晩年 ㊱

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太宰 治

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問題文

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(あくるひ、あさからりょうよういんがざわめいていた。ゆきがふっていたのである。)

翌る日、朝から療養院がざわめいていた。雪が降っていたのである。

(りょうよういんのぜんていのせんぼんばかりのひくそなれまつがいちようにゆきをかぶり、そこから)

療養院の前庭の千本ばかりのひくい磯馴松がいちように雪をかぶり、そこから

(おりるさんじゅういくつのいしのだんだんにも、それへつづくすなはまにも、ゆきがうすく)

おりる三十いくつの石の段々にも、それへつづく砂浜にも、雪がうすく

(つもっていた。ふったりやんだりしながら、ゆきはひるごろまでつづいた。)

積っていた。降ったりやんだりしながら、雪は昼頃までつづいた。

(ようぞうは、べっどのうえではらばいになり、ゆきのけしきをすけっちしていた。)

葉蔵は、ベッドの上で腹這いになり、雪の景色をスケッチしていた。

(もくたんしとえんぴつをまのにかわせて、ゆきのまったくふりやんだころからしごとに)

木炭紙と鉛筆を真野に買わせて、雪のまったく降りやんだころから仕事に

(かかったのである。びょうしつはゆきのはんしゃであかるかった。こすがはそふぁにねころんで)

かかったのである。病室は雪の反射であかるかった。小菅はソファに寝ころんで

(ざっしをよんでいた。ときどきようぞうのえを、くびすじのばしてのぞいた。)

雑誌を読んでいた。ときどき葉蔵の画を、首すじのばして覗いた。

(げいじゅつというものに、ぼんやりしたいけいをかんじているのであった。)

芸術というものに、ぼんやりした畏敬を感じているのであった。

(それは、ようぞうひとりにたいするしんらいからおこったかんじょうである。こすがはおさないときから)

それは、葉蔵ひとりに対する信頼から起こった感情である。小菅は幼いときから

(ようぞうをみてしっていた。いっぷうかわっているとおもっていた。いっしょにあそんでいる)

葉蔵を見て知っていた。いっぷう変わっていると思っていた。一緒に遊んでいる

(うちに、ようぞうのそのかわりかたをすべてあたまのよさであるとどくだんしてしまった。)

うちに、葉蔵のその変りかたをすべて頭のよさであると独断してしまった。

(おしゃれでうそのうまいこうしょくな、そしてざんにんでさえあったようぞうを、こすがはしょうねんの)

おしゃれで嘘のうまい好色な、そして残忍でさえあった葉蔵を、小菅は少年の

(ころからすきだったのである。ことにがくせいじだいのようぞうが、そのきょうしたちのかげぐちを)

ころから好きだったのである。殊に学生時代の葉蔵が、その教師たちの陰口を

(きくときのもえるようなひとみをあいした。しかし、そのあいしかたは、ひだなぞとは)

きくときの燃えるような瞳を愛した。しかし、その愛しかたは、飛騨なぞとは

(ちがって、かんしょうのたいどであった。つまりりこうだったのである。ついていける)

ちがって、観賞の態度であった。つまり利巧だったのである。ついて行ける

(ところまではついていき、そのうちにばからしくなりみをひるがえしてぼうかんする)

ところまではついて行き、そのうちに馬鹿らしくなり身をひるがえして傍観する

(これがこすがの、ようぞうやひだよりもさらになにやらあたらしいところなのであろう。)

これが小菅の、葉蔵や飛騨よりも更になにやら新しいところなのであろう。

(こすががげいじゅつをいささかでもいけいしているとすれば、それは、れいのあおいがいとうを)

小菅が芸術をいささかでも畏敬しているとすれば、それは、れいの青い外套を

(きてみじまいをただすのとそっくりおなじいみであって、このはくちゅうつづきのじんせいに)

着て身じまいをただすのとそっくり同じ意味であって、この白昼つづきの人生に

など

(なにかきたいのたいしょうをかんじたいこころからである。ようぞうほどのおとこが、あせみどろになって)

なにか期待の対象を感じたい心からである。葉蔵ほどの男が、汗みどろになって

(つくりだすのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただかるくそう)

作り出すのであるから、きっとただならぬものにちがいない。ただ軽くそう

(おもっている。そのてん、やはりようぞうをしんらいしているのだ。けれどもときどきは)

思っている。その点、やはり葉蔵を信頼しているのだ。けれどもときどきは

(しつぼうする。いま、こすががようぞうのすけっちをぬすみみしながらも、がっかりしている)

失望する。いま、小菅が葉蔵のスケッチを盗み見しながらも、がっかりしている

(もくたんしにえがかれてあるものは、ただうみとしまのけしきである。それも、ふつうのうみと)

木炭紙に画かれてあるものは、ただ海と島の景色である。それも、ふつうの海と

(しまである。こすがはだんねんして、ざっしのこうだんによみふけった。びょうしつは、ひっそり)

島である。小菅は断念して、雑誌の講談に読みふけった。病室は、ひっそり

(していた。まのは、いなかった。せんたくばで、ようぞうのけのしゃつをあらっているのだ)

していた。真野は、いなかった。洗濯場で、葉蔵の毛のシャツを洗っているのだ

(ようぞうは、このしゃつをきてうみへはいった。いそのかおりがほのかにしみこんでいた。)

葉蔵は、このシャツを着て海へはいった。磯の香がほのかにしみこんでいた。

(ごごになって、ひだがけいさつからかえってきた。いきおいこんでびょうしつのどあをあけた)

午後になって、飛騨が警察から帰って来た。いきおい込んで病室のドアをあけた

(「やあ、」ようぞうがすけっちしているのをみて、おおげさにさけんだ。「やってるな。)

「やあ、」葉蔵がスケッチしているのを見て、大袈裟に叫んだ。「やってるな。

(いいよ。げいじゅつかは、やっぱりしごとをするのが、つよみなんだ。」そういいつつ)

いいよ。芸術家は、やっぱり仕事をするのが、つよみなんだ。」そう言いつつ

(べっどへちかより、ようぞうのかたごしにちらとえをみた。ようぞうは、あわててその)

ベッドへ近寄り、葉蔵の肩越しにちらと画を見た。葉蔵は、あわててその

(もくたんしをふたつにおってしまった。それをさらにまたよっつにおりたたみながら、)

木炭紙を二つに折ってしまった。それを更にまた四つに折り畳みながら、

(はにかむようにしていった。「だめだよ。しばらくえがかないでいると、あたまばかり)

はにかむようにして言った。「駄目だよ。しばらく画かないでいると、頭ばかり

(さきになって。」ひだはがいとうをきたままで、べっどのすそへこしかけた。)

先になって。」飛騨は外套を着たままで、ベッドの裾へ腰かけた。

(「そうかもしれんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。げいじゅつにねっしん)

「そうかも知れんな。あせるからだ。しかし、それでいいんだよ。芸術に熱心

(だからなのだ。まあ、そうおもうんだな。いったい、どんなのをえがいたの?」)

だからなのだ。まあ、そう思うんだな。いったい、どんなのを画いたの?」

(ようぞうはほおづえついたまま、がらすどのそとのけしきをあごでしゃくった。)

葉蔵は頬杖ついたまま、硝子戸のそとの景色を顎でしゃくった。

(「うみをえがいた。そらとうみがまっくろで、しまだけがしろいのだ。えがいているうちに、)

「海を画いた。空と海がまっくろで、島だけが白いのだ。画いているうちに、

(きざなきがしてよした。しゅこうがだいいちしろうとくさいよ。」「いいじゃないか。)

きざな気がして止した。趣向がだいいち素人くさいよ。」「いいじゃないか。

(えらいげいじゅつかは、みんなどこかしろうとくさい。それでいいんだ。はじめしろうとで、)

えらい芸術家は、みんなどこか素人くさい。それでいいんだ。はじめ素人で、

(それからくろうとになって、それからまたしろうとになる。またろだんをもちだすが、)

それから玄人になって、それからまた素人になる。またロダンを持ち出すが、

(あいつはしろうとのよさをねらったおとこだ。いや、そうでもないかな。」)

あいつは素人のよさを覘った男だ。いや、そうでもないかな。」

(「ぼくはえをよそうとおもうのだ。」ようぞうはおりたたんだもくたんしをふところにしまいこんで)

「僕は画をよそうと思うのだ。」葉蔵は折り畳んだ木炭紙を懐にしまいこんで

(から、ひだのはなしへおっかぶせるようにしていった。「えは、まだるっこくて)

から、飛騨の話へおっかぶせるようにして言った。「画は、まだるっこくて

(いかんな。ちょうこくだってそうだよ。」ひだはながいかみをかきあげて、たやすく)

いかんな。彫刻だってそうだよ。」飛騨は長い髪を掻きあげて、たやすく

(どういした。「そんなきもちもわかるな。」「できれば、しをかきたいのだ。)

同意した。「そんな気持ちも判るな。」「できれば、詩を書きたいのだ。

(しはしょうじきだからな。」「うん。しも、いいよ。」「しかし、やっぱりつまらない)

詩は正直だからな。」「うん。詩も、いいよ。」「しかし、やっぱりつまらない

(かな。」なんでもかんでもつまらなくしてやろうとおもった。「ぼくにいちばん)

かな。」なんでもかんでもつまらなくしてやろうと思った。「僕にいちばん

(むくのはぱとろんになることかもしれない。かねをもうけて、ひだみたいなよい)

むくのはパトロンになることかも知れない。金をもうけて、飛騨みたいなよい

(げいじゅつかをたくさんあつめて、かわいがってやるのだ。それは、どうだろう。)

芸術家をたくさん集めて、可愛がってやるのだ。それは、どうだろう。

(げいじゅつなんて、はずかしくなった。」やはりほおづえついてうみをながめながら、そういい)

芸術なんて、恥かしくなった。」やはり頬杖ついて海を眺めながら、そう言い

(おえて、おのれのことばのはんのうをしずかにまった。「わるくないよ。それもりっぱな)

終えて、おのれの言葉の反応をしずかに待った。「わるくないよ。それも立派な

(せいかつだとおもうな。そんなひともなくちゃいけないね。じっさい。」いいながら)

生活だと思うな。そんなひともなくちゃいけないね。じっさい。」言いながら

(ひだは、よろめいていた。なにひとつはんばくできぬおのれが、さすがにほうかんじみて)

飛騨は、よろめいていた。なにひとつ反駁できぬおのれが、さすがに幇間じみて

(いるようにおもわれて、いやであった。かれのいわゆる、げいじゅつかとしてのほこりは、)

いるように思われて、いやであった。彼の所謂、芸術家としての誇りは、

(ようやくここまでかれをたかめたわけかもしれない。ひだはひそかにみがまえた。)

ようやくここまで彼を高めたわけかも知れない。飛騨はひそかに身構えた。

(このつぎのことばを!「けいさつのほうは、どうだったい。」こすががふいといいだした)

このつぎの言葉を!「警察のほうは、どうだったい。」小菅がふいと言い出した

(あたらずさわらずのこたえをきたいしていたのである。ひだのどうようはそのほうへ)

あたらずさわらずの答を期待していたのである。飛騨の動揺はその方へ

(はけぐちをみつけた。「きそさ。じさつほうじょざいというやつだ。」いってからくいた。)

はけぐちを見つけた。「起訴さ。自殺幇助罪という奴だ。」言ってから悔いた。

(ひどすぎたとおもった。「だが、けっきょく、きそゆうよになるだろうよ。」)

ひどすぎたと思った。「だが、けっきょく、起訴猶予になるだろうよ。」

(こすがは、それまでそふぁにねそべっていたのをむっくりおきあがって、)

小菅は、それまでソファに寝そべっていたのをむっくり起きあがって、

(てをぴしゃっとうった。「やっかいなことになったぞ。」ちゃかしてしまおうと)

手をぴしゃっと拍った。「やっかいなことになったぞ。」茶化してしまおうと

(おもったのである。しかしだめであった。ようぞうはからだをおおきくひねって、)

思ったのである。しかし駄目であった。葉蔵はからだを大きく捻って、

(あおむけになった。ひとひとりをころしたあとらしくなく、かれらのたいどがあまりにのんき)

仰向になった。ひと一人を殺したあとらしくなく、彼等の態度があまりにのんき

(すぎるとふんまんをかんじていたらしいしょくんは、ここにいたってはじめてかいさいを)

すぎると忿懣を感じていたらしい諸君は、ここにいたってはじめて快哉を

(さけぶだろう。ざまをみろと。しかし、それはこくである。なんの、のんきなことが)

叫ぶだろう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことが

(あるものか。つねにぜつぼうのとなりにいて、きずつきやすいどうけのはなをかぜにもあてず)

あるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つき易い道化の華を風にもあてず

(つくっているこのものがなしさをきみがわかってくれたならば!ひだはおのれのひとことの)

つくっているこのもの悲しさを君が判って呉れたならば!飛騨はおのれの一言の

(こうかにおろおろして、ようぞうのあしをふとんのうえからかるくたたいた。)

効果におろおろして、葉蔵の足を蒲団のうえから軽く叩いた。

(「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ。」こすがは、またそふぁにねころんだ。)

「だいじょうぶだよ。だいじょうぶだよ。」小菅は、またソファに寝ころんだ。

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