晩年 58

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太宰 治

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(「じゆうてんさいりゅう?ああ。あれはうそですよ。なにかしょくぎょうがなければ、このごろの)

「自由天才流?ああ。あれは嘘ですよ。なにか職業がなければ、このごろの

(おおやさんたちはかしてくれないということをききましたので、ま、あんな)

大家さんたちは貸してくれないということを聞きましたので、ま、あんな

(でたらめをやったのです。いかっちゃいけませんよ。」そういってから、)

出鱈目をやったのです。怒っちゃいけませんよ。」そう言ってから、

(またひとしきりむせかえるようにしてわらった。「これは、ふるどうぐやで)

またひとしきりむせかえるようにして笑った。「これは、古道具屋で

(みつけたのです。こんなふざけたしょかもあるものかとおどろいて、さんじゅっせんか)

みつけたのです。こんなふざけた書家もあるものかとおどろいて、三十銭か

(いくらでかいました。もんくもほくとしちせいとばかりでなんのいみもないものですから)

いくらで買いました。文句も北斗七星とばかりでなんの意味もないものですから

(きにいりました。わたしはげてものがすきなのですよ。」ぼくはせいせんをよっぽどごうまんな)

気にいりました。私はげてものが好きなのですよ。」僕は青扇をよっぽど傲慢な

(おとこにちがいないとおもった。ごうまんなおとこほど、おのれのしゅみをひねりたがるようで)

男にちがいないと思った。傲慢な男ほど、おのれの趣味をひねりたがるようで

(ある。「しつれいですけれど、むしょくでおいでですか?」またごえんのきってが)

ある。「失礼ですけれど、無職でおいでですか?」また五円の切手が

(きになりだしたのである。きっとよくないしかけがあるにちがいない、とかんがえた)

気になりだしたのである。きっとよくない仕掛けがあるにちがいない、と考えた

(「そうなんです。」さかずきをふくみながら、まだにやにやわらっていた。)

「そうなんです。」杯をふくみながら、まだにやにや笑っていた。

(「けれどもごしんぱいはいりませんよ。」「いいえ。」なるたけよそよそしくして)

「けれども御心配は要りませんよ。」「いいえ。」なるたけよそよそしくして

(やるようにつとめたのである。「ぼくは、はっきりいいますけれど、このごえんの)

やるように努めたのである。「僕は、はっきり言いますけれど、この五円の

(きってがだいいちきがかりなのです。」まだむがぼくにおしゃくをしながらくちをだした。)

切手がだいいち気がかりなのです。」マダムが僕にお酌をしながら口を出した。

(「ほんとうに。」ふくらんでいるちいさいてでえりもとをなおしてからほほえんだ。)

「ほんとうに。」ふくらんでいる小さい手で襟元を直してから微笑んだ。

(「きのしたがいけないのですの。こんどのおおやさんは、わかくてぜんりょうらしいとか、)

「木下がいけないのですの。こんどの大家さんは、わかくて善良らしいとか、

(そんなしつれいなことをいいまして、あの、むりにあんなおかしげなきってを)

そんな失礼なことを言いまして、あの、むりにあんなおかしげな切手を

(つくらせましたのでございますの。ほんとうに。」「そうですか。」ぼくはおもわず)

作らせましたのでございますの。ほんとうに。」「そうですか。」僕は思わず

(わらいかけた。「そうですか。ぼくもおどろいたのです。しききんの。」すべらせかけて)

笑いかけた。「そうですか。僕もおどろいたのです。敷金の。」滑らせかけて

(くちをつぐんだ。「そうですか。」せいせんがぼくのくちまねをした。「わかりました。)

口を噤んだ。「そうですか。」青扇が僕の口真似をした。「わかりました。

など

(あしたもってあがりましょうね。ぎんこうがやすみなのです。」そういわれてみると)

あした持ってあがりましょうね。銀行がやすみなのです。」そう言われてみると

(きょうはにちようであった。ぼくたちはわけもなくこえをあわせてわらいこけた。)

きょうは日曜であった。僕たちはわけもなく声を合わせて笑いこけた。

(ぼくはがくせいじだいからてんさいということばがすきであった。ろんぶろおぞおや)

僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオや

(しょおぺんはうえるのてんさいろんをよんで、ひそかにそのてんさいにがいとうするような)

ショオペンハウエルの天才論を呼んで、ひそかにその天才に該当するような

(にんげんをさがしあるいたものであったが、なかなかみつからないのである。)

人間を捜しあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。

(こうとうがっこうにはいっていたとき、そこのれきしのぼうずあたまをしたわかいきょうじゅが、)

高等学校にはいっていたとき、そこの歴史の坊主頭をしたわかい教授が、

(ぜんこうのせいとのせいめいとそれぞれのしゅっしんちゅうがっこうとをことごとくそらんじているという)

全校の生徒の姓名とそれぞれの出身中学校とを悉くそらんじているという

(ひょうばんをきいて、これはてんさいでなかろうかとちゅうもくしていたのだが、それにしては)

評判を聞いて、これは天才でなかろうかと注目していたのだが、それにしては

(こうぎがだらしなかった。あとでしったことだけれど、せいとのせいめいとそのおのおのの)

講義がだらしなかった。あとで知ったことだけれど、生徒の姓名とその各々の

(しゅっしんちゅうがっこうとをおぼえているというのは、このきょうじゅのゆいいつのほこりであって、)

出身中学校とを覚えているというのは、この教授の唯一の誇りであって、

(それらをきおくしておくためにほねとにくとないぞうとをふぐにするほどのなんぎを)

それらを記憶して置くために骨と肉と内臓とを不具にするほどの難儀を

(していたのだそうである。いまぼくは、こうしてせいせんとたいざしてはなしあってみるに、)

していたのだそうである。いま僕は、こうして青扇と対座して話合ってみるに、

(そのこっかくといい、あたまかっこうといい、ひとみのいろといい、それからおんせいのちょうしといい、)

その骨格といい、頭格好といい、瞳のいろといい、それから音声の調子といい、

(まったくろんぶろおぞおやしょおぺんはうえるのきていしているてんさいのとくちょうと)

まったくロンブロオゾオやショオペンハウエルの規定している天才の特徴と

(こくじしているのである。たしかに、そのときにはそうおもわれた。そうはくそうさく。)

酷似しているのである。たしかに、そのときにはそう思われた。蒼白痩削。

(たんくいくび。せりふがかったはなおんせい。さけがそうとうにまわってきたころ、ぼくはせいせんに)

短軀猪首。台詞がかった鼻音声。酒が相当にまわって来たころ、僕は青扇に

(たずねたのである。「あなたは、さっきしょくぎょうがないようなことを)

たずねたのである。「あなたは、さっき職業がないようなことを

(おっしゃったけれど、それではなにかけんきゅうでもしておられるのですか?」)

おっしゃったけれど、それでは何か研究でもしておられるのですか?」

(「けんきゅう?」せいせんはいたずらじのように、くびをすくめておおきいめをくるっと)

「研究?」青扇はいたずら児のように、首をすくめて大きい眼をくるっと

(まわしてみせた。「なにをけんきゅうするの?わたしはけんきゅうがきらいです。よいかげんな)

まわしてみせた。「なにを研究するの?わたしは研究がきらいです。よい加減な

(ひとりがってんのちゅうしゃくをつけることでしょう?いやですよ。わたしはつくるのだ。」)

ひとり合点の註釈をつけることでしょう?いやですよ。私は創るのだ。」

(「なにをつくるのです。はつめいかしら?」せいせんはくつくつとわらいだした。)

「なにをつくるのです。発明かしら?」青扇はくつくつと笑いだした。

(きいろいじゃけつをぬいでわいしゃついちまいになり、「これはおもしろくなったですねえ)

黄色いジャケツを脱いでワイシャツ一枚になり、「これは面白くなったですねえ

(そうですよ。はつめいですよ。むせんでんとうのはつめいだよ。せかいじゅうにいっぽんもでんちゅうが)

そうですよ。発明ですよ。無線電燈の発明だよ。世界じゅうに一本も電柱が

(なくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。だいいち、あなた、)

なくなるというのはどんなにさばさばしたことでしょうね。だいいち、あなた、

(ちゃんばらかつどうのろけえしょんがおおだすかりです。わたしはやくしゃですよ。」)

ちゃんばら活動のロケエションが大助かりです。私は役者ですよ。」

(まだむはめをふたつながらけむったそうにほそめて、せいせんのでらでらあぶらびかりしだした)

マダムは眼をふたつ乍ら煙ったそうに細めて、青扇のでらでら油光りしだした

(かおをぼんやりみあげた。「だめでございますよ。よっぱらったのですの。)

顔をぼんやり見あげた。「だめでございますよ。酔っぱらったのですの。

(いつもこんなでたらめばかりもうして、こまってしまいます。おきになさらぬ)

いつもこんな出鱈目ばかり申して、こまってしまいます。お気になさらぬ

(ように。」「なにがでたらめだ。うるさい。おおやさん、わたしはほんとうに)

ように。」「なにが出鱈目だ。うるさい。おおやさん、私はほんとうに

(はつめいかですよ。どうすればにんげん、ゆうめいになれるか、これをはつめいしたのです。)

発明家ですよ。どうすれば人間、有名になれるか、これを発明したのです。

(それ、ごらん。ひざをのりだしてきたじゃないか。これだ。いまのわかい)

それ、ごらん。膝を乗りだして来たじゃないか。これだ。いまのわかい

(ひとたちは、みんなみんなゆうめいびょうというやつにかかっているのです。)

ひとたちは、みんなみんな有名病という奴にかかっているのです。

(すこしやけくそな、しかもひくつなゆうめいびょうにね。きみ、いや、あなた、ひこうかにおなり)

少しやけくそな、しかも卑屈な有名病にね。君、いや、あなた、飛行家におなり

(せかいいっしゅうのはやさまわりのれこおど。どうかしら?しぬるかくごでめをつぶって、)

世界一周の早まわりのレコオド。どうかしら?死ぬる覚悟で眼をつぶって、

(どこまでもにしへにしへととぶのだ。めをあけたときには、ぐんしゅうのやまさ。)

どこまでも西へ西へと飛ぶのだ。眼をあけたときには、群衆の山さ。

(ちきゅうのちょうじさ。たったみっかのしんぼうだ。それでなければはんざいだ。なあに、うまく)

地球の寵児さ。たった三日の辛抱だ。それでなければ犯罪だ。なあに、うまく

(いきますよ。じぶんさえがっちりしてれあ、なんでもないんだ。ひとをころすもよし、)

いきますよ。自分さえがっちりしてれあ、なんでもないんだ。人を殺すもよし、

(ものをぬすむもよし、ただすこしおおがかりなはんざいほどよいのですよ。だいじょうぶ。)

ものを盗むもよし、ただ少しおおがかりな犯罪ほどよいのですよ。大丈夫。

(みつかるものか。じこうのかかったころ、どうどうとなのりでるのさ。)

見つかるものか。時効のかかったころ、堂々と名乗り出るのさ。

(あなた、もてますよ。けれどもこれは、ひこうきのみっかかんにくらべると、じゅうねんかん)

あなた、もてますよ。けれどもこれは、飛行機の三日間にくらべると、十年間

(くらいのがまんだから、あなたがたきんだいじんにはちょっとふむきですね。よし。それでは)

くらいの我慢だから、あなたがた近代人には鳥渡ふむきですね。よし。それでは

(ちょうどあなたにむくくらいのつつましいほうほうをおしえましょう。きみみたいな)

ちょうどあなたにむくくらいのつつましい方法を教えましょう。君みたいな

(すけべったれの、しょうしんものの、はくしじゃっこうのとはいには、しゅうぶんというかっこうのほうほうが)

助平ったれの、小心ものの、薄志弱行の徒輩には、醜聞という格好の方法が

(あるよ。まずまあ、このちょうないではゆうめいになれる。ひとのさいくんとかけおちしたまえ。)

あるよ。まずまあ、この町内では有名になれる。人の細君と駆落ちしたまえ。

(え?」ぼくはどうでもよかった。さけによったときのせいせんのかおはぼくにはうつくしく)

え?」僕はどうでもよかった。酒に酔ったときの青扇の顔は僕には美しく

(おもわれた。このかおはありふれていない。ぼくはふとぷーしゅきんをおもいだしたので)

思われた。この顔はありふれていない。僕はふとプーシュキンを思い出したので

(ある。どこかでみたことのあるかおとおもっていたのであるが、これはたしかに、)

ある。どこかで見たことのある顔と思っていたのであるが、これはたしかに、

(えはがきやのてんとうでみたぷーしゅきんのかおなのであった。みずみずしいまゆの)

えはがきやの店頭で見たプーシュキンの顔なのであった。みずみずしい眉の

(うえに、おいつかれたふかいしわがいくきれもきざまれてあったあのぷーしゅきんの)

うえに、老いつかれた深い皺が幾きれも刻まれてあったあのプーシュキンの

(しにづらなのである。ぼくもしたたかによったようであった。とうとう、ぼくはかいちゅうの)

死面なのである。僕もしたたかに酔ったようであった。とうとう、僕は懐中の

(きりてをだし、それでもっておそばやからさけをとどけさせたのである。そうして)

切手を出し、それでもってお蕎麦屋から酒をとどけさせたのである。そうして

(ぼくたちはさらにさらにのんだのである。ひととはじめてしりあったときのあのうわきに)

僕たちは更に更にのんだのである。ひとと初めて知り合ったときのあの浮気に

(にたときめきが、ふたりをきばらせ、むちなゆうべんによってもっともっとおのれを)

似たときめきが、ふたりを気張らせ、無智な雄弁によってもっともっとおのれを

(あいてにしらせたいというようなじれったさをぼくたちはおたがいにかんじあって)

相手に知らせたいというようなじれったさを僕たちはお互いに感じ合って

(いたようである。ぼくたちは、たくさんのにせのかんげきをして、いくどとなくさかずきを)

いたようである。僕たちは、たくさんの贋の感激をして、幾度となく杯を

(やりとりした。きがついたときには、もうまだむはいなかった。ねてしまった)

やりとりした。気がついたときには、もうマダムはいなかった。寝てしまった

(のであろう。かえらなければなるまい、とぼくはかんがえた。かえりしなにあくしゅをした。)

のであろう。帰らなければなるまい、と僕は考えた。帰りしなに握手をした。

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