晩年 ㉓

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太宰 治

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問題文

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(そのひのひるすぎ、しらいしはしろおてとかいけんした。ばしょはきりしたんやしきないであって、)

その日のひるすぎ、白石はシロオテと会見した。場所は切支丹屋敷内であって、

(そのほうていのなんめんにいたえんがあり、そのえんのちかくにぶぎょうたちがちゃくせきし、)

その法庭の南面に板縁があり、その縁のちかくに奉行たちが着席し、

(それよりすこしおくのほうにしらいしがすわった。だいつうじはいたえんのうえ、にしにひざまずき、)

それより少し奥の方に白石が坐った。大通事は板縁の上、西に跪き、

(けいこつうじふたりはいたえんのうえ、ひがしにひざまずいた。えんからさんしゃくばかりはなれたどまに)

稽古通事ふたりは板縁の上、東に跪いた。縁から三尺ばかり離れた土間に

(こしかけをおいてしろおてのせきとなした。やがて、しろおてはごくちゅうから)

榻を置いてシロオテの席となした。やがて、シロオテは獄中から

(こしではこばれてきた。ながいどうちゅうのためにりょうあしがなえてかたわになって)

輿ではこばれて来た。永い道中のために両脚が萎えてかたわになって

(いたのである。ほそつふたりさゆうからさしはさみたすけて、こしかけにつかせた。)

いたのである。歩卒ふたり左右からさしはさみ助けて、榻につかせた。

(しろおてのさかやきはのびていた。さっしゅうのこくしゅからもらったちゃいろのわたいれきものを)

シロオテのさかやきは伸びていた。薩州の国守からもらった茶色の綿入れ着物を

(きていたけれど、さむそうであった。ざにつくと、しずかにみぎてでじゅうじをきった。)

着ていたけれど、寒そうであった。座につくと、静かに右手で十字を切った。

(しらいしはつうじにいいつけて、しろおてのこきょうのことなどとわせ、)

白石は通事に言いつけて、シロオテの故郷のことなど問わせ、

(じぶんはしろおてのこたえることばにみみかたむけていた。そのかたることばは、にほんごに)

自分はシロオテのこたえる言葉に耳傾けていた。その語る言葉は、日本語に

(ちがいなく、きない、やまかげ、せいなんかいどうのほうげんがまじっていてききとりがたい)

ちがいなく、畿内、山陰、西南街道の方言がまじっていて聞きとりがたい

(ところもあったけれど、かねておもいはかっていたよりはりょうかいが)

ところもあったけれど、かねて思いはかっていたよりは了解が

(やさしいのであった。やあぱんにあのろうのなかでいちねんをすごしたしろおては、)

やさしいのであった。ヤアパンニアの牢のなかで一年をすごしたシロオテは、

(にほんのことばがすこしじょうずになっていたのである。つうじとのもんどうをいちじかんほど)

日本の言葉がすこし上手になっていたのである。通事との問答を一時間ほど

(きいてから、しらいしみずからといもしこたえもしてみて、そのかいわにややじしんを)

聞いてから、白石みずから問いもし答えもしてみて、その会話にやや自信を

(えた。しらいしは、ばんこくのずをとりだして、しろおてのふるさとをたずねとうた。)

得た。白石は、万国の図を取り出して、シロオテのふるさとをたずね問うた。

(しろおてはいたえんにひろげられたそのちずをくびすじのばしてのぞいていたがやがて、)

シロオテは板縁にひろげられたその地図を首筋のばして覗いていたがやがて、

(これはあきとのつくったものでいみのないものである、といってこえたててわらった。)

これは明人のつくったもので意味のないものである、と言って声たてて笑った。

(ちずのちゅうおうにばらのはなのかたちをしたおおきいくにがあって、それには「だいめい」と)

地図の中央に薔薇の花のかたちをした大きい国があって、それには「大明」と

など

(きにゅうされているのであった。このひは、それだけのじんもんでうちきった。)

記入されているのであった。この日は、それだけの訊問で打ち切った。

(しろおては、わずかのきかいをもとらえてきりしたんのきょうほうをとこうとおもってか、)

シロオテは、わずかの機会をもとらえて切支丹の教法を説こうと思ってか、

(ひどくあせっているふうであったが、しらいしはなぜかきこえぬふりをするのである。)

ひどくあせっているふうであったが、白石はなぜか聞えぬふりをするのである。

(あくるひのよる、しらいしはつうじたちをじぶんのうちにまねいて、しろおてのいうたことに)

あくる日の夜、白石は通事たちを自分のうちに招いて、シロオテの言うたことに

(つき、みんなにふくしゅうさせた。しらいしはばんこくのずがはずかしめられたのを)

就き、みんなに復習させた。白石は万国の図がはずかしめられたのを

(きにかけていた。きりしたんやしきにおおらんどろうはんのふるいずがあるということを)

気にかけていた。切支丹屋敷にオオランド鏤版の古い図があるということを

(ぶぎょうたちからきき、このつぎのじんもんのときにはひとつそれをしろおてに)

奉行たちから聞き、このつぎの訊問のときにはひとつそれをシロオテに

(みせてやるよう、いいつけてさんかいした。いちにちおいてにじゅうごにちに、)

見せてやるよう、言いつけて散会した。一日おいてニ十五日に、

(しらいしはそうちょうからぎんみじょへつめかけた。ごぜんじゅうじごろ、ぶぎょうのひとたちもみんな)

白石は早朝から吟味所へつめかけた。午前十時ごろ、奉行の人たちもみんな

(でそろってちゃくせきした。やがてしろおてもこしではこばれてやってきた。)

出そろって着席した。やがてシロオテも輿ではこばれてやってきた。

(きょうは、だいいちばんに、あのおおらんどろうはんのちずをいたえんいっぱいに)

きょうは、だいいちばんに、あのオオランド鏤版の地図を板縁いっぱいに

(ひろげて、かのちほうのことをといただしたのである。ちずのここかしこはやぶれて)

ひろげて、かの地方のことを問いただしたのである。地図のここかしこは破れて

(むしにくわれたあながそちこちにちらばっていた。しろおてはそのずを)

虫に食われた孔がそちこちにちらばっていた。シロオテはその図を

(しばらくながめてから、これはななじゅうよねんまえにつくられたものであって、いまでは、)

暫く眺めてから、これは七十余年まえにつくられたものであって、いまでは、

(むこうのくにでもえがたいこうちずである、とほめた。ろおまんはどこにあるか、)

むこうの国でも得がたい好地図である、とほめた。ロオマンはどこにあるか、

(としらいしもひざをすすめてたずねた。しろおては、ちるちぬすがあるか、といった。)

と白石も膝をすすめて尋ねた。シロオテは、チルチヌスがあるか、と言った。

(つうじたちは、ない、とこたえた。なにごとか、としらいしはつうじたちにきいた。)

通事たちは、ない、と答えた。なにごとか、と白石は通事たちに聞いた。

(おらんだごではぱっするともうし、いたりやごではこんぱすともうすもののことである)

阿蘭陀語ではパッスルと申し、イタリヤ語ではコンパスと申すもののことである

(とつうじのひとりがおしえた。しらいしは、こんぱすというものかどうかしらぬが、)

と通事のひとりが教えた。白石は、コンパスというものかどうか知らぬが、

(ちずにようありげなきかいであるから、わたしがこのやしきでみつけていまもってきてある)

地図に用ありげな機械であるから、私がこの屋敷で見つけていま持って来てある

(といいつつかいちゅうからふるびたこんぱすをだしてみせた。しろおてはそれをうけとり)

と言いつつ懐中から古びたコンパスを出して見せた。シロオテはそれを受けとり

(ちょっとのあいだいじくりまわしていたが、これはこんぱすにちがいないが、)

鳥渡の間いじくりまわしていたが、これはコンパスにちがいないが、

(ねじがゆるんでようにたたぬ、しかし、ないよりはましかもしれぬ、という)

ねじがゆるんで用に立たぬ、しかし、ないよりはましかも知れぬ、という

(いみのことをのべ、そのちずのうちにはかるべきところをこまかくずしてある)

意味のことを述べ、その地図のうちに計るべきところをこまかく図してある

(ところをみて、ふでをもとめ、そのじをうつしとってから、こんぱすをもちなおして)

ところを見て、筆を求め、その字を写しとってから、コンパスを持ち直して

(そのぶんすうをはかりとり、こしかけにすわったままいたえんのちずへずっとてをさしのばして、)

その分数をはかりとり、榻に坐ったまま板縁の地図へずっと手をさしのばして、

(そのこまかくずしてあるところよりくものいのようにえがかれたせんろを)

そのこまかく図してあるところより蜘蛛の網のように画かれた線路を

(たずねながら、かなたこなたへこんぱすをあるかせているうちに、てのやっと)

たずねながら、かなたこなたへコンパスを歩かせているうちに、手のやっと

(とどくようなところへいって、ここであろう、みたまえ、といいこんぱすを)

届くようなところへいって、ここであろう、見給え、と言いコンパスを

(さしたてた。みんなあたまをよせてみると、はりのあなのようなちいさいまるにこんぱすの)

さし立てた。みんな頭を寄せて見ると、針の孔のような小さいまるにコンパスの

(さきがとまっていた。つうじのひとりは、そのまるのかたわらのばんじを)

さきが止まっていた。通事のひとりは、そのまるのかたわらの蕃字を

(ろおまんとよんだ。それから、おらんだやにほんのくにぐにのあるところをとうに、)

ロオマンと読んだ。それから、阿蘭陀や日本の国々のあるところを問うに、

(また、まえのほうのようにして、ひとところもさしそこねることがなかった。)

また、まえの法のようにして、ひとところもさし損ねることがなかった。

(にほんはおもいのほかにせまくるしく、えどはむしにくわれて、そのしょざいを)

日本は思いのほかにせまくるしく、エドは虫に食われて、その所在を

(たしかめることさえできなかった。しろおては、こんぱすをあちらこちらと)

たしかめることさえできなかった。シロオテは、コンパスをあちらこちらと

(あるかせつつ、ばんこくのめずらしいはなしをかたってきかせた。おうごんのさんするくに。)

歩かせつつ、万国のめずらしい話を語って聞かせた。黄金の産する国。

(たばこのみのるくに。うみくじらのすむたいよう。きにすみあなにいてうまれながらにいろのくろい)

たばこの実る国。海鯨の住む太洋。木に棲み穴にいてうまれながらに色の黒い

(くろんぼうのくに。ちょうじんこく。こびとこく。ひるのないくに。よるのないくに。)

くろんぼうの国。長人国。小人国。昼のない国。夜のない国。

(さては、ひゃくまんのたいぐんがいませんそうさいちゅうのこうや。いくさぶねひゃくはちじゅっせきが)

さては、百万の大軍がいま戦争さいちゅうの曠野。戦船百八十隻が

(たがいにほうかをまじえているかいきょう。しろおては、ひのぼっするまで)

たがいに砲火をまじえている海峡。シロオテは、日の没するまで

(かたりつづけたのである。ひがくれて、じんもんもおわってから、しらいしはしろおてを)

語りつづけたのである。日が暮れて、訊問もおわってから、白石はシロオテを

(そのごくしゃにおとずれた。ひろいごくしゃをあついいたでみっつにくぎってあって、)

その獄舎に訪れた。ひろい獄舎を厚い板で三つに区切ってあって、

(そのにしのひとまにしろおてがいた。あかいかみをきってじゅうじをつくり、それをにしのかべに)

その西の一間にシロオテがいた。赤い紙を剪って十字を作り、それを西の壁に

(はりつけてあるのが、くらがりをとおして、おぼろげにみえた。)

貼りつけてあるのが、くらがりを通して、おぼろげに見えた。

(しろおてはそれにむかって、なにやらきょうもんを、ひくくよみあげていた。)

シロオテはそれにむかって、なにやら経文を、ひくく読みあげていた。

(しらいしはいえへかえって、わすれぬうちにもと、きょうしろおてからおそわったちしきを)

白石は家へ帰って、忘れぬうちにもと、きょうシロオテから教わった知識を

(てちょうにかいた。だいち、かいすいとあいおうて、そのかたちまどかなることてまりのごとくにして)

手帖に書いた。大地、海水と相合うて、その形まどかなること手毬の如くにして

(てん、えんのうちにいる。たとえば、けいしのきなる、あおきうちにあるがごとし。)

天、円のうちに居る。たとえば、鶏子の黄なる、青きうちにあるが如し。

(そのちきゅうのしゅうい、きゅうばんりにして、じょうげしほう、みな、ひとありていれり。)

その地球の周囲、九万里にして、上下四旁、皆、人ありて居れり。

(およそ、そのちをわかちて、ごだいしゅうとなす。うんぬん。)

凡、その地をわかちて、五大州となす。云々。

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