晩年 ㊼

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太宰 治

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問題文

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(わかいじぶんには、だれしもいちどはこんなゆうをけいけんするものである。)

わかい時分には、誰しもいちどはこんな夕を経験するものである。

(かれはそのひのくれがた、まちにさまよいでて、とつぜんおどろくべきげんじつをみた。)

彼はその日のくれがた、街にさまよい出て、突然おどろくべき現実を見た。

(かれは、まちをとおるひとびとがことごとくかれのしりあいだったことにきづいた。)

彼は、街を通るひとびとがことごとく彼の知合いだったことに気づいた。

(しわすちかいゆきのまちは、にぎわっていた。かれはせわしげにまちをいききするひとびとへ)

師走近い雪の街は、にぎわっていた。彼はせわしげに街を行き来するひとびとへ

(いちいちかるいえしゃくをしてあるかねばならなかった。とあるうらまちのまがりかどで)

いちいち軽い会釈をして歩かねばならなかった。とある裏町の曲がり角で

(おもいがけなくじょがくせいのいちぐんとであったときなど、かれはほとんどぼうしをとりそうに)

思いがけなく女学生の一群と出逢ったときなど、彼はほとんど帽子をとりそうに

(したほどであった。かれはそのころ、ほっぽうのあるじょうかまちのこうとうがっこうでえいごと)

したほどであった。彼はそのころ、北方の或る城下まちの高等学校で英語と

(どいつごとをべんきょうしていた。かれはえいごのじゆうさくぶんがうまかった。にゅうがくして、)

独逸語とを勉強していた。彼は英語の自由作文がうまかった。入学して、

(ひとつきもたたぬうちに、そのじゆうさくぶんでくらすのせいとたちをびっくりさせた。)

ひとつきも経たぬうちに、その自由作文でクラスの生徒たちをびっくりさせた。

(にゅうがくそうそう、ぶるうるしというえいじんのきょうしが、)

入学早々、ブルウル氏という英人の教師が、

(whatisrealhappiness?ということについてせいとへ)

What is Real Happiness?ということについて生徒へ

(そのしょしんをかくようめいじたである。ぶるうるしは、そのじゅぎょうはじめに、)

その所信を書くよう命じたである。ブルウル氏は、その授業はじめに、

(myfairylandというだいもくでいっぷうかわったものがたりをして、)

My Fairylandという題目でいっぷう変わった物語をして、

(そのあくるしゅうには、therealcauseofwarについていちじかん)

その翌る週には、The Real Cause of Warについて一時間

(しゅちょうし、おとなしいせいとをせんりつさせ、ややしんぽてきなきょうきさせた。もんぶしょうが)

主張し、おとなしい生徒を戦慄させ、やや進歩的な狂喜させた。文部省が

(このようなきょうしをやといいれたことはてがらであった。ぶるうるしは、ちえほふに)

このような教師を雇いいれたことは手柄であった。ブルウル氏は、チエホフに

(にていた。はなめがねをかけみじかいあごひげをうちきらしくはやし、いつもまぶしそうに)

似ていた。鼻眼鏡を掛け短い顎鬚を内気らしく生やし、いつもまぶしそうに

(ほほえんでいた。えいこくのしょうこうであるともいわれ、なだかいしじんであるともいわれ、)

微笑んでいた。英国の将校であるとも言われ、名高い詩人であるとも言われ、

(ふけているようであるが、あれでまだにじゅうだいだともいわれ、ぐんじたんていであるとも)

老けているようであるが、あれでまだ二十代だとも言われ、軍事探偵であるとも

(いわれていた。そのようになにやらしんぴめいたふんいきが、ぶるうるしをいっそう)

言われていた。そのように何やら神秘めいた雰囲気が、ブルウル氏をいっそう

など

(みわくてきにした。しんにゅうせいたちはすべて、このうつくしいいこくじんにあいされようとひそかに)

魅惑的にした。新入生たちはすべて、この美しい異国人に愛されようとひそかに

(いのった。そのぶるうるしが、さんしゅうかんめのじゅぎょうのとき、だまってぼおるどに)

祈った。そのブルウル氏が、三週間目の授業のとき、だまってボオルドに

(かきなぐったもじがwhatisrealhappiness?であった)

書きなぐった文字がWhat is Real Happiness?であった

(いずれはふるさとのじまんのこ、えらばれたしゅうさいたちは、このかがやかしいういじんに、)

いずれはふるさとの自慢の子、えらばれた秀才たちは、この輝かしい初陣に、

(うでによりをかけた。かれもまた、けいしのちりをしずかにふきはらってから、)

腕によりをかけた。彼もまた、罫紙の塵をしずかに吹きはらってから、

(おもむろにぺんをはしらせた。shakespearesaid,”)

おもむろにペンを走らせた。Shakespeare said,"

(さすがにおおげさすぎるとおもった。かおをあからめながら、ゆっくりけした。)

流石におおげさすぎると思った。顔をあからめながら、ゆっくり消した。

(みぎからひだりからまえからあとから、ぺんのはしるおとがひくくきこえた。かれはほおづえついて)

右から左から前から後から、ペンの走る音がひくく聞えた。彼は頬杖ついて

(しあんにくれた。かれはかきだしにこるほうであった。どのようなたいさくであっても、)

思案にくれた。彼は書きだしに凝るほうであった。どのような大作であっても、

(かきだしのいちぎょうで、もはやそのさくひんのぜんぶのうんめいがけっするものだとしんじていた。)

書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じていた。

(よいかきだしのいちぎょうができると、かれはぜんぶをかきおわったときとおなじように)

よい書きだしの一行ができると、彼は全部を書きおわったときと同じように

(ぼんやりしたまぬけがおになるのであった。かれはぺんさきをいんくのつぼにひたらせた)

ぼんやりした間抜け顔になるのであった。彼はペン先をインクの壺にひたらせた

(なおすこしかんがえて、それからいきおいよくかきまくった。)

なおすこし考えて、それからいきおいよく書きまくった。

(zenzokasai,oneofthemostunfortu)

Zenzo Kasai, one of the most unfortu

(japanesenovelistsatpresent,said,)

Japanese novelists at present, said,

(かさいぜんぞうは、そのころまだいきていた。いまのようにゆうめいではなかった。)

葛西善蔵は、そのころまだ生きていた。いまのように有名ではなかった。

(いっしゅうかんすぎて、ふたたびぶるうるしのじかんがこた。おたがいにまだゆうじんに)

一週間すぎて、ふたたびブルウル氏の時間が来た。お互いにまだ友人に

(なりきれずにいるしんにゅうせいたちは、きょうしつのおのおののつくえにすわってぶるうるしを)

なりきれずにいる新人生たちは、教室のおのおのの机に坐ってブルウル氏を

(まちつつ、てきいにもえるひとみをたばこのけむりのかげからひそかになげつけあった。)

待ちつつ、敵意に燃える瞳を煙草のけむりのかげからひそかに投げつけ合った。

(さむそうにほそいかたをすぼませてきょうしつへはいってきたぶるうるしは、やがて)

寒そうに細い肩をすぼませて教室へはいって来たブルウル氏は、やがて

(ほろにがくほほえみつつ、ふしぎなあくせんとでひとつのにほんのせいめいをつぶやいた。)

ほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。

(かれのなであった。かれはたいぎそうにのろのろとたちあがった。ほおがまっかだった)

彼の名であった。彼はたいぎそうにのろのろと立ちあがった。頬がまっかだった

(ぶるうるしは、かれのかおをみずにいった。mostexcellent!)

ブルウル氏は、彼の顔を見ずに行った。Most Excellent!

(きょうだんをあちこちあるきまわりながらうつむいていいつづけた。)

教壇をあちこち歩きまわりながらうつむいて言いつづけた。

(isthisessayabsolutelyoriginal?と)

Is this essay absolutely original?と

(いちごずつくぎってはっきりいった。かれは、ほんとうのこうふくとは、そとからえられぬ)

一語ずつ区切ってはっきり言った。彼は、ほんとうの幸福とは、外から得られぬ

(ものであって、おのれがえいゆうになるか、じゅなんしゃになるか、そのこころがまえこそ)

ものであって、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構えこそ

(ほんとうのこうふくにせっきんするかぎである、といういみのことをいいはったのであった)

ほんとうの幸福に接近する鍵である、という意味のことを言い張ったのであった

(かれのふるさとのせんぱいかさいぜんぞうのあんじてきなじゅっかいをはじめにかき、それをふえんしつつ)

彼のふるさとの先輩葛西善蔵の暗示的な述懐をはじめに書き、それを敷衍しつつ

(ふでをすすめた。かれはかさいぜんぞうといちどもあったことがなかったし、)

筆をすすめた。彼は葛西善蔵といちども逢ったことがなかったし、

(またかさいぜんぞうがそのようなじゅっかいをもたらしていることもしらなかったのであるが)

また葛西善蔵がそのような述懐をもたらしていることも知らなかったのであるが

(たとえうそでも、それができてあるならば、かさいぜんぞうはきっとゆるしてくれるだろう)

たとえ嘘でも、それができてあるならば、葛西善蔵はきっと許してくれるだろう

(とおもったのである。そんなことから、かれはくらすのちょうをいっしんにあつめた。)

と思ったのである。そんなことから、彼はクラスの寵を一身にあつめた。

(わかいぐんしゅうはえいゆうのしゅつげんにびんかんである。ぶるうるしは、それからもせいとへ)

わかい群衆は英雄の出現に敏感である。ブルウル氏は、それからも生徒へ

(つぎつぎとよいかだいをこころみた。factandtruth.)

つぎつぎとよい課題を試みた。Fact and Truth.

(theainu.awalkinthehillsin)

The Ainu.A Walk in the Hills in

(spring.areweoftodayreally)

Spring.Are We of Today Really

(civilised?かれはちからいっぱいにうでをふるった。)

Civilised? 彼は力いっぱいに腕をふるった。

(そうしていつもかなりにむくいられるのであった。わかいころのめいよこころはあくことを)

そうしていつもかなりに報いられるのであった。若いころの名誉心は飽くことを

(しらぬものである。そのとしのしょちゅうきゅうかには、かれはみこみあるおとことしてのほこりを)

知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを

(かたにしめしてききょうした。かれのふるさとはほんしゅうのほくたんのやまのなかにあり、かれのいえは)

肩に示して帰郷した。彼のふるさとは本州の北端の山のなかにあり、彼の家は

(そのちほうでなのしられたじぬしであった。ちちはむるいのおひとよしのくせに)

その地方で名の知られた地主であった。父は無類のおひとよしの癖に

(あくらつぶりたがるせいかくをもっていて、そのひとりむすこであるかれにさえ、)

悪辣ぶりたがる性格を持っていて、そのひとりむすこである彼にさえ、

(わざといじわるくかかっていた。かれがどのようなしくじをしても、せせらわらって)

わざと意地わるくかかっていた。彼がどのようなしくじをしても、せせら笑って

(かれをゆるした。そしてわきをむいたりなどしながらいうのであった。にんげん、きの)

彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言うのであった。人間、気の

(きいたことをせんと。そうつぶやいてから、さもぬけめのないおとこのようにふいと)

きいたことをせんと。そう呟いてから、さも抜け目のない男のようにふいと

(まったくちがったはなしをもちだすのである。かれはずっとまえからこのちちをきらっていた。)

全くちがった話を持ちだすのである。彼はずっと前からこの父をきらっていた。

(むしがすかないのだ。おさないときからきのきかないことばかりやらかしていたから)

虫が好かないのだ。幼いときから気のきかないことばかりやらかしていたから

(でもあった。はははだらしないほどかれをそんけいしていた。いまにきっとえらいものに)

でもあった。母はだらしないほど彼を尊敬していた。いまにきっとえらいものに

(なるとしんじていた。かれがこうとうがっこうのせいととしてはじめてききょうしたときにも、)

なると信じていた。彼が高等学校の生徒としてはじめて帰郷したときにも、

(はははまずかれのきむずかしくなったのにおどろいたのであったけれど、しかし、)

母はまず彼の気むずかしくなったのにおどろいたのであったけれど、しかし、

(それをこうとうきょういくのせいであろうとかんがえた。ふるさとにかえったかれは、なまけてなど)

それを高等教育のせいであろうと考えた。ふるさとに帰った彼は、怠けてなど

(いなかった。くらからちちのふるいじんめいじてんをみつけだし、せかいのぶんごうのりゃくれきを)

いなかった。蔵から父の古い人名事典を見つけだし、世界の文豪の略歴を

(しらべていた。ぱいろんはじゅうはっさいでしょじょししゅうをしゅっぱんしている。しるれるもまた)

しらべていた。パイロンは十八歳で処女詩集を出版している。シルレルもまた

(じゅうはっさい、「ぐんとう」にふでをそめた。だんてはきゅうさいにして「しんせい」のふくあんを)

十八歳、「群盗」に筆を染めた。ダンテは九歳にして「新生」の腹案を

(えたのである。かれもまた。しょうがっこうのときからそのぶんしょうをうたわれ、)

得たのである。彼もまた。小学校のときからその文章をうたわれ、

(いまはちしきあるいこくじんにさえじゃっかんのずのうをみとめられているかれもまた。)

いまは智識ある異国人にさえ若干の頭脳を認められている彼もまた。

(いえのぜんていのおおきいくりのきのしたにてえぶるといすをもちだし、)

家の前庭のおおきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、

(こつこつちょうへんしょうせつをかきはじめた。かれのこのようなしぐさは、しぜんである。)

こつこつ長編小説を書きはじめた。彼のこのようなしぐさは、自然である。

(それについてはしょくんにもこころあたりがないとはいわせぬ。だいを「つる」とした。)

それについては諸君にも心あたりがないとは言わせぬ。題を「鶴」とした。

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