晩年 64

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太宰 治

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問題文

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(「しょうせつというものはつまらないですねえ。どんなによいものをかいたところで、)

「小説というものはつまらないですねえ。どんなによいものを書いたところで、

(ひゃくねんもまえにもっとりっぱなさくひんがちゃんとどこかにできてあるのだもの。)

百年もまえにもっと立派な作品がちゃんとどこかにできてあるのだもの。

(もっとあたらしい、もっとあしたのさくひんがひゃくねんまえにできてしまっているのですよ。)

もっと新しい、もっと明日の作品が百年まえにできてしまっているのですよ。

(せいぜいまねるだけだねえ。」「そんなことはないだろう。あとのひとほど)

せいぜい真似るだけだねえ。」「そんなことはないだろう。あとのひとほど

(うまいとおもうな。」「どこからそんなだいそれたかくしんがえられるの?かるがるしく)

巧いと思うな。」「どこからそんなだいそれた確信が得られるの?軽々しく

(ものをいっちゃいけない。どこからそんなかくしんがえられるのだ。よいさっかは)

ものを言っちゃいけない。どこからそんな確信が得られるのだ。よい作家は

(すぐれたどくじのこせいじゃないか。たかいこせいをつくるのだ。わたりどりには、それが)

すぐれた独自の個性じゃないか。高い個性を創るのだ。渡り鳥には、それが

(できないのです。」ひがくれかけていた。せいせんはうちわでしきりにすねのかを)

できないのです。」日が暮れかけていた。青扇は団扇でしきりに脛の蚊を

(はらっていた。すぐちかくにやぶがあるので、かもおおいのである。「けれど、むせいかくは)

払っていた。すぐ近くに藪があるので、蚊も多いのである。「けれど、無性格は

(てんさいのとくしつだともいうね。」ぼくがこころみにそういってやると、せいせんは、)

天才の特質だともいうね。」僕がこころみにそう言ってやると、青扇は、

(ふまんそうにくちをとがらせてはみせたものの、かおのどこやらがたしかににたりと)

不満そうに口を尖らせては見せたものの、顔のどこやらが確かににたりと

(わらったのだ。ぼくはそれをみつけた。とたんにぼくはよいがさめた。やっぱりそうだ)

笑ったのだ。僕はそれを見つけた。とたんに僕は酔いがさめた。やっぱりそうだ

(これは、きっとぼくのまねだ。いつかぼくがここのさいしょのまだむにてんさいのでたらめを)

これは、きっと僕の真似だ。いつか僕がここの最初のマダムに天才の出鱈目を

(おしえてやったことがあったけれど、せいせんはそれをきいたにちがいない。)

教えてやったことがあったけれど、青扇はそれを聞いたにちがいない。

(それがあんじとなってせいせんのこころにいままでたえずはたらきかけそのおこないをせいちゅうしてきた)

それが暗示となって青扇の心にいままで絶えず働きかけその行いを掣肘して来た

(のではあるまいか。せいせんのいままでのどこやらじょうじんとことなったようなたいどは、)

のではあるまいか。青扇のいままでのどこやら常人と異ったような態度は、

(すべてぼくがかれになにげなくいってやったことばのきたいをうらぎらせまいとしての)

すべて僕が彼になにげなく言ってやった言葉の期待を裏切らせまいとしての

(もののようにもおもわれた。このおとこは、いしきしないでぼくにあまったれ、ぼくのたいこ)

もののようにも思われた。この男は、意識しないで僕に甘ったれ、僕のたいこ

(もちをつとめていたのではないだろうか。「あなたもこどもではないのだから、)

もちを勤めていたのではないだろうか。「あなたも子供ではないのだから、

(ばかなことはよいかげんによさないか。ぼくだって、このいえをただあそばせておいて)

莫迦なことはよい加減によさないか。僕だって、この家をただ遊ばせて置いて

など

(あるのじゃないよ。じだいだってせんげつからまたすこしあがったし、それにぜいきんやら)

あるのじゃないよ。地代だって先月からまた少しあがったし、それに税金やら

(ほけんりょうやらしゅうぜんひようなんかでそうとうのかねをとられているのだ。ひとにめいわくを)

保険料やら修繕費用なんかで相当の金をとられているのだ。ひとにめいわくを

(かけてそしらぬかおのできるのは、このよならぬごうまんのせいしんか、それともこじきの)

かけて素知らぬ顔のできるのは、この世ならぬ傲慢の精神か、それとも乞食の

(こんじょうか、どちらかだ。あまったれるのもこのへんでよしたまえ。」いいすてて)

根性か、どちらかだ。甘ったれるのもこのへんでよし給え。」言い捨てて

(たちあがった。「あああ。こんなばんにわたしがふえでもふかけたらなあ。」せいせんはひとり)

立ちあがった。「あああ。こんな晩に私が笛でも吹けたらなあ。」青扇はひとり

(ごとのようにつぶやきながらえんがわへぼくをおくってでてきた。ぼくがにわさきへおりるとき、)

ごとのように呟きながら縁側へ僕を送って出て来た。僕が庭先へおりるとき、

(くらやみのためにげたのありかがわからなかった。「おおやさん。でんとうをとめられて)

暗闇のために下駄のありかがわからなかった。「おおやさん。電燈をとめられて

(いるのです。」やっとげたをさがしだし、それをつっかけてからせいせんのかおをそっと)

いるのです。」やっと下駄を捜しだし、それをつっかけてから青扇の顔をそっと

(のぞいた。せいせんはえんさきにたってすんだほしぞらのいったんがしんじゅくあたりのでんとうのせいで)

覗いた。青扇は縁先に立って澄んだ星空の一端が新宿辺りの電燈のせいで

(かじのようにあかるくなっているのをぼんやりみていた。ぼくはおもいだした。)

火事のようにあかるくなっているのをぼんやり見ていた。僕は思い出した。

(はじめからせいせんのかおをどこかでみたことがあるときにかかっていたのだが、)

はじめから青扇の顔をどこかで見たことがあると気にかかっていたのだが、

(そのときやっとおもいだした。ぷーしゅきんではない。ぼくのいぜんのたなこであった)

そのときやっと思い出した。プーシュキンではない。僕の以前の店子であった

(びいるがいしゃのぎしのしろいとうはつをみじかくかくがりにしたろうばのかおにそっくりであった)

ビイル会社の技師の白い頭髪を短く角刈りにした老婆の顔にそっくりであった

(のである。じゅうがつ、じゅういちがつ、じゅうにがつ、ぼくはこのみつきかんはせいせんのもとへいかない。)

のである。十月、十一月、十二月、僕はこの三月間は青扇のもとへ行かない。

(せいせんもまたもちろんぼくのところへはこないのだ。ただいちど、せんとうやでいっしょに)

青扇もまたもちろん僕のところへは来ないのだ。ただいちど、銭湯屋で一緒に

(なったことがあるきりである。よるのじゅうにじちかく、ふろもしまいになりかけて)

なったことがあるきりである。夜の十二時ちかく、風呂もしまいになりかけて

(いたころであった。せいせんはすはだかのままだついばのたたみのうえにべったりすわって)

いたころであった。青扇は素裸のまま脱衣場の畳のうえにべったり坐って

(つめをきっていたのである。ふろからあがりたてらしく、やせこけたりょうかたから)

爪を切っていたのである。風呂からあがりたてらしく、やせこけた両肩から

(ゆげがほやほやたっていた。ぼくのかおをみてもさほどおどろかずに、「よるつめをきると)

湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、「夜爪を切ると

(しにんがでるそうですね。このふろでだれかしんだのですよ。おおやさん。このごろ)

死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろ

(わたし、つめとかみばかりのびて。」にやにやうすわらいしてそんなことをいいいい)

私、爪と髪ばかり伸びて。」にやにやうす笑いしてそんなことを言い言い

(ぱちんぱちんとつめをきっていたが、きってしまったらきゅうにあわてふためいて)

ぱちんぱちんと爪を切っていたが、切ってしまったら急にあわてふためいて

(どてらをきこみ、れいのかがみもみずにそそくさとかえっていったのである。)

どてらを着込み、れいの鏡も見ずにそそくさと帰っていったのである。

(ぼくにはそれもまたさもしいかんじで、ただけいぶのねんをましただけであった。)

僕にはそれもまたさもしい感じで、ただ軽侮の念を増しただけであった。

(ことしのおしょうがつ、ぼくはきんじょへねんしまわりにあるいたついでにちょっとせいせんの)

ことしのお正月、僕は近所へ年始まわりに歩いたついでにちょっと青扇の

(ところへもたちよってみた。そのときげんかんをあけたらあかちゃけたどうのながいいぬが)

ところへも立ち寄ってみた。そのとき玄関をあけたら赤ちゃけた銅の長い犬が

(だしぬけにぼくにほえついたのにびっくりさせられた。せいせんは、たまごいろの)

だしぬけに僕に吠え付いたのにびっくりさせられた。青扇は、卵いろの

(ぶるうずのようなものをきてないときゃっぷをかぶり、みょうにわかがえって)

ブルウズのようなものを着てナイトキャップをかぶり、妙に若がえって

(でてきたが、すぐいぬのくびをおさえて、このいぬは、としのくれにどこからか)

出て来たが、すぐ犬の首をおさえて、この犬は、としのくれにどこからか

(まよいこんできたものであるが、にさんにちめしをくわせてやっているうちに、)

迷いこんで来たものであるが、ニ三日めしを食わせてやっているうちに、

(もうちゅうぎがおをしてよそのひとにほえたててみせているのだ、そのうちどこかへ)

もう忠義顔をしてよそのひとに吠えたててみせているのだ、そのうちどこかへ

(すてにいくつもりです、とつまらぬことをあいさつをぬきにしていいたてたのである)

捨てに行くつもりです、とつまらぬことを挨拶を抜きにして言いたてたのである

(おおかたまたてれくさいじけんでもおこっているのだろうとおもい、ぼくはせいせんの)

おおかたまたてれくさい事件でも起こっているのだろうと思い、僕は青扇の

(とめるのもふりきってすぐおいとまをした。けれどもせいせんはぼくのあとを)

とめるのも振りきってすぐおいとまをした。けれども青扇は僕のあとを

(おいかけてきたのである。「おおやさん。おしょうがつそうそう、こんなはなしをするのも)

追いかけて来たのである。「おおやさん。お正月早々、こんな話をするのも

(なんですけれど、わたしは、いまほんとうにきがくるいかけているのです。うちの)

なんですけれど、私は、いまほんとうに気が狂いかけているのです。うちの

(ざしきへちいさいくもがいっぱいでてきてこまっています。このあいだ、ひとりで)

座敷へ小さい蜘蛛がいっぱい出て来て困っています。このあいだ、ひとりで

(たいくつまぎれにひばしのまがったのをなおそうとおもってかちんかちんひばちのふちに)

退屈まぎれに火箸の曲がったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢のふちに

(たたきつけていたら、あなた、にょうぼうがせんたくをよしめつきをかえてわたしのへやへ)

たたきつけていたら、あなた、女房が洗濯を止し眼つきをかえて私の部屋へ

(かけこんできましてねえ、てっきりきちがいになったとおもった、そういうの)

かけこんで来ましてねえ、てっきり気ちがいになったと思った、そういうの

(ですよ。かえってわたしのほうがぎょっとしました。あなた、おかねある?いや、)

ですよ。かえって私のほうがぎょっとしました。あなた、お金ある?いや、

(いいんです。それで、もうこのにさんにちすっかりくさって、おしょうがつも、うちでは)

いいんです。それで、もうこのニ三日すっかりくさって、お正月も、うちでは

(わざとなんのしたくもしないのですよ。ほんとうにわざわざおいでくださいました)

わざとなんの仕度もしないのですよ。ほんとうにわざわざおいで下さいました

(のに。わたしたち、なんのおかまいもできませんし。」「あたらしいおくさんができたの)

のに。私たち、なんのおかまいもできませんし。」「新しい奥さんができたの

(ですか。」ぼくはできるだけいじわるいくちょうでいってみた。「ああ。」こども)

ですか。」僕はできるだけ意地わるい口調で言ってみた。「ああ。」子供

(みたいにはにかんでいた。おおかたひすてりいのおんなとでもどうせいをはじめたので)

みたいにはにかんでいた。おおかたヒステリイの女とでも同棲をはじめたので

(あろうとおもった。ついこのあいだ、にがつのはじめのことである。ぼくはよるおそく)

あろうと思った。ついこのあいだ、二月のはじめのことである。僕は夜おそく

(おもいがけないおんなのひとのおとずれをうけた。げんかんへでてみると、せいせんのさいしょの)

思いがけない女のひとのおとずれを受けた。玄関へ出てみると、青扇の最初の

(まだむであったのである。くろいけのしょおるにくるまってあらいかすりのこおとを)

マダムであったのである。黒い毛のショオルにくるまって荒い飛白のコオトを

(きていた。しろいほおがいっそうあおくすきとおってきたようであった。)

着ていた。白い頬がいっそう蒼くすき透って来たようであった。

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