ちくしょう谷 ㉓
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
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問題文
(たてわきはてがみをひらいた。)
帯刀は手紙を披いた。
(ぶんめんはおよそつぎのようなものであった。かんじょうがたのすいとうかいけいから、)
文面はおよそ次のようなものであった。勘定方の出納会計から、
(じぶんのいんばんでごひゃくりょうちかいかねが、ふせいにひきだされているのをはっけんした。)
自分の印判で五百両ちかい金が、不正に引出されているのを発見した。
(できごころではなくけいかくてきなもので、ちょうぼのそうさもきわめてたくみにやってある。)
できごころではなく計画的なもので、帳簿の操作も極めて巧みにやってある。
(だれのしごとかということは、そのやりかたですぐにわかったから、)
誰のしごとかということは、そのやりかたですぐにわかったから、
(ひそかによんで、ふたりだけではなしてみた。そのおとこはじぶんのしたことだとみとめ、)
ひそかに呼んで、二人だけで話してみた。その男は自分のしたことだと認め、
(わるいしょうにんにだまされてこめのばいばいにてをだしたが、はちがまつまでには)
悪い商人に騙されて米の売買に手を出したが、八月末までには
(しまつをつけるといった。おそらくそのつもりだろうが、しょうにんのなは)
始末をつけると云った。おそらくそのつもりだろうが、商人の名は
(どうしてもいわないし、ごひゃくりょうというたがくなかねのちょうたつはむずかしいとおもう。)
どうしても云わないし、五百両という多額な金の調達はむずかしいと思う。
(かれはじむにもすぐれたのうりょくをもっているし、へいぜいはあまりくちもきかない)
彼は事務にもすぐれた能力を持っているし、平生はあまり口もきかない
(しょうしんなにんげんで、したしいゆうじんもないようだ。けっこんしてにねんめになるつまと、)
小心な人間で、親しい友人もないようだ。結婚して二年めになる妻と、
(うまれてまのないこどもがいる。にんげんはどれほどけっぱくにみえても、)
生れてまのない子供がいる。人間はどれほど潔白にみえても、
(しょうがいにいちどやにどはあやまちをおかすものだ、じぶんにもおぼえがある、)
生涯に一度や二度はあやまちを犯すものだ、自分にも覚えがある、
(はやとにもあるだろう。おおくのばあいはじぶんのこころにきずがのこるだけで、)
隼人にもあるだろう。多くの場合は自分の心に傷が残るだけで、
(みのはめつをまねくようなれいはきわめてすくない。)
身の破滅をまねくような例は極めて少ない。
(しかしこのおとこのたちばはひじょうにこんなんだ。)
しかしこの男の立場は非常に困難だ。
(かれのじょうしだから、じぶんにもむろんせきにんがある。じぶんはせきにんをとるけれども、)
彼の上司だから、自分にもむろん責任がある。自分は責任をとるけれども、
(そのおとこのしょうらいをかんがえるとまったくこころがくらくなる。かねはたがくだが、)
その男の将来を考えるとまったく心がくらくなる。金は多額だが、
(へんさいのほうほうがないわけではない、もんだいはどうしたらそのおとこを)
返済の方法がないわけではない、問題はどうしたらその男を
(はめつさせずにすむかということだ。これはまだだれにもはなしていない、)
破滅させずに済むかということだ。これはまだ誰にも話していない、
(おまえだけにいうのだからそのつもりでいてくれ。)
おまえだけに云うのだからそのつもりでいてくれ。
(どういうわけでおまえだけにつたえたかということはわかってくれるとおもう。)
どういうわけでおまえだけに伝えたかということはわかってくれると思う。
(だいたいこういういみのことがかいてあった。たてわきはよみおわったてがみを、)
大体こういう意味のことが書いてあった。帯刀は読み終った手紙を、
(ひざのうえにひろげたまま、めをみひらいてはやとをみた。)
膝の上にひろげたまま、眼をみひらいて隼人を見た。
(「おわりのもんくはおれにもわからなかった」とはやとがいった、)
「終りの文句はおれにもわからなかった」と隼人が云った、
(「おれにだけうちあけるというりゆうはなんだろう、)
「おれにだけうちあけるという理由はなんだろう、
(かんがえてみたがけんとうがつかない、そのままわすれていると、)
考えてみたが見当がつかない、そのまま忘れていると、
(あにがはたしあいをしてしんだ、というしらせをうけとった、)
兄がはたしあいをして死んだ、という知らせを受取った、
(それからきはんのさたがあって、くにもとへかえるとちゅうふとおもいだした、)
それから帰藩の沙汰があって、国許へ帰る途中ふと思いだした、
(たんごさまそうどうのとき、おれはどうしさんにんとそうだんしてえどかろうをきろうとはかり、)
丹後さま騒動のとき、おれは同志三人と相談して江戸家老を斬ろうと計り、
(いえをしゅっぽんしようとしたところをあににつかまった」)
家を出奔しようとしたところを兄に捉まった」
(そのときじぶんはじゅうななさい、けんじゅつにはじしんがあったし、むこうみずならんぼうもので、)
そのとき自分は十七歳、剣術には自信があったし、向う見ずな乱暴者で、
(はんけのためにいちめいをなげうつというそうれつないきによっていた。)
藩家のために一命をなげうつという壮烈な意気に酔っていた。
(あにはしっていたらしい、じぶんをつかまえるといけんをしたが、)
兄は知っていたらしい、自分を捉まえると意見をしたが、
(じぶんはだんじてやるとしゅちょうした。するとあにはちからずくでもとめるといい、)
自分は断じてやると主張した。すると兄は力ずくでも止めると云い、
(くみうちになった。としもむっつちがうが、あにはいがいなほどわんりょくがつよく、)
組み打ちになった。年も六つ違うが、兄は意外なほど腕力が強く、
(じぶんはたちまちくみふせられてしまった。)
自分はたちまち組み伏せられてしまった。
(はやとはそこでことばをきり、そのときのことをかいそうするように、)
隼人はそこで言葉を切り、そのときのことを回想するように、
(しばらくめをつむってちんもくした。「おれをくみしいておいて、あにはこういった」)
暫く眼をつむって沈黙した。「おれを組み敷いておいて、兄はこう云った」
(とやがてはやとはつづけた、「えどかろうをきってもたんごさまがいるいじょう)
とやがて隼人は続けた、「江戸家老を斬っても丹後さまがいる以上
(なんのやくにもたつまい、たんごのぶあつさまはとののおじにあたるから、)
なんの役にも立つまい、丹後信温さまは殿の叔父に当るから、
(これにやいばをむけることはできないだろう、たんごさまいちみが)
これに刃を向けることはできないだろう、丹後さま一味が
(ほんとうにあくじをおこなっているのなら、それがあらわれずにいる)
本当に悪事をおこなっているのなら、それがあらわれずにいる
(ということはけっしてない、よのなかのことはながいめでみろ、)
ということは決してない、世の中のことはながい眼で見ろ、
(たいていのことはぜんあくのはいぶんがただしくおこなわれるものだ」)
たいていのことは善悪の配分が正しくおこなわれるものだ」
(たてわきはてがみをまきながら、「あさださんのいけんはわかった」とうなずき、)
帯刀は手紙を巻きながら、「朝田さんの意見はわかった」と頷き、
(ついではらだたしげにいった、「だがこのてがみをよんでいるのに、)
ついで肚立たしげに云った、「だがこの手紙を読んでいるのに、
(なぜはやとはなにもいわなかったんだ」「わすれたのか」とはやとがいった、)
なぜ隼人はなにも云わなかったんだ」「忘れたのか」と隼人が云った、
(「おれがきこくしたときすぐにこいけがきて、けっとうのことはすんだ、)
「おれが帰国したときすぐに小池が来て、決闘のことは済んだ、
(たちあいにんもあったし、ろうしょくのせんぎでもせいとうだとみとめられた、)
立会い人もあったし、老職の詮議でも正当だと認められた、
(ざんねんだろうがことをあらだてないでくれと、くどいほどねんをおしていたぞ」)
残念だろうが事を荒立てないでくれと、くどいほど念を押していたぞ」
(「それはこういうじじつをしらなかったからだ、このてがみをよめば、)
「それはこういう事実を知らなかったからだ、この手紙を読めば、
(ぼうさつだということはめいはくだし、ごひゃくりょうのけんでも)
謀殺だということは明白だし、五百両の件でも
(あさださんのむじつがしょうめいされたはずだ」)
朝田さんの無実が証明された筈だ」
(「それならなぜ、おれがきこくしたときにそれをしなかった、)
「それならなぜ、おれが帰国したときにそれをしなかった、
(こいけはおれのくちをふうじ、たださわぎをおこすなとくりかえしただけじゃあないか」)
小池はおれの口を封じ、ただ騒ぎを起こすなと繰り返しただけじゃあないか」
(とはやとがいった、「こういってもこいけをせめるわけじゃない、)
と隼人が云った、「こう云っても小池を責めるわけじゃない、
(たちあいにんのしょうげんもあり、ろうしょくがたのせんぎもきまっていた、かりにさいぎんみを)
立会い人の証言もあり、老職がたの詮議もきまっていた、仮に再吟味を
(ねがいでてじじつをきゅうめいすれば、あにのつみはきえかろくはきゅうにふくするかもしれない、)
願い出て事実を糾明すれば、兄の罪は消え家禄は旧に復するかもしれない、
(だが、しんでしまったあにをいきかえらせることはできない」)
だが、死んでしまった兄を生き返らせることはできない」
(はやとはあたまをたれ、ひくいこえでつづけた、「あのときこいけのいったとおり、)
隼人は頭を垂れ、低い声で続けた、「あのとき小池の云ったとおり、
(たしかにもうすんでしまったことだ、あにはどんなふうにしんだかはしらないし、)
慥かにもう済んでしまったことだ、兄はどんなふうに死んだかは知らないし、
(しぬときはあにもむねんだったろう、しかしいまはもうそのおとこを)
死ぬときは兄も無念だったろう、しかしいまはもうその男を
(ゆるしているとおもう、そのてがみにあるとおり、あにがいちばんあんじていたのは、)
ゆるしていると思う、その手紙にあるとおり、兄がいちばん案じていたのは、
(どうしたらそのおとこをはめつさせずにすむかということだ、)
どうしたらその男を破滅させずに済むかということだ、
(あにはきっともうそのおとこをゆるしている、あにはむかしからそういうひとだったからね」)
兄はきっともうその男をゆるしている、兄は昔からそういう人だったからね」
(「たしかに、あさださんはそういうひとだった」)
「慥かに、朝田さんはそういう人だった」
(とたてわきはうなずいた、「だがこういうひれつなにんげんをそのままに)
と帯刀は頷いた、「だがこういう卑劣な人間をそのままに
(しておいていいとおもうか」はやとはしずかにかおをあげた、)
しておいていいと思うか」隼人は静かに顔をあげた、
(「おれはいつかねぎしいへいじに、あにのくちまねをしてこういったことがある、)
「おれはいつか根岸伊平次に、兄の口まねをしてこう云ったことがある、
(にんげんのしたことはぜんあくにかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ、)
人間のしたことは善悪にかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ、
(よのなかのことはながいめでみていると、ふしぎなくらいこうへいに)
世の中のことはながい眼で見ていると、ふしぎなくらい公平に
(はいぶんがたもたれてゆくようだ」たてわきはふといいきをはき、あぐらにすわりなおして、)
配分が保たれてゆくようだ」帯刀は太い息を吐き、あぐらに坐り直して、
(すねをぼりぼりとかいた。「では、」とたてわきはいった、)
脛をぼりぼりと掻いた。「では、」と帯刀は云った、
(「このままなにもするなというのか」)
「このままなにもするなと云うのか」
(「そのおとこをざいしさせるか、さむらいらしくたちなおらせるかとなれば、)
「その男を罪死させるか、侍らしく立ち直らせるかとなれば、
(あにはかならずこうしゃをえらぶだろう」「はやとじしんはどうおもうんだ」)
兄は必ず後者を選ぶだろう」「隼人自身はどう思うんだ」
(「こんどのことについてはおれのかんがえはない、あにならこうするだろうと)
「こんどの事についてはおれの考えはない、兄ならこうするだろうと
(おもえるようにやってゆくだけだ」たてわきはじっとはやとのかおをみまもった。)
思えるようにやってゆくだけだ」帯刀はじっと隼人の顔を見まもった。