ちゃん 山本周五郎 ③

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プレイ回数1017難易度(4.5) 5306打 長文
重吉は腕の良い火鉢職人。時世の流れで仕事が減ってきている。
今夜も酒を飲んで帰宅する重吉を妻と子が迎える。
すでに独立した仲間の職人が相談に乗ろうとするが・・・

ぶま/不間:気がきかず、間が抜けていること。

関連タイピング

問題文

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(おちょうをでてから「げんぺい」でのんだ。おちょうもそうだが、げんぺいもまいばんよらないと)

お蝶を出てから「源平」で飲んだ。お蝶もそうだが、源平も毎晩寄らないと

(きげんがわるい。もうじゅうねんちかいなじみで、きゃくのすくないばんなどはおくへあげられ、)

きげんが悪い。もう十年ちかい馴染で、客の少ない晩などは奥へあげられ、

(ながひばちをはさんでさかずきのやりとりをする、ということもめずらしくはなかった。)

長火鉢をはさんで盃のやりとりをする、ということも珍しくはなかった。

(かれらふうふにはこどもがなく、みせをふたりきりでやっていて、)

かれら夫婦には子供がなく、店を二人きりでやっていて、

(いろけのないかわりに、げんぺいのほうちょうとかみさんのおくにのあいそが、)

いろけのない代りに、源平の庖丁とかみさんのおくにのあいそが、

(うりものになっているようであった。)

売り物になっているようであった。

(しげきちはにほんばかりようきにのみ、そこでぐっとふかくよった。ほかにきゃくがさんにんあり、)

重吉は二本ばかり陽気に飲み、そこでぐっと深く酔った。ほかに客が三人あり、

(げんぺいはほうちょうをつかいながら、しげきちのようすをふしんげにみていた。)

源平は庖丁を使いながら、重吉のようすを不審げに見ていた。

(きゅうによいがでたのは、まえのさけのせいで、しげきちはげんぺいのめがきにいらなかった。)

急に酔いが出たのは、まえの酒のせいで、重吉は源平の眼が気に入らなかった。

(へんなめでみるなよ、といおうとしたとき、おちょうがはいってきた。)

へんな眼で見るなよ、と云おうとしたとき、お蝶がはいって来た。

(おちょうはすっかりよって、かおはあおじろくこわばり、めがすわっていた。)

お蝶はすっかり酔って、顔は蒼白く硬ばり、眼がすわっていた。

(かのじょはげんぺいとおくににあいさつすると、しげきちのわきにこしをかけ、)

彼女は源平とおくにに挨拶すると、重吉の脇に腰を掛け、

(かれのてからさかずきをとりあげた。「おちょうさん」とおくにがいって、)

彼の手から盃を取りあげた。「お蝶さん」とおくにが云って、

(すばやくめまぜをした、「おくがいいわ」「ええ、ありがと」とおちょうがこたえた、)

すばやく眼まぜをした、「奥がいいわ」「ええ、ありがと」とお蝶が答えた、

(「あたし、すぐにかえるんです」「どうしたんだ」しげきちがおちょうをみた、)

「あたし、すぐに帰るんです」「どうしたんだ」重吉がお蝶を見た、

(「かんじょうならきのどくだがだめだ、おらあびたももっちゃあいねえんだから」)

「勘定なら気の毒だがだめだ、おらあびたも持っちゃあいねえんだから」

(「おしゃくしてちょうだい」「ここもかんじょうがたまってるんだぜ」)

「お酌してちょうだい」「ここも勘定が溜たまってるんだぜ」

(「おしゃくして」とおちょうはいった。しげきちがついでやったいっぱいをのむと、)

「お酌して」とお蝶は云った。重吉が注いでやった一杯を飲むと、

(おちょうはかんどくりをとり、てじゃくでにはい、のどへほうりこむようにあおった。)

お蝶は燗徳利を取り、手酌で二杯、喉へほうりこむようにあおった。

(「あんたのかおがみたかったのよ、しげさん」とおちょうはかれのめを)

「あんたの顔が見たかったのよ、重さん」とお蝶は彼の眼を

など

(みつめながらいった、「あたしくやしかった」「きゃくがいるんだぜ」)

みつめながら云った、「あたしくやしかった」「客がいるんだぜ」

(「あんなふうにいわれて、なにかいいかえすことはなかったの」)

「あんなふうに云われて、なにか云い返すことはなかったの」

(おちょうのひそめたこえにはかんじょうがこもっていた、「あんたいいたいことが)

お蝶のひそめた声には感情がこもっていた、「あんた云いたいことが

(あったんでしょ、そうでしょ、しげさん」)

あったんでしょ、そうでしょ、重さん」

(「うん」としげきちはひょいとかたてをふった、「いいたいことはあった、)

「うん」と重吉はひょいと片手を振った、「云いたいことはあった、

(いいわすれちゃったが、よろしくたのむというつもりだった」)

云い忘れちゃったが、よろしく頼むと云うつもりだった」

(おちょうはだまって、じっとしげきちのめをみつめていた。みじかいあいだではあるが、)

お蝶は黙って、じっと重吉の眼をみつめていた。短いあいだではあるが、

(そのちんもくはまるでひゃくせんのことばがひばなをちらすようなかんじだった。)

その沈黙はまるで百千の言葉が火花をちらすような感じだった。

(「はい」とおちょうはかれにさかずきをかえし、しゃくをしてやってから、たちあがった、)

「はい」とお蝶は彼に盃を返し、酌をしてやってから、立ちあがった、

(「あたしね、あのひとをひっぱたいてやったの、ひらてで、あのひとのほっぺたを、)

「あたしね、あの人をひっぱたいてやったの、平手で、あの人の頬っぺたを、

(いいおとがしたわよ」しげきちはさかずきをもったまま、おちょうをみた。)

いい音がしたわよ」重吉は盃を持ったまま、お蝶を見た。

(「さよなら」とおちょうがこどもっぽくあかるいこえでいった。)

「さよなら」とお蝶が子供っぽく明るい声で云った。

(きゃくたちがふりかえり、げんぺいとおくにがめをみかわした。しげきちはたちそうにしたが、)

客たちが振返り、源平とおくにが眼を見交わした。重吉は立ちそうにしたが、

(おちょうはあかるいえがおをむけててをふり、すこしよろめきながらでていった。)

お蝶は明るい笑顔を向けて手を振り、少しよろめきながら出ていった。

(「さよなら」とそとでおちょうのいうのがきこえた、「またきます、おじゃまさま」)

「さよなら」と外でお蝶の云うのが聞えた、「また来ます、お邪魔さま」

(「しげさんいってあげなさいな」とおくにがいった、)

「重さんいってあげなさいな」とおくにが云った、

(「ひどくよっているようじゃないの、あぶないからおみせまでおくってあげなさいよ」)

「ひどく酔っているようじゃないの、危ないからお店まで送ってあげなさいよ」

(「そうだな」しげきちはたちあがった。でてみると、おちょうのすがたは)

「そうだな」重吉は立ちあがった。出てみると、お蝶の姿は

(さん、よんけんさきにあり、かなりしっかりしたあしどりであるいていた。)

三、四間さきにあり、かなりしっかりした足どりで歩いていた。

(さゆうののみやはきゃくのこみはじめるときで、しゃみせんのおとやうたのこえや、)

左右の呑み屋は客のこみ始めるときで、三味線の音や唄の声や、

(どなったりわらったりするこえが、にぎやかにきこえていた。)

どなったり笑ったりする声が、賑やかに聞えていた。

(しげきちはおちょうのすがたがみえなくなるまで、だまってそこにたっていて、)

重吉はお蝶の姿が見えなくなるまで、黙ってそこに立っていて、

(それからそのよこちょうを、ほりのほうへぬけていった。)

それからその横町を、堀のほうへぬけていった。

(「よせ、よしてくれ」としげきちはいった、「なぐるのはよしてくれ」)

「よせ、よしてくれ」と重吉は云った、「なぐるのはよしてくれ」

(かれはそのじぶんのこえでめをさました。きがつくとじぶんはごろねをしてい、)

彼はその自分の声で眼をさました。気がつくと自分はごろ寝をしてい、

(すぐそばにおよしがいた。かれはたたみのうえへじかにねころんでいるのだが、)

すぐそばにお芳がいた。彼は畳の上へじかに寝ころんでいるのだが、

(まくらもしているし、かいまきもかけてあった。みっつになるすえっこのおよしは、)

枕もしているし、掻巻も掛けてあった。三つになる末っ子のお芳は、

(ちよがみでつくったにんぎょうをもって、とがめるような、ふしんそうなめで)

千代紙で作った人形を持って、咎めるような、不審そうな眼で

(ちちおやをみまもっていた。「たん」とおよしがいった、「だれがぶつのよ」)

父親を見まもっていた。「たん」とお芳が云った、「誰がぶつのよ」

(しげきちはのどのかわきをかんじた。「だれがたんをぶつのよ、たん」)

重吉は喉の渇きを感じた。「誰がたんをぶつのよ、たん」

(「かあちゃんはどうした」「おしえーないよ」とおよしはつんとした、)

「かあちゃんはどうした」「おしえーないよ」とお芳はつんとした、

(「たんがおしえーないから、かあたんがとんやへいったことも、)

「たんがおしえーないから、かあたんが問屋へいったことも、

(あたいおしえーないよ」しげきちはおきなおった、「いいこだからな、よしぼう、)

あたいおしえーないよ」重吉は起き直った、「いい子だからな、芳ぼう、

(たんにみずをいっぱいもってきてくれ」「あたい、いいこじゃないもん」)

たんに水を一杯持って来てくれ」「あたい、いい子じゃないもん」

(しげきちはためいきをつき、じゅうけつした、おもたげなめでまわりをながめやった。)

重吉は溜息をつき、充血した、おもたげな眼でまわりを眺めやった。

(そのろくじょうはごたごたして、うすぎたなく、みじめにみえた。)

その六帖はごたごたして、うす汚なく、みじめにみえた。

(じっさいはおなおがきれいずきで、へやのなかはきちんとかたづいているのだ。)

実際はお直がきれい好きで、部屋の中はきちんと片づいているのだ。

(はじめからふるものでかって、そのままじゅうごねんいじょうもつかっているたんすや)

初めから古物で買って、そのまま十五年以上も使っている箪笥や

(ねずみいらず、ながひばちやかがみかけにならんで、ふたのかけたながもちがあり、)

鼠いらず、長火鉢や鏡架けに並んで、ふたの欠けた長持があり、

(そのうえに、にょうぼうのおなおとむすめのおつぎのする、ないしょくのどうぐがのせてある。)

その上に、女房のお直と娘のおつぎのする、内職の道具がのせてある。

(これらはしょうじにうつっているくもりのひのごごの、さびたような、)

これらは障子にうつっている曇りの日の午後の、さびたような、

(すこしもあたたかさのないうすびかりをうけて、じじつよりもずっとうすぎたなく、)

少しも暖たかさのない薄光りをうけて、事実よりもずっとうす汚なく、

(わびしく、きのめいるほどみじめにみえた。しげきちはたんすのうえのぶつだんをみあげた。)

わびしく、気の滅入るほどみじめにみえた。重吉は箪笥の上の仏壇を見あげた。

(つくりつけのちいさなぶつだんで、ぬりのはげたとびらはしまっていた。)

作りつけの小さな仏壇で、塗りの剥げた扉は閉っていた。

(そのなかにはおやたちのいはいにまじって、ちょうなんのわきちのいはいもある。)

その中には親たちの位牌にまじって、長男の和吉の位牌もある。

(うまれてごじゅうにちたらずでしんだから、かおだちもおぼえていないのに、)

生れて五十日足らずで死んだから、顔だちも覚えていないのに、

(しげきちのあたまのなかではよしきちよりもおおきく、はるかにおとなびているようにおもえた。)

重吉の頭の中では良吉よりも大きく、はるかにおとなびているように思えた。

(いきていればじゅうごだ。おつぎまでがとしごだったのだ。)

生きていれば十五だ。おつぎまでが年子だったのだ。

(しげきちはもういちどへやのなかをながめまわし、みんなむかしのままだとおもった。)

重吉はもういちど部屋の中を眺めまわし、みんな昔のままだと思った。

(おなおをせたいをもったままだ、がらくたがに、さんふえただけで、)

お直と世帯を持ったままだ、がらくたが二、三ふえただけで、

(ほかにはなにもかわってはいない。のこったのはこどもたちだけか。)

ほかにはなにも変ってはいない。残ったのは子供たちだけか。

(じゅうごねんのあまりもはたらきとおしてきて、のこったのはよにんのこどもだけである。)

十五年の余も働きとおして来て、残ったのは四人の子供だけである。

(しかもそのこどもでさえ、まんぞくにはそだてられなかったし、)

しかもその子供でさえ、満足には育てられなかったし、

(いまではうえのこふたりにもうかせがせている。おめえはよかったな、わきち。)

いまでは上の子二人にもう稼がせている。おめえはよかったな、和吉。

(おまえはしんでよかった、としげきちはこころのなかでいった。いきていれば)

おまえは死んでよかった、と重吉は心の中で云った。生きていれば

(びんぼうにおわれ、ほねみもかたまらないうちからかせがなければならない。)

貧乏に追われ、骨身も固まらないうちから稼がなければならない。

(よしきちをみろ、あいつはまだじゅうよんだ。なりはおおきいほうだが、)

良吉をみろ、あいつはまだ十四だ。なりは大きいほうだが、

(あしこしもほそいし、まだほんのこどもだ。それがまいにちぼてふりをしてかせいでいる、)

足腰も細いし、まだほんの子供だ。それが毎日ぼてふりをして稼いでいる、

(まいあさまっくらなじぶんにおきてかしへゆき、あめもゆきもおかまいなしに)

毎朝まっ暗なじぶんに起きて河岸へゆき、雨も雪もお構いなしに

(さかなをうってあるく。いまにしだしさかなやになるんだ、といばっているが、)

魚を売って歩く。いまに仕出し魚屋になるんだ、といばっているが、

(ほんとうはまだともだちとあそびたいさかりなんだ。おまえはしんでうんがよかったぜ。)

本当はまだ友達と遊びたいさかりなんだ。おまえは死んで運がよかったぜ。

(ほんとだぜ、しげきちはこころのなかでいった。こんなよのなかはくそくらえだ。)

ほんとだぜ、重吉は心の中で云った。こんな世の中はくそくらえだ。

(いきているかいなんかありゃしねえ、まじめにしごといっぽん、)

生きている甲斐なんかありゃしねえ、まじめに仕事いっぽん、

(わきめもふらずにはたらいていても、おれのようにぶまなにんげんは)

脇眼もふらずに働いていても、おれのようにぶまな人間は

(いっしょううだつがあがらねえ。まじめであればあるほど、ひとにかるくあつかわれ、)

一生うだつがあがらねえ。まじめであればあるほど、人に軽く扱われ、

(ばかにされ、びんぼうにおいまくられ、そしてにょうぼこにまでくろうさせる。)

ばかにされ、貧乏に追いまくられ、そして女房子にまで苦労させる。

(たくさんだ、もうたくさんだ。こんなよのなかはもうまっぴらだ、)

たくさんだ、もうたくさんだ。こんな世の中はもうまっぴらだ、

(としげきちはおもった。「たん」とおよしがいった、「みずもってこようか」)

と重吉は思った。「たん」とお芳が云った、「水持って来ようか」

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