ちゃん 山本周五郎 ⑧
すでに独立した仲間の職人が相談に乗ろうとするが・・・
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問題文
(そのままねむってしまったのだ。なにもしらなかった。たぶんあけがただろう、)
そのまま眠ってしまったのだ。なにも知らなかった。たぶん明けがただろう、
(どろぼう、ということばをにどばかり、ゆめうつつにきき、ゆめをみているんだなとおもい、)
泥棒、という言葉を二度ばかり、夢うつつに聞き、夢をみているんだなと思い、
(しぬほどのどがかわいているのにきがついた。しかし、てをのばして、)
死ぬほど喉が渇いているのに気がついた。しかし、手を伸ばして、
(どびんをとるせいもなくねむりつづけた。はんすいはんせいといったかんじで、)
土瓶を取る精もなく眠り続けた。半睡半醒といった感じで、
(おなおやこどもたちのこえをきき、しょくじをするちゃわんやはしのおとをきいた。)
お直や子供たちの声を聞き、食事をする茶碗や箸の音を聞いた。
(そして、それらがしずかになるとまたねむりこみ、とうふやのよびごえで)
そして、それらが静かになるとまた眠りこみ、豆腐屋の呼び声で
(めがさめた。ろじをはいってきたとうふやを、おなおがよびとめ、)
眼がさめた。路地をはいって来た豆腐屋を、お直が呼びとめ、
(「やっこをにちょう」といっていた。)
「やっこを二丁」と云っていた。
(しげきちははっきりとめをさまし、しまった、とかいまきのなかでくびをすくめた。)
重吉ははっきりと眼をさまし、しまった、と掻巻の中で首をすくめた。
(「とんだことをしたらしいぞ」とかれはくちのなかでつぶやいた、)
「とんだことをしたらしいぞ」と彼は口の中でつぶやいた、
(「なにかおおしくじりをやったらしい、うっ」すると、まくらもとへだれかきて、)
「なにか大しくじりをやったらしい、うっ」すると、枕元へ誰か来て、
(そっとささやいた。「たん、おきな」それはおよしであった、)
そっとささやいた。「たん、起きな」それはお芳であった、
(「あのひとどよぼうだよ」)
「あの人どよぼうだよ」
(「いうんじゃないっていったのに、しょうのないこだねえ」とおなおがいった、)
「云うんじゃないっていったのに、しょうのない子だねえ」とお直が云った、
(「もうこのへんがよさそうよ」かのじょははしでなべのなかのとうふをうごかした。)
「もうこのへんがよさそうよ」彼女は箸で鍋の中の豆腐を動かした。
(ぜんのわきにあるしちりんのうえで、ゆどうふのなべがさかんにゆげをたてている。)
膳の脇にある七厘の上で、湯豆腐の鍋がさかんに湯気を立てている。
(しげきちはさかずきをもったままで、そのゆげをしさいらしくながめていた。)
重吉は盃を持ったままで、その湯気を仔細らしく眺めていた。
(はんときほどまえにおき、せんとうへいってきてから、そのぜんにむかって)
半刻ほどまえに起き、銭湯へいって来てから、その膳に向って
(にほんのんだのであるが、さけのにおいがはなにつくばかりで、)
二本飲んだのであるが、酒の匂いが鼻につくばかりで、
(すこしもようけしきがなく、きもちもまるでひきたたなかった。)
少しも酔うけしきがなく、気持もまるでひき立たなかった。
(「たべてみなさいな」とおなおがいった、)
「たべてみなさいな」とお直が云った、
(「あついものをいれればさっぱりしますよ」「どんなものをとってったんだ」)
「熱いものを入れればさっぱりしますよ」「どんな物を取ってったんだ」
(「そんなことわすれなさいったら、ものをとられたことより、)
「そんなこと忘れなさいったら、物を取られたことより、
(しんせつをあだにされたことのほうがよっぽどくやしいわ」)
親切を仇にされたことのほうがよっぽどくやしいわ」
(とおなおがいった、「それに、おまえさんのともだちならこまるけれど、)
とお直が云った、「それに、おまえさんの友達なら困るけれど、
(しらないたにんだっていうんだからよかった、たにんならこっちは)
知らない他人だっていうんだからよかった、他人ならこっちは
(さいなんとおもえばすむんだから」しげきちはめをあげておなおをみた、)
災難と思えば済むんだから」重吉は眼をあげてお直を見た、
(「でてゆくのをみたものはねえのか」「よしがみたそうよ、)
「出てゆくのを見た者はねえのか」「良が見たそうよ、
(とぐちのところでふりかえって、おせわになりましたって、)
戸口のところで振返って、お世話になりましたって、
(ひくいこえでいったんですって」おなおはしちりんのくちをかげんした、)
低い声で云ったんですって」お直は七厘の口をかげんした、
(「うちのものをおこすまいとしているんだって、よしはそうおもったものだから、)
「うちの者を起こすまいとしているんだって、良はそう思ったものだから、
(そのままねむってるふりをしたんですってさ」)
そのまま眠ってるふりをしたんですってさ」
(「あいつは」しげきちはくちをにど、さんどあけ、それからはじるようにいった、)
「あいつは」重吉は口を二度、三度あけ、それから恥じるように云った、
(「よしのやつは、おこってたろうな」「なにをおこるの」)
「良のやつは、怒ってたろうな」「なにを怒るの」
(「おれがあんなやろうを、つれこんできたことをよ」)
「おれがあんな野郎を、伴れこんで来たことをよ」
(「よしがなんていったかおしえましょうか」とおなおはていしゅをみた、)
「良がなんて云ったか教えましょうか」とお直は亭主を見た、
(「もしちゃんがこんなことをしたんならおおごとだ、こっちがぬすまれるほうで)
「もしちゃんがこんなことをしたんなら大ごとだ、こっちが盗まれるほうで
(よかったって、よしはそういったきりですよ」「そうか」)
よかったって、良はそう云ったきりですよ」「そうか」
(としげきちはほそいこえでいって、ひょいとさかずきをうえへあげた。)
と重吉は細い声で云って、ひょいと盃を上へあげた。
(なにかいうつもりだったらしい。)
なにか云うつもりだったらしい。
(それともこころのなかでいったのかもしれないが、そのさかずきをぜんのうえにおくと、)
それとも心の中で云ったのかもしれないが、その盃を膳の上に置くと、
(そこへごろっとよこになった、「まだねむいや」)
そこへごろっと横になった、「まだ眠いや」
(「すこしたべてねなさいな、すきっぱらのままじゃどくですよ」)
「少したべて寝なさいな、すきっ腹のままじゃ毒ですよ」
(「まあいいや、ひとねむりさしてくれ」おなおはもんくをいいながらたちあがった。)
「まあいいや、ひと眠りさしてくれ」お直は文句を云いながら立ちあがった。
(まくらをもってきてあてがい、かいまきをかけてくれた。しげきちはかんがえようとしたのだ。)
枕を持って来て当てがい、掻巻を掛けてくれた。重吉は考えようとしたのだ。
(すっかりさめたようでもあり、ふつかよいがのこっているようでもあり、)
すっかり醒めたようでもあり、宿酔いが残っているようでもあり、
(あたまはぼんやりしているし、ひどくむねがおもかった。)
頭はぼんやりしているし、ひどく胸が重かった。
(めをさましているつもりでいて、ついねむりこみ、)
眼をさましているつもりでいて、つい眠りこみ、
(こどもたちのこえでめをさましたが、かいまきをあたまからかぶって、)
子供たちの声で眼をさましたが、掻巻を頭からかぶって、
(ずっとよこになったままでいた。)
ずっと横になったままでいた。
(ともしがついてゆうはんになったとき、よしきちがちちおやをおこしにきた。)
灯がついて夕飯になったとき、良吉が父親を起こしに来た。
(しげきちはなまへんじをし、およしがむこうからなにかいった。するとよしきちが、)
重吉はなま返事をし、お芳が向うからなにか云った。すると良吉が、
(よしぼうはだまってな、としかり、もどっていってしょくじをはじめた。)
芳坊は黙ってな、と叱り、戻っていって食事を始めた。
(しげきちはかんがえにかんがえたあげく、すっかりこころをきめていた。)
重吉は考えに考えたあげく、すっかり心をきめていた。
(じぶんのけっしんがたしかであるかどうかも、くりかえしねんをおしてみたうえ、)
自分の決心がたしかであるかどうかも、繰り返し念を押してみたうえ、
(みんなのしょくじのおわるのをまった。「ちょっと、みんなまってくれ」)
みんなの食事の終るのを待った。「ちょっと、みんな待ってくれ」
(しょくじがおわったとき、しげきちはおきあがって、そこへすわりなおした、)
食事が終ったとき、重吉は起きあがって、そこへ坐り直した、
(「そのままでいてくれ、おれはちょっと、みんなに」)
「そのままでいてくれ、おれはちょっと、みんなに」
(「よせやい」とよしきちがいった、「そうしかくばるこたあねえや、さけだろ、ちゃん」)
「よせやい」と良吉が云った、「そう四角ばるこたあねえや、酒だろ、ちゃん」
(「うん」としげきちはうなずいた、「さけだ」)
「うん」と重吉はうなずいた、「酒だ」
(「あたしがつけるわ」とおつぎがたった。)
「あたしがつけるわ」とおつぎが立った。
(しげきちはおなおにいった、「かたづけるのはまってくれ、そのまんまにして、)
重吉はお直に云った、「片づけるのは待ってくれ、そのまんまにして、
(みんなたたねえでそこにいてくれ」)
みんな立たねえでそこにいてくれ」
(「よっぱやってんだな、たん」とおよしがいった。)
「酔っぱやってんだな、たん」とお芳が云った。
(おなおはたって、さけのかんのつくうちにかたづけよう、このままでは)
お直は立って、酒の燗のつくうちに片づけよう、このままでは
(きたなくてしようがない、そういっててばしこくぜんのうえをかたづけ、)
きたなくてしようがない、そう云って手ばしこく膳の上を片づけ、
(およしとかめきちがそれをてつだった。よしきちはこのごろよみかきをならいにかよっている。)
お芳と亀吉がそれを手伝った。良吉はこのごろ読み書きを習いにかよっている。
(ひとつむこうのろじにいるろうにんもののいえで、ちいさなてらこやをやっており、)
一つ向うの路地にいる浪人者の家で、小さな寺子屋をやっており、
(よるだけかよっているのだが、かれは「こんやはおくれちゃった」)
夜だけかよっているのだが、彼は「今夜はおくれちゃった」
(といいながらちちおやにはかまわず、どうぐをそろえてたちあがった。)
と云いながら父親には構わず、道具を揃えて立ちあがった。