晩年 ⑲
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問題文
(むかしのことをおもいだしていたのである。いつかちちおやがすわをいだいてすみがまの)
むかしのことを思い出していたのである。いつか父親がスワを抱いて炭窯の
(ばんをしながらかたってくれたが、それは、さぶろうとはちろうというきこりのきょうだいがあって)
番をしながら語ってくれたが、それは、三郎と八郎というきこりの兄弟があって
(おとうとのはちろうがあるひ、たにがわでやまべというさかなをとっていえへもってきたが、)
弟の八郎が或る日、谷川でやまべというさかなを取って家へ持ってきたが、
(あにのさぶろうがまだやまからかえらぬうちに、そのさかなをまずいっぴきやいてたべた。)
兄の三郎がまだ山からかえらぬうちに、其のさかなをまず一匹焼いてたべた。
(くってみるとおいしかった。にひきさんびきたべてもやめられないで、とうとうみんな)
食ってみるとおいしかった。二匹三匹たべてもやめられないで、とうとうみんな
(くってしまった。そうするとのどがかわいてかわいてたまらなくなった。)
食ってしまった。そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった。
(いどのみずをすっかりのんでしまって、むらはずれのかわばたへはしっていって、)
井戸の水をすっかりのんで了って、村はずれの川端へ走って行って、
(またみずをのんだ。のんでるうちに、からだじゅうへぶつぶつとうろこがふきでた。)
又水をのんだ。のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗が吹き出た。
(さぶろうがあとからかけつけたときには、はちろうはおそろしいだいじゃになって)
三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇になって
(かわをおよいでいた。はちろうやあ、とよぶとかわのなかからだいじゃがなみだをこぼして、さぶろうやあ)
川を泳いでいた。八郎やあ、と呼ぶと川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ
(とこたえた。あにはつつみのうえからおとうとはかわのなかから、はちろうやあ、さぶろうやあ、と)
とこたえた。兄は堤の上から弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と
(なきなきよびあったけれど、どうすることもできなかったのである。)
泣き泣き呼び合ったけれど、どうする事も出来なかったのである。
(すわがこのものがたりをきいたときには、あわれであわれでちちおやのすみのこなだらけのゆびを)
スワがこの物語を聞いた時には、あわれであわれで父親の炭の粉だらけの指を
(ちいさなくちにおしこんでないた。すわはついおくからさめて、ふしんげにめをぱちぱち)
小さな口におしこんで泣いた。スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱち
(させた。たきがささやくのである。はちろうやあ、さぶろうやあ、はちろうやあ。)
させた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。
(ちちおやがぜっぺきのあかいつたのはをかきわけながらでてきた。)
父親が絶壁の紅い蔦の葉をかきわけながら出て来た。
(「すわ、なんぼうれた。」すわはこたえなかった。しぶきにぬれてきらきら)
「スワ、なんぼ売れた。」スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら
(ひかっているはなさきをつよくこすった。ちちおやはだまってみせをかたづけた。)
光っている鼻先を強くこすった。父親はだまって店を片づけた。
(すみごやまでのさんちょうほどのやまみちを、すわとちちおやはくまざさをふみわけつつあるいた。)
炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。
(「もうみせしまうべえ。」ちちおやはてかごをみぎてからひだりてへもちかえた。らむねのびんが)
「もう店しまうべえ。」父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶が
(からからなった。「あきどようすぎでやまさくるやつもねえべ。」ひがくれかけると)
からから鳴った。「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ。」日が暮れかけると
(やまはかぜのおとばかりだった。ならやもみのかれはがおりおりみぞれのようにふたりのからだへ)
山は風の音ばかりだった。楢や樅の枯葉が折々みぞれのようにふたりのからだへ
(ふりかかった。「おど。」すわはちちおやのうしろからこえをかけた。)
降りかかった。「お父。」スワは父親のうしろから声をかけた。
(「おめえ、なにしにいきでるば。」ちちおやはおおきいかたをぎくっとすぼめた。)
「おめえ、なにしに生きでるば。」父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。
(すわのきびしいかおをしげしげみてからつぶやいた。「わからねじゃ。」)
スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。「判らねじゃ。」
(すわはてにしていたすすきのはをかみさきながらいった。)
スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。
(「くたばったほうあ、いいんだに。」ちちおやはひらてをあげた。)
「くたばった方あ、いいんだに。」父親は平手をあげた。
(ぶちのめそうとおもったのである。しかし、もじもじとてをおろした。)
ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。
(すわのきがたってきたのをとうからみぬいていたが、それもすわがそろそろ)
スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ
(いちにんまえのおんなになったからだな、とかんがえて)
一人前のおんなになったからだな、と考えて
(そのときはかんにんしてやったのであった。「そだべな、そだべな。」)
そのときは堪忍してやったのであった。「そだべな、そだべな。」
(すわは、そういうちちおやのかかりくさのないへんじがばかくさくてばかくさくて、)
スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、
(すすきのはをべっべっとはきだしつつ、「あほう、あほう。」とどなった。)
すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、「阿呆、阿呆。」と怒鳴った。
(ぼんがすぎてちゃみせをたたんでからすわのいちばんいやなきせつがはじまるのである)
ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである
(ちちおやはこのころからしごにちおきにすみをせおってむらへうりにでた。)
父親はこのころから四五日おきに炭を脊負って村へ売りに出た。
(ひとをたのめばいいのだけれど、そうするとじゅうごせんもにじゅっせんもとられて)
人をたのめばいいのだけれど、そうすると十五銭もニ十銭も取られて
(たいしたついえであるから、すわひとりをのこしてふもとのむらへおりて)
たいしたついえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて
(いくのであった。すわはそらのあおくはれたひだとそのるすにきのこをさがしに)
行くのであった。スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈をさがしに
(でかけるのである。ちちおやのこさえるすみはいっぴょうでごろくせんももうけがあれば)
出かけるのである。父親のこさえる炭は一俵で五六銭も儲けがあれば
(いいほうだったし、とてもそれだけではくらせないから、ちちおやはすわにきのこを)
いい方だったし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を
(とらせてむらへもっていくことにしていた。なめこというぬらぬらしたまめきのこは)
取らせて村へ持って行くことにしていた。なめこというぬらぬらした豆きのこは
(たいへんねだんがよかった。それはしだるいのみっせいしているふぼくへかたまって)
大変ねだんがよかった。それは羊歯類の密生している腐木へかたまって
(はえているのだ。すわはそんなこけをながめるごとに、たったひとりの)
はえているのだ。スワはそんな苔を眺めるごとに、たった一人の
(ともだちのことをついそうした。きのこのいっぱいつまったかごのうえへあおいこけをふりまいて)
ともだちのことを追想した。蕈のいっぱいつまった籠の上へ青い苔をふりまいて
(こやへもってかえるのがすきであった。ちちおやはすみでもきのこでもそれがいいねで)
小屋へ持って帰るのが好きであった。父親は炭でも蕈でもそれがいい値で
(うれると、きまってさけくさいいきをしてかえった。たまにはすわへもかがみのついた)
売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。たまにはスワへも鏡のついた
(かみのさいふやなにかをかってきてくれた。こがらしのためにあさからやまがあれて)
紙の財布やなにかを買って来て呉れた。凩のために朝から山があれて
(こやのかけむしろがにぶくゆすられていたひであった。ちちおやはそうぎょうからむらへ)
小屋のかけむしろがにぶくゆすられていた日であった。父親は早暁から村へ
(おりていったのである。すわはいちにちじゅうこやへこもっていた。)
下りて行ったのである。スワは一日じゅう小屋へこもっていた。
(めずらしくきょうはかみをゆってみたのである。ぐるぐるまいたかみのねへ、)
めずらしくきょうは髪をゆってみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、
(ちちおやのみやげのなみもようがついたたけながをむすんだ。それからたきびをうんと)
父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。それから焚火をうんと
(もやしてちちおやのかえるのをまった。きぎのさわぐおとにまじってけだものの)
燃やして父親の帰るのを待った。木々のさわぐ音にまじってけだものの
(さけびごえがいくどもきこえた。ひがくれかけてきたのでひとりでゆうめしをくった。)
叫び声が幾度もきこえた。日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。
(くろいめしにやいたみそをかててくった。よるになるとかぜがやんでしんしんと)
くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。夜になると風がやんでしんしんと
(さむくなった。こんなみょうにしずかなばんにはやまできっとふしぎがおこるのである。)
寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起こるのである。
(てんぐのたいぼくをきりたおすおとがめりめりときこえたり、こやのくちあたりで、だれかの)
天狗の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かの
(あずきをとぐけはいがさくさくとみみについたり、とおいところからやまふとのわらいごえが)
あずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人の笑い声が
(はっきりひびいてきたりするのであった。ちちおやをまちわびたすわは、)
はっきり響いてきたりするのであった。父親を待ちわびたスワは、
(わらぶとんきてろばたへねてしまった。うとうとねむっていると、ときどきそっと)
わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまった。うとうと眠っていると、ときどきそっと
(いりぐちのどまへまいこんでくるのがもえのこりのたきびのあかりでおぼろにみえた。)
入口の土間へ舞いこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。
(はつゆきだ!とゆめみごこちながらうきうきした。)
初雪だ!と夢見心地ながらうきうきした。
(とうつう。からだがしびれるほどおもかった。ついであのくさいこきゅうをきいた。)
疼痛。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
(すわはみじかくさけんだ。ものもわからずそとへはしってでた。ふぶき!それがどっと)
スワは短く叫んだ。ものもわからず外へはしって出た。吹雪!それがどっと
(かおをぶった。おもわずめためたすわってしまった。)
顔をぶった。思わずめためた坐って了った。
(みるみるかみもきものもまっしろになった。すわはおきあがってかたであらくいきを)
みるみる髪も着物もまっしろになった。スワは起きあがって肩であらく息を
(しながら、むしむしあるきだした。きものがれっぷうでもみくちゃにされていた。)
しながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉みくちゃにされていた。
(どこまでもあるいた。たきのおとがだんだんとおおきくきこえてきた。ずんずんあるいた。)
どこまでも歩いた。滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。
(てのひらでみずばなをなんどもぬぐった。ほとんどあしのましたでたきのおとがした。)
てのひらで水洟を何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
(くるいうなるふゆこだちの、ほそいすきまから、「おど!」とひくくいってとびこんだ。)
狂い唸る冬木立の、細いすきまから、「おど!」とひくく言って飛び込んだ。
(きがつくとあたりはうすぐらいのだ。たきのとどろきがかすかにかんじられた。)
気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟が幽かに感じられた。
(ずっとあたまのうえでそれをかんじたのである。からだがそのひびきにつられて)
ずっと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつられて
(ゆらゆらうごいて、みうちがほねまでつめたかった。ははあみずのそこだな、とわかると、)
ゆらゆら動いて、みうちが骨まで冷たかった。ははあ水の底だな、とわかると、
(やたらむしょうにすっきりした。さっぱりした。ふと、りょうあしをのばしたら、)
やたらむしょうにすっきりした。さっぱりした。ふと、両脚をのばしたら、
(すすとまえへおともなくすすんだ。はながしらがあやうくきしのいわかどへぶっつかろうとした)
すすと前へ音もなく進んだ。鼻がしらがあやうく岸の岩角へぶっつかろうとした
(だいじゃ!だいじゃになってしまったのだとおもった)
大蛇!大蛇になってしまったのだと思った。
(うれしいな、もうこやへかえれないのだ、ひとりごとをいってくちひげを)
うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ、ひとりごとを言って口ひげを
(おおきくうごかした。ちいさなふなであったのである。ただくちをぱくぱくとやって)
大きくうごかした。小さな鮒であったのである。ただ口をぱくぱくとやって
(はなさきのいぼをうごめかしただけのことであったのに。)
鼻さきの疣をうごめかしただけのことであったのに
(ふなはたきつぼのちかくのふちをあちこちとおよぎまわった。むなびれをぴらぴらさせてすいめんへ)
鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまわった。胸鰭をぴらぴらさせて水面へ
(うかんできたかとおもうと、つとおひれをつよくふってそこふかくもぐりこんだ。)
浮かんで来たかと思うと、つと尾鰭をつよく振って底深くもぐりこんだ
(みずのなかのこえびをおっかけたり、きしべのあしのしげみにかくれてみたり、)
水のなかの小えびを追っかけたり、岸辺の葦のしげみに隠れて見たり、
(いわかどのこけをすすたりしてあそんでいた。それからふなはじっとうごかなくなった。)
岩角の苔をすすたりして遊んでいた。それから鮒はじっとうごかなくなった。
(ときおり、むなびれをこまかくそよがせるだけである。なにかかんがえているらしかった。)
時折、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考えているらしかった。
(しばらくそうしていた。やがてからだをくねらせながらまっすぐにたきつぼへ)
しばらくそうしていた。やがてからだをくねらせながらまっすぐに滝壺へ
(むかっていった。たちまち、くるくるとこのはのようにすいこまれた。)
むかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。