芥川龍之介『早春』
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | すもさん | 5833 | A+ | 6.0 | 96.3% | 1154.1 | 6997 | 265 | 90 | 2024/11/04 |
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数3867かな314打
-
プレイ回数96万長文かな1008打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数168かな142打
-
プレイ回数793歌詞かな200打
-
プレイ回数1.1万313打
-
プレイ回数398長文535打
問題文
(だいがくせいのなかむらはうすいはるのおヴぁ・こおとのしたにかれじしんのたいおんをかんじながら、)
大学生の中村は薄い春のオヴァ・コオトの下に彼自身の体温を感じながら、
(ほのぐらいいしのかいだんをはくぶつかんのにかいへのぼっていった。かいだんをのぼりつめたひだりにあるのは)
仄暗い石の階段を博物館の二階へ登っていった。階段を登りつめた左にあるのは
(はちゅうるいのひょうほんしつである。なかむらはそこへはいるまえに、ちょっときんのうでどけいを)
爬虫類の標本室である。中村はそこへはいる前に、ちょっと金の腕時計を
(ながめた。うでどけいのはりはさいわいにもまだにじになっていない。ぞんがいおくれずにすんだ)
眺めた。腕時計の針は幸いにもまだ二時になっていない。存外遅れずにすんだ
(ものだ、--なかむらはこうおもううちにも、ほっとするというよりはそんをした)
ものだ、--中村はこう思ううちにも、ほっとすると言うよりは損をした
(きもちにちかいものをかんじた。はちゅうるいのひょうほんしつはひっそりしている。かんしゅさえ)
気もちに近いものを感じた。爬虫類の標本室はひっそりしている。看守さえ
(きょうはあるいていない。そのなかにただうすらさむいぼうちゅうざいのにおいばかりただよっている。)
今日は歩いていない。その中にただ薄ら寒い防虫剤の臭いばかり漂っている。
(なかむらはしつないをみわたしたのち、しんこきゅうをするようにからだをのばした。それからおおきい)
中村は室内を見渡した後、深呼吸をするように体を伸ばした。それから大きい
(がらすとだなのなかにふといかれきをまいているなんようのだいじゃのまえにたった。このはちゅうるいの)
硝子戸棚の中に太い枯れ木をまいている南洋の大蛇の前に立った。この爬虫類の
(ひょうほんしつはちょうどきょねんのなついらい、みえことであうばしょにさだめられている。これは)
標本室はちょうど去年の夏以来、三重子と出合う場所に定められている。これは
(なにもかれらのこのみのびょうてきだったためではない。ただひとめをさけるためにやむをえず)
何も彼等の好みの病的だったためではない。ただ人目を避けるためにやむを得ず
(ここをえらんだのである。こうえん、かふぇ、すてえしょん--それらはいずれもきの)
ここを選んだのである。公園、カフェ、ステエション--それ等はいずれも気の
(よわいかれらにとうわくをあたえるばかりだった。ことにかたあげをおろしたばかりのみえこは)
弱い彼等に当惑を与えるばかりだった。殊に肩上げをおろしたばかりの三重子は
(とうわくいじょうにおもったかもしれない。かれらはむすうのひとびとのしせんのかれらのせなかに)
当惑以上に思ったかも知れない。彼等は無数の人々の視線の彼等の背中に
(あつまるのをかんじた。いや、かれらのしんぞうさえはっきりとひとめにえいずるのをかんじた。)
集まるのを感じた。いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映ずるのを感じた。
(しかしこのひょうほんしつへくれば、はくせいのへびやとかげのほかにだれひとりかれらをみるものは)
しかしこの標本室へ来れば、剥製の蛇や蜥蜴のほかに誰一人彼等を見るものは
(ない。たまにかんしゅやかんらんじんにあっても、じろじろかおをみられるのはほんのすうびょうの)
ない。たまに看守や観覧人に遇っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の
(あいだだけである。・・・・・・おちあうじかんはにじである。うでどけいのはりもいつのまにか)
間だけである。……落ち合う時間は二時である。腕時計の針もいつのまにか
(ちょうどにじをしめしていた。きょうもじゅっぷんとまたせるはずはない。--なかむらは)
ちょうど二時を示していた。きょうも十分と待たせるはずはない。--中村は
(こうかんがえながら、はちゅうるいのひょうほんしつをながめていった。しかしあいにくかれのこころはすこしも)
こう考えながら、爬虫類の標本室を眺めて行った。しかし生憎彼の心は少しも
(よろこびにおどっていない。むしろなにかぎむにたいするあきらめににたものにみたされて)
喜びに躍っていない。むしろ何か義務に対する諦らめに似たものに充たされて
(いる。かれもあらゆるだんせいのようにみえこにけんたいをかんじだしたのであろうか?)
いる。彼もあらゆる男性のように三重子に倦怠を感じ出したのであろうか?
(けれどもけんたいをしょうずるためにはどういつのものにめんしなければならぬ。きょうの)
けれども倦怠を生ずるためには同一のものに面しなければならぬ。今日の
(みえこはこうかふこうかぜんぜんきのうのみえこではない。きのうのみえこは、--やまのてせんの)
三重子は幸か不幸か全然昨日の三重子ではない。昨日の三重子は、--山手線の
(でんしゃのなかにかれともくれいだけこうかんしたみえこはいかにもしとやかなじょがくせいだった。)
電車の中に彼と目礼だけ交換した三重子はいかにもしとやかな女学生だった。
(いや、さいしょにかれといっしょにいのかしらこうえんへでかけたみえこもまだどこかものやさしい)
いや、最初に彼と一しょに井の頭公園へ出かけた三重子もまだどこかもの優しい
(さびしさをおびていたものである。・・・・・・なかむらはもういちどうでどけいをながめた。うでどけいは)
寂しさを帯びていたものである。……中村はもう一度腕時計を眺めた。腕時計は
(にじごふんすぎである。かれはちょっとためらったのち、となりあったちょうるいのひょうほんしつへ)
二時五分過ぎである。彼はちょっとためらった後、隣り合った鳥類の標本室へ
(はいった。かなりや、きんけいちょう、はちすずめ、--うつくしいだいしょうのはくせいのとりはがらすごしに)
はいった。カナリヤ、錦鶏鳥、蜂雀、--美しい大小の剥製の鳥は硝子越しに
(かれをながめている。みえこもこういうとりのようにけいがいだけをのこしたまま、たましいの)
彼を眺めている。三重子もこう言う鳥のように形骸だけを残したまま、魂の
(うつくしさをうしなってしまった。かれははっきりおぼえている。みえこはこのまえあった)
美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重子はこの前会った
(ときにはちゅういん・がむばかりしゃぶっていた。そのまたまえにあったときにも)
時にはチュウイン・ガムばかりしゃぶっていた。そのまた前に会った時にも
(おぺらのうたばかりうたっていた。ことにかれをおどろかせたのはひとつきほどまえにあった)
オペラの唄ばかり歌っていた。殊に彼を驚かせたのは一月ほど前に会った
(みえこである。みえこはさんざんにふざけたあげく、ふっと・ぼおるとしょうし)
三重子である。三重子はさんざんにふざけた揚句、フット・ボオルと称し
(ながら、まくらをてんじょうへけあげたりした。・・・・・・うでどけいはにじじゅうごふんである。なかむらは)
ながら、枕を天井へ蹴上げたりした。……腕時計は二時十五分である。中村は
(ためいきをもらしながら、はちゅうるいのひょうほんしつへひきかえした。が、みえこはどこにも)
ため息を洩らしながら、爬虫類の標本室へ引返した。が、三重子はどこにも
(みえない。かれはなにかきがるになり、めのまえのおおとかげに「しっけい」をした。おおとかげは)
見えない。彼は何か気軽になり、目の前の大蜥蜴に「失敬」をした。大蜥蜴は
(めいじなんねんかいらい、えいきゅうにこへびをくわえている。えいきゅうに--しかしかれはえいきゅうにでは)
明治何年か以来、永久に小蛇を啣えている。永久に--しかし彼は永久にでは
(ない。うでどけいのにじはんになったがさいご、さっさとはくぶつかんをでるつもりである。)
ない。腕時計の二時半になったが最後、さっさと博物館を出るつもりである。
(さくらはまださいていない。が、りょうだいしまえにあるきなどはどんてんをすかせたえだえだにあかい)
桜はまださいていない。が、両大師前にある木などは曇天を透かせた枝々に赤い
(つぼみをつづっている。こういうこうえんをさんぽするのはみえことどこかへでかけるよりも)
蕾を綴っている。こういう公園を散歩するのは三重子とどこかへ出かけるよりも
(すうとうこうふくといわなければならぬ。・・・・・・にじにじゅっぷん!もうじゅっぷんまちさえすれば)
数等幸福といわなければならぬ。……二時二十分! もう十分待ちさえすれば
(いい。かれはかえりたさをこらえたまま、ひょうほんしつのなかをあるきまわった。ねったいのしんりんを)
好い。彼は帰りたさをこらえたまま、標本室の中を歩きまわった。熱帯の森林を
(うしなったとかげやへびのひょうほんはみょうにはかなさをただよわせている。これはあるいはしょうちょうかも)
失った蜥蜴や蛇の標本は妙にはかなさを漂わせている。これはあるいは象徴かも
(しれない。いつかじょうねつをうしなったかれのれんあいのしょうちょうかもしれない。かれはみえこに)
知れない。いつか情熱を失った彼の恋愛の象徴かも知れない。彼は三重子に
(ちゅうじつだった。が、みえこははんとしのあいだにすこしもみしらぬふりょうしょうじょになった。かれの)
忠実だった。が、三重子は半年の間に少しも見知らぬ不良少女になった。彼の
(ねつじょうをうしなったのはぜんぜんみえこのせきにんである。すくなくともげんめつのけっかである。けっして)
熱情を失ったのは全然三重子の責任である。少くとも幻滅の結果である。決して
(けんたいのけっかなどではない。・・・・・・なかむらはにじはんになるがはやいか、はちゅうるいのひょうほんしつを)
倦怠の結果などではない。……中村は二時半になるが早いか、爬虫類の標本室を
(でようとした。しかしとぐちへこないうちにくるりとくつのかかとをかえした。みえこは)
出ようとした。しかし戸口へ来ないうちにくるりと靴の踵を返した。三重子は
(あるいはひとあしちがいにこのとやへはいってくるかもしれない。それではみえこに)
あるいはひと足違いにこの都屋へはいって来るかも知れない。それでは三重子に
(きのどくである。きのどく?--いやきのどくではない。かれはみえこにどうじょうする)
気の毒である。気の毒? --いや気の毒ではない。彼は三重子に同情する
(よりもかれじしんのぎむかんになやまされている。このぎむかんをやすんずるためにはもう)
よりも彼自身の義務感に悩まされている。この義務感を安んずるためにはもう
(じゅっぷんばかりまたなければならぬ。なに、みえこはかならずこない。まっても)
十分ばかり待たなければならぬ。なに、三重子は必ず来ない。待っても
(またなくてもきょうのごごはゆかいにひとりくらせるはずである。・・・・・・はちゅうるいの)
待たなくてもきょうの午後は愉快に独り暮らせるはずである。……爬虫類の
(ひょうほんしつはいまもあいかわらずひっそりしている。かんしゅさえいまだにまわってこない。その)
標本室は今も不相変ひっそりしている。看守さえ未だにまわって来ない。その
(なかにただうすらさむいぼうちゅうざいのにおいばかりただよっている。なかむらはだんだんかれじしんにある)
中にただ薄ら寒い防虫剤の臭いばかり漂っている。中村はだんだん彼自身にある
(いらだたしさをかんじだした。みえこはひっきょうふりょうしょうじょである。が、かれのれんあいはぜんぜん)
苛立たしさを感じ出した。三重子は畢竟不良少女である。が、彼の恋愛は全然
(ひえきっていないのかもしれない。さもなければかれはとうのむかしにはくぶつかんのそとを)
冷え切っていないのかも知れない。さもなければ彼はとうの昔に博物館の外を
(あるいていたのであろう。もっともじょうねつはうしなったにもせよ、よくぼうはのこっている)
歩いていたのであろう。もっとも情熱は失ったにもせよ、欲望は残っている
(はずである。よくぼう?--しかしよくぼうではない。かれはいまになってみると、たしかに)
はずである。欲望? --しかし欲望ではない。彼は今になって見ると、確かに
(みえこをあいしている。みえこはまくらをけあげたりした。けれどもそのあしはいろのしろい)
三重子を愛している。三重子は枕を蹴上げたりした。けれどもその足は色の白い
(ばかりか、しなやかにゆびをそらせている。ことにあのときのわらいごえは--かれはこくびを)
ばかりか、しなやかに指を反らせている。殊にあの時の笑い声は--彼は小首を
(かたむけたみえこのわらいごえをおもいだした。にじしじっぷん。にじしじゅうごふん。さんじ。さんじ)
傾けた三重子の笑い声を思い出した。二時四十分。二時四十五分。三時。三時
(ごふん。さんじじゅっぷんになったときである。なかむらははるのおヴぁ・こおとのしたにしみじみと)
五分。三時十分になった時である。中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと
(さむさをかんじながら、ひとけのないはちゅうるいのひょうほんしつをうしろにいしのかいだんをおりて)
寒さを感じながら、人気のない爬虫類の標本室を後ろに石の階段を下りて
(いった。いつもちょうどひのくれのようにほのぐらいいしのかいだんを。)
行った。いつもちょうど日の暮のように仄暗い石の階段を。
(ばつばつばつ)
× × ×
(そのひもでんとうのともりだしたじぶん、なかむらはあるかふぇのすみにかれのともだちとはなして)
その日も電燈のともり出した時分、中村はあるカフェの隅に彼の友だちと話して
(いた。かれのともだちはほりかわというしょうせつかしぼうのだいがくせいである。かれらはいっぱいのこうちゃを)
いた。彼の友だちは堀川という小説家志望の大学生である。彼等は一杯の紅茶を
(まえにじどうしゃのびてきかちをろんじたり、せざんぬのけいざいてきかちをろんじたりした。が、)
前に自動車の美的価値を論じたり、セザンヌの経済的価値を論じたりした。が、
(それらにもつかれたのち、なかむらはきんぐちにひをつけながら、ほとんどたにんのみのうえの)
それ等にも疲れた後、中村は金口に火をつけながら、ほとんど他人の身の上の
(ようにきょうのできごとをはなしだした。「ばかだね、おれは。」はなしをおわったなかむらは)
ようにきょうの出来事を話し出した。「莫迦だね、俺は。」話しを終った中村は
(つまらなそうにこうつけくわえた。「ふん、ばかがるのがいちばんばかだね。」ほりかわは)
つまらなそうにこうつけ加えた。「ふん、莫迦がるのが一番莫迦だね。」堀川は
(むぞうさにれいしょうした。それからまたたちまちろうどくするようにこんなことをしゃべり)
無造作に冷笑した。それからまたたちまち朗読するようにこんなことをしゃべり
(だした。「きみはもうかえってしまう。はちゅうるいのひょうほんしつはがらんとしている。)
出した。「君はもう帰ってしまう。爬虫類の標本室はがらんとしている。
(そこへ、--じかんはいくらもたたない。やっとさんじじゅうごふんくらいだね、そこへ)
そこへ、--時間はいくらもたたない。やっと三時十五分くらいだね、そこへ
(かおのあおじろいじょがくせいがひとりはいってくる。もちろんかんしゅもだれもいない。じょがくせいはへびや)
顔の青白い女学生が一人はいって来る。勿論看守も誰もいない。女学生は蛇や
(とかげのなかにいつまでもじっとたたずんでいる。あすこはぞんがいくれやすいだろう。)
蜥蜴の中にいつまでもじっと佇んでいる。あすこは存外暮れ易いだろう。
(そのうちにひかりはうすれてくる。へいかんのじこくもせまってくる。けれどもじょがくせいは)
そのうちに光は薄れて来る。閉館の時刻もせまって来る。けれども女学生は
(おなじようにいつまでもじっとたたずんでいる。--とかんがえればしょうせつだがね。もっとも)
同じようにいつまでもじっと佇んでいる。--と考えれば小説だがね。もっとも
(きのきいたしょうせつじゃない。みえこなるものはいいとしても、きみをしゅじんこうに)
気の利いた小説じゃない。三重子なるものは好いとしても、君を主人公に
(していたひには・・・・・・」なかむらはにやにやわらいだした。「みえこもあいにくふとって)
していた日には……」中村はにやにや笑い出した。「三重子も生憎肥って
(いるのだよ。」「きみよりもか?」「ばかをいえ。おれはにじゅうさんかんごひゃくめさ。)
いるのだよ。」「君よりもか?」「莫迦を言え。俺は二十三貫五百目さ。
(みえこはたしかじゅうななかんくらいだろう。」じゅうねんはいつかながれさった。なかむらはいま)
三重子は確か十七貫くらいだろう。」十年はいつか流れ去った。中村は今
(べるりんのみついかなにかにつとめている。みえこもとうにけっこんしたらしい。しょうせつか)
ベルリンの三井か何かに勤めている。三重子もとうに結婚したらしい。小説家
(ほりかわやすきちはあるふじんざっしのしんねんごうのくちえにぐうぜんみえこをはっけんした。みえこはその)
堀川保吉はある婦人雑誌の新年号の口絵に偶然三重子を発見した。三重子はその
(しゃしんのなかにおおきいぴあののうしろにしながら、だんじょさんにんのこどもといっしょにいずれも)
写真の中に大きいピアノの後ろにしながら、男女三人の子供と一しょにいずれも
(こうふくそうにほほえんでいる。ようしょくはまだじゅうねんまえとたいしたかわりもみえないので)
幸福そうに頬笑んでいる。容色はまだ十年前と大した変りも見えないので
(あろう。めかたも、--やすきちはひそかにおそれている、めかただけはことに)
あろう。目かたも、--保吉はひそかに惧れている、目かただけはことに
(よると、にじゅっかんをすこしこえたかもしれない。・・・・・・)
よると、二十貫を少し越えたかも知れない。……