ちくしょう谷 ㉘
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
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問題文
(きどのまわりには、むらのじゅうみんたちがろくしちにん、さくにつかまってけんぶつしてい、)
木戸のまわりには、村の住民たちが六七人、柵につかまって見物してい、
(そのなかからしょうないろうじんがでてきた。じゅうみんがさくのなかへはいることは)
その中から正内老人が出て来た。住民が柵の中へはいることは
(きんじられている。はやとはてまねで「どうぞ」といういみをしめしたが、)
禁じられている。隼人は手まねで「どうぞ」という意味を示したが、
(ろうじんにはかまわず、おおまたにくらのほうへいった。)
老人には構わず、大股に倉のほうへいった。
(そこはまだのうみつなけむりにつつまれてい、たおれたくらのざんがいを、)
そこはまだ濃密な煙に包まれてい、倒れた倉の残骸を、
(だいだいいろのほのおがなめていたし、こくもつのこげるこうばしいにおいが、)
橙色のほのおが舐めていたし、穀物の焦げる香ばしい匂いが、
(むせるほどつよくただよっていた。はやとのすがたをみとめたのだろう、)
むせるほど強く漂っていた。隼人の姿を認めたのだろう、
(いぬいとうきちろうがはしってきた。やくどころのはめいたへみずをかけていたらしく、)
乾藤吉郎が走って来た。役所の羽目板へ水をかけていたらしく、
(かたてにておけをもったまま、あたまからぐしょぬれになっていた。)
片手に手桶を持ったまま、頭からぐしょ濡れになっていた。
(かれのあとから、にしざわはんしろうもはしってき、いぬいよりさきに「もうしわけありません」)
彼のあとから、西沢半四郎も走って来、乾より先に「申し訳ありません」
(とあたまをたれた。「どうしたのだ」はやとはおだやかなこえでにしざわにきいた、)
と頭を垂れた。「どうしたのだ」隼人は穏やかな声で西沢に訊いた、
(「くらにはひのけがないのに、どこからでたんだ」「ほうかだとおもいます」)
「倉には火のけがないのに、どこから出たんだ」「放火だと思います」
(「なかでおんなのこえがしました」といぬいがいった、「くらへはいってひを)
「中で女の声がしました」と乾が云った、「倉へはいって火を
(つけたのでしょう、きがついたときはもうてがつけられないありさまで、)
つけたのでしょう、気がついたときはもう手がつけられないありさまで、
(なかからおんなのこえがきこえてきました」はやとはきっとしたくちびるをかんだ。)
中から女の声が聞えて来ました」隼人はきっと下唇を噛んだ。
(かぎをかけわすれた。きのうあのつなをだしたとき、やくどころへはこんでおけ)
鍵を掛け忘れた。昨日あの綱を出したとき、役所へ運んでおけ
(といったまま、とまえのかぎをかけわすれた、とはやとはおもった。)
と云ったまま、戸前の鍵を掛け忘れた、と隼人は思った。
(そして、なかからおんなのこえがした、ということばにきづき、)
そして、中から女の声がした、という言葉に気づき、
(どきっとして、われしらずにしざわはんしろうのかおをみた。)
どきっとして、われ知らず西沢半四郎の顔を見た。
(「それで、おんなはどうした」「しりません」にしざわはくびをふった、)
「それで、女はどうした」「知りません」西沢は首を振った、
(「おんなのこえをきいたのはいぬいだけで、わたしやほかのものはききませんでしたから」)
「女の声を聞いたのは乾だけで、私やほかの者は聞きませんでしたから」
(「いやおんなのこえがきこえたのはたしかです」といぬいはいどみかかるようにいった、)
「いや女の声が聞えたのは慥かです」と乾は挑みかかるように云った、
(「わたしはまっさきにかけつけたんですが、ひきたおすちょっとまえにも)
「私はまっさきに駆けつけたんですが、引き倒すちょっとまえにも
(さけびごえがきこえました、ほかにもたしかにきいたものがあるはずです、わたしは」)
叫び声が聞えました、ほかにも慥かに聞いた者がある筈です、私は」
(はやとがてをあげてさえぎった、「そしておんなはどうした、くらのなかからでたようすか」)
隼人が手をあげて遮った、「そして女はどうした、倉の中から出たようすか」
(「そうではないとおもいます」「なかにいるのがわかっていて、そのままくらを)
「そうではないと思います」「中にいるのがわかっていて、そのまま倉を
(ひきたおしたのか」「いちめんのひでどうにもなりませんでしたし、)
引き倒したのか」「いちめんの火でどうにもなりませんでしたし、
(やくどころやながやへひがうつりそうでしたから、ほかにどうしようもなかったのです」)
役所や長屋へ火が移りそうでしたから、ほかにどうしようもなかったのです」
(はやとはしょうないろうじんをめでさがした。ろうじんはやくどころのわきにたってい、)
隼人は正内老人を眼で捜した。老人は役所の脇に立ってい、
(はやとはそっちへあゆみよった。ろうじんははやとのはなしをきくと、)
隼人はそっちへ歩み寄った。老人は隼人の話を聞くと、
(それはおしのいちだろうといった。おやのぶろうがさくのそとにきているが、)
それは唖者のいちだろうと云った。親のぶろうが柵の外に来ているが、
(いちはまえからきどのだれかをうらんでいるらしく、いつかひをつけてやる)
いちはまえから木戸の誰かを恨んでいるらしく、いつか火をつけてやる
(といいつづけていた。それできどがかじになったので、むすめをさがしたが)
と云い続けていた。それで木戸が火事になったので、娘を捜したが
(どこにもいず、いそいでここへかけつけてきた、ということであった。)
どこにもいず、いそいでここへ駆けつけて来た、ということであった。
(「いちのしたことだとわかれば、どんなおとがめをうけるかわからない、)
「いちのしたことだとわかれば、どんなお咎めを受けるかわからない、
(いまのうちににげようか、などともうしておりました」)
いまのうちに逃げようか、などと申しておりました」
(「いや、そんなことはない」とはやとはあたまをさゆうにふった、)
「いや、そんなことはない」と隼人は頭を左右に振った、
(「むすめにうらまれるようなことをしたきどのものにこそせきにんはあるが、)
「娘に恨まれるようなことをした木戸の者にこそ責任はあるが、
(むすめのおやをとがめるようなすじはけっしてない、そのしんぱいはむようだとつたえてください」)
娘の親を咎めるような筋は決してない、その心配は無用だと伝えて下さい」
(したいがでたらわたすからといって、ろうじんをぶろうのところへゆかせ、)
死躰が出たら渡すからと云って、老人をぶろうのところへゆかせ、
(はやとはまたかじばへひきかえした。こくもつがやけのこっているかもしれないので、)
隼人はまた火事場へ引返した。穀物が焼け残っているかもしれないので、
(みずをかけるわけにゆかず、ひのしずまるのをまってしたいをさがしだした。)
水を掛けるわけにゆかず、火の鎮まるのを待って死躰を捜し出した。
(はやとはそのばにいなかったが、あわのしたになっていたしたいは、)
隼人はその場にいなかったが、粟の下になっていた死躰は、
(きものがすこしこげただけなので、いちだということはすぐにわかり、)
着物が少し焦げただけなので、いちだということはすぐにわかり、
(まっていたぶろうとむらのものたちにわたした、というほうこくをきいた。)
待っていたぶろうと村の者たちに渡した、という報告を聞いた。
(こくもつでやけのこったのはこめがごひょう、ほかにむぎやあわなどがいっこくたらず)
穀物で焼け残ったのは米が五俵、ほかに麦や粟などが一石足らず
(ということであった。「こうなると、かけはしがいよいよだいじに)
ということであった。「こうなると、かけはしがいよいよ大事に
(なりましたな」とおかむらしちろうべえがいった、)
なりましたな」と岡村七郎兵衛が云った、
(「ゆきのこないうちにらいねんしがつまでのしょくりょうをはこばなければならないでしょう、)
「雪の来ないうちに来年四月までの食糧を運ばなければならないでしょう、
(はこびきれますかね」「かけはしはあしたやるよ」とはやとはいった、)
運びきれますかね」「かけはしは明日やるよ」と隼人は云った、
(「はこびきれなかったらゆきがきたってはこぶまでさ、おかむらはばんがあいたんだから、)
「運びきれなかったら雪が来たって運ぶまでさ、岡村は番があいたんだから、
(そんなしんぱいをすることはないだろう」「ばんをのばすことができますよ」)
そんな心配をすることはないだろう」「番を延ばすことができますよ」
(「そんなひつようはないさ」「おもしろいな」おかむらがいった、)
「そんな必要はないさ」「面白いな」と岡村が云った、
(「まちぶぎょうへねがいでればばんをのばすことができるし、それをこばむけんげんは)
「町奉行へ願い出れば番を延ばすことができるし、それを拒む権限は
(あなたにはないんですよ」はやとはじっとおかむらしちろうべえのめをみつめ、)
貴方にはないんですよ」隼人はじっと岡村七郎兵衛の眼をみつめ、
(それからいった、「おまえはいったいなにをかんがえているんだ」)
それから云った、「おまえはいったいなにを考えているんだ」
(「なんにも」とおかむらはくびをふった、「なんにもかんがえてなんかいやしません、)
「なんにも」と岡村は首を振った、「なんにも考えてなんかいやしません、
(どうやらあなたのそばのほうがいごこちがいいんでしょう、)
どうやら貴方の側のほうがいごこちがいいんでしょう、
(そんなところらしいですよ」「ばかなやつがいるものだ」)
そんなところらしいですよ」「ばかなやつがいるものだ」
(「でしょうとも」とおかむらがいった、「なにしろあさだはやとのこうはいですからね」)
「でしょうとも」と岡村が云った、「なにしろ朝田隼人の後輩ですからね」
(はやとはたちあがって、がいしゅつのしたくをした。「これからおでかけですか」)
隼人は立ちあがって、外出の支度をした。「これからおでかけですか」
(「ちょっとぶろうをみまってくる」とはやとはいった、)
「ちょっとぶろうをみまって来る」と隼人は云った、
(「あしたははやくでかけるから、もうねるほうがいいぞ」)
「明日は早くでかけるから、もう寝るほうがいいぞ」
(はやとはるにんむらへゆき、しょうないろうじんをたずねた。ろうじんは)
隼人は流人村へゆき、正内老人を訪ねた。老人は
(「ここではぶつじなどはしないから」といったが、とにかくあんないしてくれた。)
「ここでは仏事などはしないから」と云ったが、とにかく案内してくれた。
(ろうじんのいったとおり、ぶろうのいえではつやもせずにねてしまったらしく、)
老人の云ったとおり、ぶろうの家では通夜もせずに寝てしまったらしく、
(ろうじんがよんでもおきるけしきはなかった。はやとはろうじんにれいをいって、)
老人が呼んでも起きるけしきはなかった。隼人は老人に礼を云って、
(いっしょにそこをさりながら、ここではぶつじなどはしない、)
いっしょにそこを去りながら、ここでは仏事などはしない、
(ということばにひどくまいってしまった。)
という言葉にひどくまいってしまった。
(いったいかれらは、にんげんのせいしをどうかんがえているのだろう。)
いったいかれらは、人間の生死をどう考えているのだろう。
(しょうないろうじんはいつか、ここがちくしょうだにとよばれていることをわすれないでくれ、)
正内老人はいつか、ここがちくしょう谷と呼ばれていることを忘れないでくれ、
(といった。しかし、にくしんのしをとぶらうことさえしないとはどういうことか。)
と云った。しかし、肉親の死をとぶらうことさえしないとはどういうことか。
(そんなにまでにんげんらしさをうしなうということがありえるだろうか。)
そんなにまで人間らしさを失うということがあり得るだろうか。
(はやとはどくをなめでもしたような、おしんをかんじながらそうおもった。)
隼人は毒を舐めでもしたような、悪心を感じながらそう思った。