ちくしょう谷 14
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
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問題文
(ろうじんはくこのちゃというのをいれ、もろこしのうすやきをつくってくれた。)
老人は枸杞の茶というのを淹れ、もろこしの薄焼を作ってくれた。
(くこのちゃというのはひなたくさく、はやとのくちにはなじまなかったし、)
枸杞の茶というのはひなた臭く、隼人の口にはなじまなかったし、
(うすやきにもてをだすきにはなれなかった、あやがぼちであったことをはなすと、)
薄焼にも手を出す気にはなれなかった、あやが墓地であった事を話すと、
(ろばたのむこうで、おかむらしちろうべえが「どうです、いったとおりでしょう」)
炉端の向うで、岡村七郎兵衛が「どうです、云ったとおりでしょう」
(というようなめくばせをした。)
というような眼くばせをした。
(「りょうにつかうやですね」ろうじんはやをしらべてみながらいった、)
「猟に使う矢ですね」老人は矢をしらべてみながら云った、
(「このむらでつくったものです、それはたしかですが、)
「この村で作ったものです、それは慥かですが、
(ごんぱちがやったとは、ちょっとかんがえられませんな」)
権八がやったとは、ちょっと考えられませんな」
(あれからにじゅうよにちもたっているし、このむらへもどったようすはない。)
あれから二十余日も経っているし、この村へ戻ったようすはない。
(もしもどったとすれば、すくなくともじぶんにだけはわかるはずである。)
もし戻ったとすれば、少なくとも自分にだけはわかる筈である。
(またもどってこないとすれば、このやまのなかではつかいじょうもうえずに)
また戻って来ないとすれば、この山の中で二十日以上も飢えずに
(いられるとはおもえない、とろうじんはいった。)
いられるとは思えない、と老人は云った。
(「それじゃあ」とむすめがいった、「あのげんまだろうか」)
「それじゃあ」と娘が云った、「あのげんまだろうか」
(ろうじんはゆっくりくびをふった、「げんまもとうろくもらんぼうものだが、おばんがしらを)
老人はゆっくり首を振った、「げんまも頭六も乱暴者だが、御番頭を
(しゃさつするほどとんきょうでもないし、そうするしさいもないだろう」)
射殺するほど頓狂でもないし、そうする仔細もないだろう」
(「いや、もういい」はやとはおかむらがなにかいいかけるのをさえぎった、)
「いや、もういい」隼人は岡村がなにか云いかけるのを遮ぎった、
(「このはなしはよそう、そしてこれはよにんだけのことにして、)
「この話はよそう、そしてこれは四人だけのことにして、
(ほかのものにはもらさないようにたのむ」かれはそれを、あやにはとくにねんをおし、)
ほかの者にはもらさないように頼む」彼はそれを、あやには特に念を押し、
(ろうじんとはなすことがあるからといって、かのじょをいえまでおくるようにとおかむらにめいじた。)
老人と話すことがあるからと云って、彼女を家まで送るようにと岡村に命じた。
(もちろんざをはずせといういみである。あやはじたいしたが、)
もちろん座を外せという意味である。あやは辞退したが、
(しちろうべえはしぶいかおをしてたちあがった。ふたりがさったあと、)
七郎兵衛は渋い顔をして立ちあがった。二人が去ったあと、
(はやとのはなしをきいたしょうないろうじんは、よわよわしいといきをついたまま、)
隼人の話を聞いた正内老人は、弱よわしいと息をついたまま、
(ながいことだまっていた。こたえがでないというよりも、おもいあぐねた)
ながいこと黙っていた。答えが出ないというよりも、思いあぐねた
(というようすで、それからようやく、じぶんのゆのみにくこのちゃをついだ。)
というようすで、それからようやく、自分の湯呑に枸杞の茶を注いだ。
(「これはよういなことではふせげません」といってろうじんはせきばらいをし、)
「これは容易なことでは防げません」と云って老人は咳ばらいをし、
(ちゃをすすった、「このわたしにもおぼえのあることですが、)
茶を啜った、「この私にも覚えのあることですが、
(きんをきびしくすることは、かわのみずをただせきとめるようなもので、)
禁をきびしくすることは、川の水をただ堰止めるようなもので、
(みずはかならずせきをつきやぶるでしょうし、かえってことをわるくするばかりです」)
水は必ず堰を突きやぶるでしょうし、却って事を悪くするばかりです」
(「そうかもしれないが、このままほおっておくわけにもいかない」)
「そうかもしれないが、このまま放っておくわけにもいかない」
(とはやとはいった、「むしろわたしはこれをうまくりようして、このむらのものに)
と隼人は云った、「むしろ私はこれをうまく利用して、この村の者に
(あたらしいいきかたをおしえたらどうかとおもうのだが」)
新しい生きかたを教えたらどうかと思うのだが」
(ろうじんはいきをふかくすいこんだ、「きどのほうはおさえられるでしょう、)
老人は息を深く吸いこんだ、「木戸のほうは押えられるでしょう、
(じょうかまちにうまれ、それぞれしつけもされがくもんもし、さほうをまもることが)
城下町に生れ、それぞれ躾けもされ学問もし、作法を守ることが
(みについている、だがここではまるでちがうのです、)
身についている、だがここではまるで違うのです、
(それもたんにしつけやがくもんのあるなしではありません、)
それも単に躾けや学問のあるなしではありません、
(ねはもっとずっとふかいところにある、ひとつにはちのちかいものの)
根はもっとずっと深いところにある、一つには血の近い者の
(けっこんがつづいたためか、ちえのおくれたものやふぐしゃがおおい、)
結婚が続いたためか、知恵の遅れたものや不具者が多い、
(それらはいうまでもないし、けんこうなものでも)
それらは云うまでもないし、健康な者でも
(としごろになるとしょうどうがおさえられなくなる、)
としごろになると衝動が抑えられなくなる、
(もともとここでは、しょうどうをおさえるというしゅうかんがなかったのです」)
もともとここでは、衝動を抑えるという習慣がなかったのです」
(「それならそのしゅうかんをつけるようにしよう」とはやとがいった、)
「それならその習慣をつけるようにしよう」と隼人が云った、
(「にんげんであるかぎりがくもんやきょうようがなくとも、じぶんをよくしようというほんのうや、)
「人間である限り学問や教養がなくとも、自分をよくしようという本能や、
(ふりんなこういにたいするじせき、しゅうちしんぐらいあるはずではないか」)
不倫な行為に対する自責、羞恥心ぐらいある筈ではないか」
(「あなたはわすれていらっしゃる」ろうじんはまたといきをつき、)
「貴方は忘れていらっしゃる」老人はまたと息をつき、
(ゆっくりとくびをさゆうにふった、「ここはるにんむらです、ひゃくごじゅうねんちかいあいだ、)
ゆっくりと首を左右に振った、「ここは流人村です、百五十年ちかいあいだ、
(せけんからまったくへだてられ、ざいにんでありざいにんのちすじだというこくいんをおされて、)
世間からまったく隔てられ、罪人であり罪人の血筋だという刻印をおされて、
(なんのきぼうもなくいきてきたものたちです、かれらのこころにきざまれたこくいんが)
なんの希望もなく生きて来た者たちです、かれらの心に刻まれた刻印が
(いかにねぶかいか、そのためにしみついたぜつぼうかんがどんなにぬきがたいものか、)
いかに根深いか、そのためにしみついた絶望感がどんなに抜きがたいものか、
(おそらく、あなたにはごそうぞうもつくまいとおもいます」)
おそらく、貴方には御想像もつくまいと思います」
(はやとはだまって、ろからたちのぼるあおじろいけむりをみまもっていた。)
隼人は黙って、炉から立ち昇る青白い煙を見まもっていた。
(「わたしは、」とやがてはやとがめをあげた、「しょうないどのをたのみにしてきたのだが」)
「私は、」とやがて隼人が眼をあげた、「正内どのを頼みにして来たのだが」
(「できるかぎりのおてだすけはいたします、それはこのまえにももうしました」)
「できる限りのお手助けは致します、それはこのまえにも申しました」
(とろうじんがいった、「しかしわたしはここをしりすぎていますし、)
と老人が云った、「しかし私はここを知りすぎていますし、
(じぶんでしっぱいしたけいけんもあるので、ひじょうにこんなんであるということを、)
自分で失敗した経験もあるので、非常に困難であるということを、
(よくしょうちしておいていただきたいのです」)
よく承知しておいて頂きたいのです」
(「しっぱいしたけいけんというのは、どういうことだ」)
「失敗した経験というのは、どういうことだ」
(「わたしはこのむらのにんげんではございません」)
「私はこの村の人間ではございません」
(はやとはだまっていた。じゅうみんのにんべつにながのっていなかった、)
隼人は黙っていた。住民の人別に名がのっていなかった、
(ということをいおうとしたが、そのひつようはないとおもったのである。)
ということを云おうとしたが、その必要はないと思ったのである。
(だが、ろうじんのはなしははやとをおどろかせた。ろうじんはおなじかちゅうのさむらいであり、)
だが、老人の話は隼人をおどろかせた。老人は同じ家中の侍であり、
(よんじゅうねんまえにはんせきをぬけて、このるにんむらのじゅうみんになった、)
四十年まえに藩籍をぬけて、この流人村の住民になった、
(ということであった。「せいめいはもうしあげられません、)
ということであった。「姓名は申上げられません、
(いえはにひゃっこくばかりのばんがしらかくで、わたしはそのさんなんでした」)
家は二百石ばかりの番頭格で、私はその三男でした」
(にじゅうにさいのとき、かれはきどづめをめいぜられてき、るにんむらのじじょうをしらべた。)
二十二歳のとき、彼は木戸詰を命ぜられて来、流人村の事情をしらべた。
(そして、じゅうみんたちのひさんなありさまにぎふんをかんじ、かれらをただしいせいかつに)
そして、住民たちの悲惨なありさまに義憤を感じ、かれらを正しい生活に
(みちびこうとかんがえて、まちぶぎょうにそじょうをおくったりした。)
みちびこうと考えて、町奉行に訴状を送ったりした。
(とうじもきどのばんしと、むらのおんなたちとのかんけいはみだれていた。)
当時も木戸の番士と、村の女たちとの関係はみだれていた。
(おんながにんしんすると、むらのうちでだたいしてしまう。ほうほうはわからないが、)
女が妊娠すると、村のうちで堕胎してしまう。方法はわからないが、
(おそらくげんしてきなものだろう、そのためにおんながしぬことさえまれではなかった。)
おそらく原始的なものだろう、そのために女が死ぬことさえ稀ではなかった。
(「わたしはきどのばんがしらにむかって、きりつをきびしくするようにもうしいれ、)
「私は木戸の番頭に向って、規律をきびしくするように申入れ、
(またばんしとおんなたちとのみっかいのじゃまをしました、ばんがしらはとりあってくれず、)
また番士と女たちとの密会の邪魔をしました、番頭はとりあってくれず、
(いくらじゃまをしても、みっかいをふせぎきることはできませんでした」)
いくら邪魔をしても、密会を防ぎきることはできませんでした」
(ろうじんはそこで、もうさめてしまったちゃをすすり、りょうてでゆのみを)
老人はそこで、もうさめてしまった茶を啜り、両手で湯呑を
(つつむようにもってつづけた、「そうしているうちに、わたしじしんがあやまちを)
包むように持って続けた、「そうしているうちに、私自身があやまちを
(おかすことになったのです、あいてはこごさという、じゅうろくになるむすめで、)
犯すことになったのです、相手はこごさという、十六になる娘で、
(おやはまさうちともうしました、それがせいであるかなであるかわかりません。)
親はまさうちと申しました、それが姓であるか名であるかわかりません。
(そのおとこのそうそふがるざいになったのだそうで、ふうふともこのむらのうまれであり、)
その男の曾祖父が流罪になったのだそうで、夫婦ともこの村の生れであり、
(こごさはそのひとりむすめだったのです」)
こごさはその一人娘だったのです」
(じぶんはそのむすめがすきになり、ひまがあるとたずねていって、よみかきをおしえた。)
自分はその娘が好きになり、暇があると訪ねていって、読み書きを教えた。
(むすめはじゅうろくさいとはおもえないほど、からだつきもきもちもおさなく、)
娘は十六歳とは思えないほど、躯つきも気持も幼く、
(じぶんのいうことをよくきいたし、ねっしんにけいこもするようにみえた。)
自分の云うことをよくきいたし、熱心に稽古もするようにみえた。
(ところがろくじゅうにちほどたったあるよる、こごさがきどへしのんでき、)
ところが六十日ほど経った或る夜、こごさが木戸へ忍んで来、
(さくのそとへさそわれたうえ、きわめてかんたんにはだをふれあってしまった。)
柵の外へさそわれたうえ、極めて簡単に肌を触れあってしまった。