芥川龍之介 地獄変③
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問題文
(ごともうしますのは、よしひでが、あのひとりむすめのこにょうぼうをまるできちがいのように)
【五】と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違いのように
(かわいがっていたことでございます。せんこくもうしあげましたとおり、むすめもいたって)
可愛がっていた事でございます。先刻申し上げました通り、娘も至って
(きのやさしい、おやおもいのおんなでございましたが、あのおとこのこぼんのうは、けっして)
気のやさしい、親思いの女でございましたが、あの男の子煩悩は、決して
(それにもおとりますまい。なにしろむすめのきるものとか、かみかざりとかのことともうしますと、)
それにも劣りますまい。何しろ娘の着る物とか、髪飾とかの事と申しますと、
(どこのおてらのかんじんにもきしゃをしたことのないあのおとこが、きんせんにはさらにおしげもなく)
どこの御寺の勧進にも喜捨をした事のないあの男が、金銭には更に惜し気もなく
(ととのえてやるというのでございますから、うそのようなきがいたすではございませんか。)
整えてやると云うのでございますから、嘘の様な気が致すではございませんか。
(が、よしひでのむすめをかわいがるのは、ただかわいがるだけで、やがてよいむこをとろうなどと)
が、良秀の娘を可愛がるのは、唯可愛がるだけで、やがてよい聟をとろうなどと
(もうすことは、ゆめにもかんがえておりません。それどころか、あのこへわるくいいよるものでも)
申す事は、夢にも考えて居りません。それ所か、あの娘へ悪く云いよるものでも
(ございましたら、かえってつじかんじゃばらでもかりあつめて、やみうちくらいはくらわせかねない)
ございましたら、反って辻冠者ばらでも駆り集めて、暗討位は喰わせ兼ねない
(りょうけんでございます。でございますから、あのこがおおとのさまのおこえがかりで、)
量見でございます。でございますから、あの娘が大殿様の御声がかりで、
(こにょうぼうにあがりましたときも、おやじのほうはだいふふくで、とうざのあいだはおまえへでても、)
小女房に上りました時も、老爺の方は大不服で、当座の間は御前へ出ても、
(にがりきってばかりおりました。おおとのさまがむすめのうつくしいのにみこころをひかされて、)
苦り切ってばかり居りました。大殿様が娘の美しいのに御心を惹かされて、
(おやのふしょうちなのもかまわずに、めしあげたなどともうすうわさは、おおかたかようなようすを)
親の不承知なのもかまわずに、召し上げたなどと申す噂は、大方かような容子を
(みたもののあてずいりょうからでたのでございましょう。もっともそのうわさはうそでございましても)
見た者の当推量から出たのでございましょう。尤もその噂は嘘でございましても
(こぼんのうのいっしんから、よしひでがしじゅうむすめのさがるようにいのっておりましたのは)
子煩悩の一心から、良秀が始終娘の下るように祈って居りましたのは
(たしかでございます。あるときおおとのさまのおいいつけで、ちごもんじゅをえがきましたときも、)
確かでございます。或時大殿様の御云いつけで、稚児文殊を描きました時も、
(ごちょうあいのわらべのかおをうつしまして、みごとなできでございましたから、おおとのさまもしごく)
御寵愛の童の顔を写しまして、見事な出来でございましたから、大殿様も至極
(ごまんぞくで、「ほうびにはのぞみのものをとらせるぞ。えんりょなくのぞめ。」というありがたい)
御満足で、「褒美には望みの物を取らせるぞ。遠慮なく望め。」と云う有難い
(おことばがくだりました。するとよしひではかしこまって、なにをもうすかとおもいますと、)
御言が下りました。すると良秀は畏まって、何を申すかと思いますと、
(「なにとぞわたしのむすめをおさげくださいまするように。」とおくめんもなくもうしあげました。)
「何卒私の娘を御下げ下さいまするように。」と臆面もなく申し上げました。
(ほかのおやしきならばともかくも、ほりかわのおおとのさまのおそばにつかえているのを、)
外の御邸ならば兎も角も、堀河の大殿様の御側に仕えているのを、
(いかにかわいいからともうしまして、かようにぶしつけにおひまをねがいますものが、)
如何に可愛いからと申しまして、かように無躾に御暇を願いますものが、
(どこのくににおりましょう。これにはだいふくちゅうのおおとのさまもいささかごきげんをそんじたと)
どこの国に居りましょう。これには大腹中の大殿様も聊か御機嫌を損じたと
(みえまして、しばらくはただ、だまってよしひでのかおをながめておいでになりましたが、やがて)
見えまして、暫くは唯、黙って良秀の顔を眺めて御居でになりましたが、やがて
(「それはならぬ。」とはきだすようにおっしゃると、きゅうにそのままおたちになって)
「それはならぬ。」と吐出すように仰有ると、急にその儘御立ちになって
(しまいました。かようなことが、ぜんごしごへんもございましたろうか。いまになって)
しまいました。かような事が、前後四五遍もございましたろうか。今になって
(かんがえてみますと、おおとのさまのよしひでをごらんになるめは、そのつどにだんだんと)
考えて見ますと、大殿様の良秀を御覧になる眼は、その都度にだんだんと
(ひややかになっていらしったようでございます。するとまた、それにつけても、)
冷やかになっていらしったようでございます。すると又、それにつけても、
(むすめのほうはちちおやのみがあんじられるせいででもございますか、ぞうしへさがっている)
娘の方は父親の身が案じられるせいででもございますか、曹司へ下っている
(ときなどは、よくうちぎのそでをかんで、しくしくないておりました。そこでおおとのさまが)
時などは、よく袿の袖を噛んで、しくしく泣いて居りました。そこで大殿様が
(よしひでのむすめにけそうなすったなどともうすうわさが、いよいよひろがるようになったので)
良秀の娘に懸想なすったなどと申す噂が、愈々拡がるようになったので
(ございましょう。なかにはじごくへんのびょうぶのゆらいも、じつはむすめがおおとのさまのぎょいに)
ございましょう。中には地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に
(したがわなかったからだなどともうすものもおりますが、もとよりさようなことが)
従わなかったからだなどと申すものも居りますが、元よりさような事が
(あるはずはございません。わたくしどものめからみますと、おおとのさまがよしひでのむすめをおさげに)
ある筈はございません。私どもの眼から見ますと、大殿様が良秀の娘を御下げに
(ならなかったのは、まったくむすめのみのうえをあわれにおぼしめしたからで、あのように)
ならなかったのは、全く娘の身の上を哀れに思召したからで、あのように
(かたくななおやのそばへやるよりはおやしきにおいて、なんのふじゆうなくくらさせてやろうという)
頑な親の側へやるよりは御邸に置いて、何の不自由なく暮させてやろうと云う
(ありがたいおかんがえだったようでございます。それはもとよりきだてのやさしいあのこを、)
有難い御考えだったようでございます。それは元より気立ての優しいあの娘を、
(ごひいきになったのにはまちがいございません。が、いろをおこのみになったと)
御贔屓になったのには間違いございません。が、色を御好みになったと
(もうしますのは、おそらくけんきょうふかいのせつでございましょう。いや、あとかたもないうそと)
申しますのは、恐らく牽強附会の説でございましょう。いや、跡方もない嘘と
(もうしたほうが、よろしいくらいでございます。)
申した方が、宜しい位でございます。
(それはともかくもといたしまして、かようにむすめのことからよしひでのごおぼえが)
それは兎も角もと致しまして、かように娘の事から良秀の御覚えが
(だいぶんわるくなってきたときでございます。どうおぼしめしたか、おおとのさまはとつぜんよしひでを)
大分悪くなって来た時でございます。どう思召したか、大殿様は突然良秀を
(おめしになって、じごくへんのびょうぶをかくようにと、おいいつけなさいました。)
御召になって、地獄変の屏風を描くようにと、御云いつけなさいました。
(ろくじごくへんのびょうぶともうしますと、わたくしはもうあのおそろしいがめんのけしきが、)
【六】地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色が、
(ありありとめのまえへうかんでくるようなきがいたします。)
ありありと眼の前へ浮んで来るような気が致します。
(おなじじごくへんともうしましても、よしひでのえがきましたのは、ほかのえしのにくらべますと、)
同じ地獄変と申しましても、良秀の描きましたのは、外の絵師のに比べますと、
(だいいちずどりからにておりません。それはいちじょうのびょうぶのかたすみへ、ちいさくじゅうおうをはじめ)
第一図取りから似て居りません。それは一帖の屏風の片隅へ、小さく十王を始め
(けんぞくたちのすがたをえがいて、あとはいちめんにぐれんだいぐれんのもうかがけんざんとうじゅも)
眷属たちの姿を描いて、あとは一面に紅蓮 大紅蓮の猛火が剣山刀樹も
(ただれるかとおもうほどうずをまいておりました。でございますから、からめいた)
爛れるかと思う程渦を巻いて居りました。でございますから、唐めいた
(みょうかんたちのいしょうが、てんてんときやあいをつづっておりますほかは、どこをみても)
冥官たちの衣裳が、点々と黄や藍を綴って居ります外は、どこを見ても
(れつれつとしたかえんのいろで、そのうちをまるでまんじのように、すみをとばしたこくえんと)
烈々とした火焔の色で、その中をまるで卍のように、墨を飛ばした黒煙と
(きんぷんをあおったひのことが、まいくるっているのでございます。こればかりでも、)
金粉を煽った火の粉とが、舞い狂って居るのでございます。こればかりでも、
(ずいぶんひとのめをおどろかすひっせいでございますが、そのうえにまた、ごうかにやかれて、)
随分人の目を驚かす筆勢でございますが、その上に又、業火に焼かれて、
(てんてんとくるしんでおりますつみびとも、ほとんどひとりとしてつうれいのじごくえにあるものでは)
転々と苦しんで居ります罪人も、殆ど一人として通例の地獄絵にあるものでは
(ございません。なぜかともうしますとよしひでは、このおおくのつみびとのなかに、)
ございません。何故かと申しますと良秀は、この多くの罪人の中に、
(うえはげっけいうんかくからしたはこじきひにんまで、)
上は月卿雲客(げっけいうんかく)から下は乞食非にんまで、
(あらゆるみぶんのにんげんをうつしてきたからでございます。そくたいのいかめしいてんじょうびと、)
あらゆる身分の人間を写して来たからでございます。束帯のいかめしい殿上人、
(いつつぎぬのなまめかしいあおにょうぼう、じゅずをかけたねんぶつそう、たかあしだをはいたさむらいがくしょう、)
五つ衣のなまめかしい青女房、数珠をかけた念仏僧、高足駄を穿いた侍学生、
(ほそながをきためのわらわ、みてぐらをかざしたおんみょうじーー)
細長を着た女の童、幣(みてぐら)をかざした陰陽師ーー
(いちいちかぞえたてておりましたら、とてもさいげんはございますまい。とにかくそういう)
一々数え立てて居りましたら、とても際限はございますまい。兎に角そう云う
(いろいろのにんげんが、ひとけむりとがさかまくうちを、ごずめずのごくそつにさいなまれて、)
いろいろの人間が、火と煙とが逆捲く中を、牛頭馬頭の獄卒に虐まれて、
(おおかぜにふきちらされるおちばのように、ふんぷんとしほうはっぽうへにげまよっているので)
大風に吹き散らされる落葉のように、紛々と四方八方へ逃げ迷っているので
(ございます。さすまたにかみをからまれて、くもよりもてあしをちぢめている)
ございます。鋼叉(さすまた)に髪をからまれて、蜘蛛よりも手足を縮めている
(おんなは、かんなぎのたぐいででもございましょうか。てほこにむねを)
女は、神巫(かんなぎ)の類ででもございましょうか。手矛に胸を
(さしとおされて、かわほりのようにさかさになったおとこは、なまずりょうかなにかに)
刺し通されて、蝙蝠(かわほり)のように逆になった男は、生受領か何かに
(そういございますまい。そのほかあるいはくろがねのしもとにうたれるもの、)
相違ございますまい。その外或は鉄の笞(くろがねのしもと)に打たれるもの、
(あるいはちびきのばんじゃくにおされるもの、あるいはけちょうのくちばしにかけられるもの、)
或は千曳の磐石に押されるもの、或は怪鳥(けちょう)の嘴にかけられるもの、
(あるいはまたどくりゅうのあぎとにかまれるものーー、かしゃくもまたつみびとのかずにおうじて、いくとおりあるか)
或は又毒龍の顎に噛まれるものーー、呵責も亦罪人の数に応じて、幾通りあるか
(わかりません。が、そのなかでもことにひとつめだってすさまじくみえるのは、まるで)
わかりません。が、その中でも殊に一つ目立って凄じく見えるのは、まるで
(けもののきばのようなとうじゅのいただきをなかばかすめて(そのとうじゅのこずえにも、おおくのもうじゃが)
獣の牙のような刀樹の頂きを半ばかすめて(その刀樹の梢にも、多くの亡者が
(るいるいと、ごたいをつらぬかれておりましたが)なかぞらからおちてくるいちりょうの)
纍々と、五体を貫かれて居りましたが)中空から落ちて来る一輛の
(ぎっしゃでございましょう。じごくのかぜにふきあげられた、そのくるまのすだれのうちには、)
牛車でございましょう。地獄の風に吹き上げられた、その車の簾の中には、
(にょうご、こういにもまがうばかり、きらびやかによそおったにょうぼうが、たけのくろかみを)
女御、更衣にもまがうばかり、綺羅びやかに装った女房が、丈の黒髪を
(ほのおのうちになびかせて、しろいうなじをそらせながら、もだえくるしんでおりますが、)
炎の中になびかせて、白い頸を反らせながら、悶え苦しんで居りますが、
(そのにょうぼうのすがたともうし、またもえしきっているぎっしゃともうし、なにひとつとして)
その女房の姿と申し、又燃えしきっている牛車と申し、何一つとして
(えんねつじごくのせめくをしのばせないものはございません。いわばひろいがめんのおそろしさが)
炎熱地獄の責苦を偲ばせないものはございません。云わば広い画面の恐ろしさが
(このひとりのじんぶつにあつまっているとでももうしましょうか。これをみるものの)
この一人の人物に輳っているとでも申しましょうか。これを見るものの
(みみのそこには、しぜんとものすごいきょうかんのこえがつたわってくるかとうたがうほど、)
耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝わって来るかと疑う程、
(にゅうしんのできばえでございました。ああ、これでございます、これをえがくために、)
入神の出来映えでございました。ああ、これでございます、これを描く為めに、
(あのおそろしいできごとがおこったのでございます。またさもなければいかによしひででも)
あの恐ろしい出来事が起こったのでございます。又さもなければ如何に良秀でも
(どうしてかようになまなまとならくのくげんがえがかれましょう。あのおとこはこのびょうぶのえを)
どうしてかように生々と奈落の苦艱が画かれましょう。あの男はこの屏風の絵を
(しあげたかわりに、いのちさえもすてるような、むざんなめにであいました。)
仕上げた代りに、命さえも捨てるような、無惨な目に出遇いました。
(いわばこのえのじごくは、ほんちょうだいいちのえしよしひでが、じぶんでいつかおちていく)
云わばこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か墜ちて行く
(じごくだったのでございます。・・・)
地獄だったのでございます。・・・
(わたくしはあのめずらしいじごくへんのびょうぶのことをもうしあげますのをいそいだあまりに、あるいはおはなしの)
私はあの珍しい地獄変の屏風の事を申上げますのを急いだあまりに、或は御話の
(じゅんじょをてんとういたしたかもしれません。が、これからはまたひきつづいて、おおとのさまから)
順序を顛倒致したかも知れません。が、これからは又引き続いて、大殿様から
(じごくえをかけともうすおおせをうけたよしひでのことにうつりましょう。)
地獄絵を描けと申す仰せを受けた良秀の事に移りましょう。