしこむ。めしびつやなべからあがるゆげは)

さわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気は

(むつまじげににっこうとあそんでいる、ちちはにこにこしてふたりのこをみくらべる、)

むつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、

(はははさんにんのおきゅうじにいそがしくじぶんでたべるひまもなかった。かのじょは)

母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は

(こういちとふみこのしょくりょくをけいさんすることをけっしてわすれなかった、きょうはいつもよりおおく)

光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く

(たべたといってはよろこびすくなくたべたといってはびょうきではないかとしんぱいする。たいてい)

食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。大抵

(こういちはごはいのめしをたべるがふみこはさんばいであった、5たい3ではあるが、こういちのほうは)

光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、光一の方は

(すぴーどがはやいのでほとんどどうじにおしまいになる、それからいっしょにいえをでる。)

スピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それから一緒に家をでる。

(「おまえあとからおいで」「にいさんはおとこだからあとになさいよ」このあらそいは)

「おまえ後からおいで」「兄さんは男だから後になさいよ」この争いは

(たゆることがない、に、さんねんまえまではいっしょにかたをならべていったものだが、)

絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、

(このごろではふたりそろうてゆくのはきまりがわるい。とくにこういちにとってはめいわくしごく)

このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極

(であった。「きみのいもうとはきれいだね」こうともだちにいわれてからかれはたとえ)

であった。「きみの妹は綺麗だね」こう友達にいわれてからかれはたとえ

(おやじのそうしきのひでもいもうとといっしょにはあるかないとかくごをきめた。だがかれはいもうとが)

親父の葬式の日でも妹と一緒には歩かないと覚悟を決めた。だがかれは妹が

(すきであった、いもうとはすらりとしせいがよく、おさげののうてんにみずいろのちょうちょうの)

好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天に水色のちょうちょうの

(りぼんをつけているが、それがあさひにかがやいていかにもかわいらしい、かれはまた)

リボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた

など

(ふみこのながいえびちゃのはかまやそのしたからみえるまっすぐなあしとくつのかっこうが)

文子の長いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚と靴の恰好が

(すきであった。ふみこはようふくよりもわふくがにあう。ふみこはまただれよりもにいさんが)

好きであった。文子は洋服よりも和服が似合う。文子はまただれよりも兄さんが

(すきであった、やきゅうじあいのあるときにはかのじょはいつもおうえんきをもってでかけた)

好きであった、野球試合のあるときにはかの女はいつも応援旗を持ってでかけた

(にいさんがまけたときにはいえへかえってゆうはんもたべずにねてしまうのでいつもははに)

兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに寝てしまうのでいつも母に

(わらわれた。そのくせふたりはおりおりけんかをした、ふみこのいちばんきらいなことは)

わらわれた。そのくせふたりはおりおり喧嘩をした、文子の一番嫌いなことは

(かおがふくれたといわれることである。「おい、おまえのほっぺたがだんだん)

顔がふくれたといわれることである。「おい、おまえの頬っぺたがだんだん

(ふくれてきたね」「いいわ」「うしろからみるとほっぺたがみみのわきにつきでてる)

ふくれてきたね」「いいわ」「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてる

(ぞ」「いいわ」「ぼくがやおやのまえをとおったらおまえのほっぺたをうってたよ、)

ぞ」「いいわ」「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬っぺたを売ってたよ、

(かってこようとおもったらまるいなすだった」「いいわ、にいさんだってはなのさきに)

買ってこようと思ったら丸いなすだった」「いいわ、兄さんだって鼻の先に

(にきびがあるじゃないの?」「これはじきなおるよ」「くちのはたに)

ニキビがあるじゃないの?」「これはじきなおるよ」「口のはたに

(ほくろがあるからおおぐいだわ」「くうにこまらないほくろなんだ」けんかのおわりは)

黒子があるから大食いだわ」「食うに困らない黒子なんだ」喧嘩のおわりは

(いつもこういちがははにしかられることになっている。だがふたりのむつまじさは)

いつも光一が母に叱られることになっている。だがふたりのむつまじさは

(よそのみるめもうらやましいほどであった。ふみこはこころのそこからあにをそんけいしていた)

よその見る目もうらやましいほどであった。文子は心の底から兄を尊敬していた

(というのはかのじょはがっこうからかえってあににえいごやかんぶんのしたよみをしてもらう、)

というのはかの女は学校から帰って兄に英語や漢文の下読みをしてもらう、

(それにはひとつもあやまりがないからである。かのじょのともだちもことごとくこういちを)

それには一つもあやまりがないからである。かの女の友達もことごとく光一を

(すきであった、かのじょらがふみこのもとへあそびにくると、ふみこはあにのしょさいを)

好きであった、かの女等が文子のもとへ遊びにくると、文子は兄の書斎を

(いちらんさせる、おおきなしょだなにならべられたわようのしょせきをみてかのじょらはいずれも)

一覧させる、大きな書棚に並べられた和洋の書籍を見てかの女等はいずれも

(きょうたんのこえをあげる。あにがほめられるのはふみこにとってむじょうのよろこびであった。)

驚歎の声をあげる。兄がほめられるのは文子に取って無上の喜びであった。

(あるひふみこはざっしをかおうとおもってがまぐちをふところにしてそとへでた、ざっしやの)

ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐にして外へでた、雑誌屋の

(てんとうにだんじょのがくせいがむれていた。このみせはにねんまえまではしごくちいさなみせでぶんぼうぐ)

店頭に男女の学生が群れていた。この店は二年前までは至極小さな店で文房具

(すこしばかりとえほんすこしをならべていたのだが、みるみるはんじょうしだしてしょせきやざっしが)

少しばかりと絵本少しを並べていたのだが、見る見る繁昌しだして書籍や雑誌が

(くずれるまでにつまれてある。やせたしんけいしつらしいおかみさんはひとりのいつも)

くずれるまでに積まれてある。やせた神経質らしいおかみさんはひとりのいつも

(ねむそうにしているこぞうをひどくどなりつけておきゃくのてさきとしょうひんとをかんしさせて)

眠そうにしている小僧をひどくどなりつけてお客の手先と商品とを監視させて

(いるが、それでもまいにちいっさつぐらいはぬすまれるのである。がくせいのなかにはまいにち)

いるが、それでも毎日一冊ぐらいは盗まれるのである。学生の中には毎日

(きまってざっしをよみにくるのがある、それがいっさつでもかうのかとおもうといっさつも)

決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと一冊も

(かわない、にじかんもたってひととおりよみおわるとよくじつまたべつなのをよみにくる、)

買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、

(こういうのはただよんでゆくだけだからつみがかるいが、ひどいのになるとご、ろくにん)

こういうのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人

(だんけつしてあれやこれやとひっくりかえしてそのこんざつにまぎれてふところへ)

団結してあれやこれやとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへ

(かきこむ。たいていはそのかおをしっているものの、ことをあらだてるとかえって)

かきこむ。大抵はその顔を知っているものの、ことをあらだてるとかえって

(みせのにんきがなくなる。そこでおかみさんのかんしゃくがこぞうのあたまにはれつする。)

店の人気がなくなる。そこでおかみさんの癇癪が小僧の頭に破裂する。

(「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりっ。こぞうだってあさからばんまで)

「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりッ。小僧だって朝から晩まで

(どろぼうのはりばんをするということはなかなかつらい、かれはじゅうしちになるが、)

どろぼうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七になるが、

(じゅうさんかじゅうしぐらいにしきゃみえない、まいにちまいにちあたまをなぐられるからうえのほうへ)

十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ

(のびないのだとかれみずからしんじている。ふみこはしんかんのしょうじょざっしとえいごのざっしを)

伸びないのだとかれ自ら信じている。文子は新刊の少女雑誌と英語の雑誌を

(かった、それからしょだなをみるとかんぶんのじてんがあったのでそれをひきぬいた、)

買った、それから書棚を見ると漢文の字典があったのでそれを引きぬいた、

(それでやめにしようとおもったがこのときかのじょはげんだいめいがしゅうというのをみた、)

それでやめにしようと思ったがこのときかの女は現代名画集というのを見た、

(それはそうしょのだいいっかんでかのじょがつねにほしいほしいとおもっていたのであった。)

それは叢書の第一巻でかの女がつねにほしいほしいと思っていたのであった。

(かのじょはそれもひきぬいておかみさんにいった。「これだけでいくらですか」)

かの女はそれもひきぬいておかみさんにいった。「これだけでいくらですか」

(おかみさんはこれがやなぎけのれいじょうだとはきづかなかった。「ごえんろくじゅっせんです」)

おかみさんはこれが柳家の令嬢だとは気づかなかった。「五円六十銭です」

(とかのじょはいった。「そう?」ふみこはがまぐちをあけてぎんかをてのひらにかぞえた、)

とかの女はいった。「そう?」文子はがま口をあけて銀貨を掌に数えた、

(いちまいにまいさんまい・・・・・・。ごえんにじゅっせんしきゃない。「あら、たりないわ」ふみこは)

一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。「あら、たりないわ」文子は

(かおをまっかにしていった、かのじょはしゅういにたっているだんじょがくせいがみなじぶんのほうを)

顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を

(みてるようなきがした。おかみさんはひややかにふみこをみやった。いえへかえって)

見てるような気がした。おかみさんは冷ややかに文子を見やった。家へ帰って

(おかあさんにおあしをいただいてこようかしら、とふみこはかんがえた、だがそのあいだに)

お母さんにお銭をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだに

(このほんがたにんにかわれるとこまる、かのじょはまったくとほうにくれた。もしかのじょが)

この本が他人に買われると困る、かの女はまったく途方にくれた。もしかの女が

(わたしはやなぎのむすめですからたくへとどけてくださいといったなら、おかみさんは)

私は柳の娘ですから宅へ届けてくださいといったなら、おかみさんは

(ふたつへんじでおうずるのであった、ところがふみこにはそれができなかった。)

二つ返事で応ずるのであった、ところが文子にはそれができなかった。

(「いくらおもちなの?」とおかみさんがいった。「よんじゅっせんたりないのよ」)

「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。「四十銭足りないのよ」

(「へえ」おかみさんはくるりとよこをむいた。とこのときひとりのじょがくせいが)

「へえ」おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が

(ふみこにこえをかけた。「ふみこさん、わたしだしてあげますわ」ふみこはそのひとをみた、)

文子に声をかけた。「文子さん、私だしてあげますわ」文子はその人を見た、

(それはかのじょがしょうがっこうじだいのじょうきゅうせいでそめものやのしんちゃんというのである、)

それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、

(しんちゃんはももいろのようふくをきておなじいろのぼうしをかぶり、きらきらしたてさげぶくろから)

新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提げ袋から

(ぎんかをとりだした。「ありがとう・・・・・・でもいいわ」とふみこはいった。「いいのよ)

銀貨を取りだした。「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。「いいのよ

(よんじゅっせんぽちなんでもないわ」「そう?それじゃわたしすぐおかえしするわ」)

四十銭ぽちなんでもないわ」「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」

(「あらいいわ」ふみこはしんちゃんによんじゅっせんをかりてほんとざっしをかみにつつんで)

「あらいいわ」文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んで

(もらった。「ではねえしんちゃん、わたしのいえへちょっとよってくださらない?)

もらった。「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない?

(おかねをおかえしするから」とふみこはもういちどいった。「いやねえ、あなたは)

お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。「いやねえ、あなたは

(みずくさいわ」ふみこはみずくさいといういみがわからなかった。「でもおかり)

水臭いわ」文子は水臭いという意味がわからなかった。「でもお借り

(したんだから」「いっしょにさんぽしましょう」としんちゃんがいった、ふたりは)

したんだから」「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは

(おおどおりからはすのよこちょうにでた、そこのざいもくやのざいもくのうえにおおぜいのこどもが)

大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が

(せんそうごっこをしていた、それからすこしはなれていけがきのしたでさんにんのがくせいが)

戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて生け垣の下で三人の学生が

(なにやらこそこそそうだんをしていた。)

なにやらこそこそ相談をしていた。

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