晩年 ㉙

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プレイ回数686難易度(4.5) 4262打 長文
太宰 治

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問題文

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(しょうごちかく、けいさつのひとがふたり、ようぞうをみまった。まのはせきをはずした。)

正午ちかく、警察のひとが二人、葉蔵を見舞った。真野は席をはずした。

(ふたりとも、せびろをきたしんしであった。ひとりはみじかいくちひげをはやし、ひとりは)

ふたりとも、脊広を着た紳士であった。ひとりは短い口鬚を生やし、ひとりは

(てつぶちのめがねをかけていた。ひげは、こえをひくくしてそのとのいきさつをたずねた。)

鉄縁の眼鏡を掛けていた。鬚は、声をひくくして園とのいきさつを尋ねた。

(ようぞうは、ありのままをこたえた。ひげは、ちいさいてちょうにそれをかきとるのであった。)

葉蔵は、ありのままを答えた。鬚は、小さい手帖にそれを書きとるのであった。

(ひととおりのじんもんをすませてから、ひげは、べっどへのしかかるようにしていった)

ひととおりの訊問をすませてから、鬚は、ベッドへのしかかるようにして言った

(「おんなはしんだよ。きみにはしぬきがあったのかね。」ようぞうは、だまっていた。)

「女は死んだよ。君には死ぬ気があったのかね。」葉蔵は、だまっていた。

(てつぶちのめがねをかけたけいじは、にくのあついひたいにしわをにさんぼんもりあがらせてほほえみつつ)

鉄縁の眼鏡を掛けた刑事は、肉の厚い額に皺をニ三本もりあがらせて微笑みつつ

(ひげのかたをたたいた。「よせ、よせ。かわいそうだ。またにしよう。」)

鬚の肩を叩いた。「よせ、よせ。可愛そうだ。またにしよう。」

(ひげは、ようぞうのめつきを、まっすぐにみつめたまま、しぶしぶてちょうをうわぎの)

鬚は、葉蔵の眼つきを、まっすぐに見つめたまま、しぶしぶ手帖を上衣の

(ぽけっとにしまいこんだ。そのけいじたちがたちさってから、まのは、いそいで)

ポケットにしまい込んだ。その刑事たちが立ち去ってから、真野は、いそいで

(ようぞうのむろへかえってきた。けれども、どあをあけたとたんに、おえつしているようぞうを)

葉蔵の室へ帰って来た。けれども、ドアをあけたとたんに、嗚咽している葉蔵を

(みてしまった。そのままそっとどあをしめて、ろうかにしばらくたちつくした。)

見てしまった。そのままそっとドアをしめて、廊下にしばらく立ちつくした。

(ごごになってあめがふりだした。ようぞうは、ひとりでかわやへたってあるけるほどげんきを)

午後になって雨が降りだした。葉蔵は、ひとりで厠へ立って歩けるほど元気を

(かいふくしていた。ゆうじんのひだが、ぬれたがいとうをきたままで、びょうしつへおどりこんで)

恢復していた。友人の飛騨が、濡れた外套を着たままで、病室へおどり込んで

(きた。ようぞうはねむったふりをした。ひだはまのへこごえでたずねた。)

来た。葉蔵は眠ったふりをした。飛騨は真野へ小声でたずねた。

(「だいじょうぶですか?」「ええ、もう」「おどろいたなあ。」)

「だいじょうぶですか?」「ええ、もう」「おどろいたなあ。」

(かれはこえたからだをくねくねさせてそのゆどくさいがいとうをぬぎ、まのへてわたした)

彼は肥えたからだをくねくねさせてその油土くさい外套を脱ぎ、真野へ手渡した

(ひだは、なのないちょうこくかで、おなじようにむめいのようがかであるようぞうとは、)

飛騨は、名のない彫刻家で、おなじように無名の洋画家である葉蔵とは、

(ちゅうがっこうじだいからのともだちであった。すなおなこころをもったひとなら、)

中学校時代からの友だちであった。素直な心を持った人なら、

(そのわかいときには、おのれのみぢかちかくのだれかをきっとぐうぞうにしたてたがる)

そのわかいときには、おのれの身近ちかくの誰かをきっと偶像に仕立てたがる

など

(ものであるが、ひだもまたそうであった。かれは、ちゅうがっこうへはいるとから、)

ものであるが、飛騨もまたそうであった。彼は、中学校へはいるとから、

(そのくらすのしゅせきのせいとをほれぼれとながめていた。しゅせきはようぞうであった。)

そのクラスの首席の生徒をほれぼれと眺めていた。首席は葉蔵であった。

(じゅぎょうちゅうのようぞうのいっぴんいっしょうも、ひだにとっては、ただごとでなかった。)

授業中の葉蔵の一嚬一笑も、飛騨にとっては、ただごとでなかった。

(また、こうていのすなやまのかげにようぞうのおとなびたこどくなすがたをみつけて、ひとしれず)

また、校庭の砂山の陰に葉蔵のおとなびた孤独なすがたを見つけて、ひとしれず

(ふかいためいきをついた。ああ、そしてようぞうとはじめてことばをかわしたひのかんき。)

ふかい溜息をついた。ああ、そして葉蔵とはじめて言葉を交わした日の歓喜。

(ひだは、なんでもようぞうのまねをした。たばこをすった。きょうしをわらった。)

飛騨は、なんでも葉蔵の真似をした。煙草を吸った。教師を笑った。

(りょうてをあたまのうしろにくんで、こうていをよろよろとさまよいあるくほうもおぼえた。)

両手を頭のうしろに組んで、校庭をよろよろとさまよい歩く法もおぼえた。

(げいじゅつかのいちばんえらいわけをもしったのである。ようぞうは、びじゅつがっこうへはいった)

芸術家のいちばんえらいわけをも知ったのである。葉蔵は、美術学校へはいった

(ひだはいちねんおくれたが、それでもようぞうとおなじびじゅつがっこうへはいることができた。)

飛騨は一年おくれたが、それでも葉蔵とおなじ美術学校へはいることができた。

(ようぞうは、ようがをべんきょうしていたが、ひだは、わざとそぞうかをえらんだ。)

葉蔵は、洋画を勉強していたが、飛騨は、わざと塑像科をえらんだ。

(ろだんのばるざっくぞうにかんげきしたからだというのであったが、それはかれが)

ロダンのバルザック像に感激したからだと言うのであったが、それは彼が

(おおやになったとき、そのけいれきにかるいもったいをつけるためのよねんない)

大家になったとき、その経歴に軽いもったいをつけるための余念ない

(でたらめであって、まことはようぞうのようがにたいするえんりょからであった。)

出鱈目であって、まことは葉蔵の洋画に対する遠慮からであった。

(ひけめからであった。そのころになって、ようやくふたりのみちがわかれはじめた。)

ひけめからであった。そのころになって、ようやく二人のみちがわかれ始めた。

(ようぞうのからだは、いよいよやせていったが、ひだは、すこしずつふとった。)

葉蔵のからだは、いよいよ痩せていったが、飛騨は、すこしずつ太った。

(ふたりのけんかくはそれだけでなかった。ようぞうは、あるちょくせつなてつがくにこころをそそられ、)

ふたりの懸隔はそれだけでなかった。葉蔵は、或る直截な哲学に心をそそられ、

(げいじゅつをばかにしだした。ひだは、また、すこしうちょうてんになりすぎていた。)

芸術を馬鹿にしだした。飛騨は、また、すこし有頂天になりすぎていた。

(きくものが、かえってきまりのわるくなるほど、げいじゅつということばをれんぱつするので)

聞くものが、かえってきまりのわるくなるほど、芸術という言葉を連発するので

(あった。つねにけっさくをゆめみつつ、べんきょうをおこたっていた。そうしてふたりとも、)

あった。つねに傑作を夢みつつ、勉強を怠っていた。そうしてふたりとも、

(よくないせいせきでがっこうをそつぎょうした。ようぞうは、ほとんどえふでをなげすてた。)

よくない成績で学校を卒業した。葉蔵は、ほとんど絵筆を投げ捨てた。

(かいがはぽすたあでしかないものだ、といっては、ひだをしょげさせた。)

絵画はポスタアでしかないものだ、と言っては、飛騨をしょげさせた。

(すべてのげいじゅつはしゃかいのけいざいきこうからはなたれたへである。せいかつりょくのいちけいしきに)

すべての芸術は社会の経済機構から放たれた屁である。生活力の一形式に

(すぎない。どんなけっさくでもくつしたとおなじしょうひんだ、などとおぼつかなげなくちょうで)

すぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で

(いってひだをけむにまくのであった。ひだは、むかしにかわらずようぞうを)

言って飛騨をけむに巻くのであった。飛騨は、むかしに変わらず葉蔵を

(すいていたし、ようぞうのちかごろのしそうにも、ぼんやりしたいけいをかんじていたが、)

好いていたし、葉蔵のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じていたが、

(しかしひだにとって、けっさくのときめきが、なんにもましておおきかったのである。)

しかし飛騨にとって、傑作のときめきが、何にもまして大きかったのである。

(いまに、いまに、とかんがえながら、ただそわそわとねんどをいじくっていた。)

いまに、いまに、と考えながら、ただそわそわと粘土をいじくっていた。

(つまり、このふたりはげいじゅつかであるよりは、げいじゅつひんである。いや、それだからこそ)

つまり、この二人は芸術家であるよりは、芸術品である。いや、それだからこそ

(ぼくもこうしてやすやすとじょじゅつできたのであろう。ほんとのしじょうのげいじゅつかを)

僕もこうしてやすやすと叙述できたのであろう。ほんとの市場の芸術家を

(おめにかけたら、しょくんは、さんぎょうよまぬうちにげろをはくだろう。それはほしょうする)

お目にかけたら、諸君は、三行読まぬうちにげろを吐くだろう。それは保証する

(ところで、きみ、そんなふうのしょうせつをかいてみないか。どうだ。)

ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。

(ひだもまたようぞうのかおをみられなかった。できるだけきようにしのびあしをつかい、)

飛騨もまた葉蔵の顔を見られなかった。できるだけ器用に忍びあしを使い、

(ようぞうのまくらもとでちかよっていったが、がらすどのそとのあまあしをまじまじながめている)

葉蔵の枕元で近寄っていったが、硝子戸のそとの雨脚をまじまじ眺めている

(だけであった。ようぞうは、めをひらいてうすわらいしながらこえをかけた。)

だけであった。葉蔵は、眼をひらいてうす笑いしながら声をかけた。

(「おどろいたろう。」びっくりして、ようぞうのかおをちらとみたが、すぐめをふせて)

「おどろいたろう。」びっくりして、葉蔵の顔をちらと見たが、すぐ眼を伏せて

(こたえた。「うん。」「どうしてしったの?」ひだはためらった。)

答えた。「うん。」「どうして知ったの?」飛騨はためらった。

(みぎてをずぼんのぽけっとからぬいてひろいかおをなでまわしながら、まのへ、)

右手をズボンのポケットから抜いてひろい顔を撫でまわしながら、真野へ、

(いってもよいか、とめでこっそりたずねた。まのはまじめなかおをしてかすかにくびを)

言ってもよいか、と眼でこっそり尋ねた。真野はまじめな顔をしてかすかに首を

(ふった。「しんぶんにでていたのかい?」「うん。」ほんとは、らじおのにうすで)

振った。「新聞に出ていたのかい?」「うん。」ほんとは、ラジオのニウスで

(しったのであるようぞうは、ひだのにえきらぬそぶりをにくくおもった。)

知ったのである葉蔵は、飛騨の煮え切らぬそぶりを憎く思った。

(もっとうちとけてくれてもいいとおもった。いちやあけたら、もんどりうって、)

もっとうち解けて呉れてもいいと思った。一夜あけたら、もんどり打って、

(おのれをいこくじんあつかいにしてしまったこのじゅうねんらいのともがにくかった。)

おのれを異国人あつかいにしてしまったこの十年来の友が憎かった。

(ようぞうは、ふたたびねむったふりをした。)

葉蔵は、ふたたび眠ったふりをした。

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