晩年 65
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問題文
(ちょっとおはなししたいことがございますから、いっしょにそこらまでつきあってくれと)
ちょっとお話したいことがございますから、一緒にそこらまでつきあってくれと
(いうのである。ぼくはまんともきず、そのままいっしょにそとへでた。しもがおりて、)
いうのである。僕はマントも着ず、そのまま一緒にそとへ出た。霜がおりて、
(りんかくのはっきりしたつめたいまんげつがでていた。ぼくたちはしばらくだまってあるいた。)
輪郭のはっきりした冷たい満月が出ていた。僕たちはしばらくだまって歩いた。
(「さくねんのくれから、またこっちへきましたのでございますよ。」おこったような)
「昨年の暮れから、またこっちへ来ましたのでございますよ。」怒ったような
(めつきでまっすぐをみながらいった。「それは。」ぼくにはほかにいいようが)
眼つきでまっすぐを見ながら言った。「それは。」僕にはほかに言いようが
(なかったのである。「こっちがこいしくなったものですから。」よねんなげに)
なかったのである。「こっちが恋しくなったものですから。」余念なげに
(そうささやいた。ぼくはだまりこくっていた。ぼくたちは、すぎばやしのほうへゆっくりあゆみを)
そう囁いた。僕はだまりこくっていた。僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みを
(すすめていたのである。「きのしたさんはどうしてます。」「あいかわらずで)
すすめていたのである。「木下さんはどうしてます。」「相変わらずで
(ございます。ほんとうにあいすみません。」あおいけいとのてぶくろをはめたりょうてを)
ございます。ほんとうに相すみません。」青い毛糸の手袋をはめた両手を
(ひざがしらのあたりにまでさげた。「こまるですね。ぼくはこのあいだけんかをしてしまい)
膝頭のあたりにまでさげた。「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をしてしまい
(ました。いったいなにをしているのです。」「だめなんでございます。まるで)
ました。いったい何をしているのです。」「だめなんでございます。まるで
(きちがいですの。」ぼくはほほえんだ。まがったひばちのはなしをおもいだしたのである。)
気ちがいですの。」僕は微笑んだ。曲がった火鉢の話を思い出したのである。
(それでは、あのしんけいかびんのにょうぼうというのはこのまだむだったのであろう。)
それでは、あの神経過敏の女房というのはこのマダムだったのであろう。
(「でもあれでなにかきっとかんがえていますよ。」ぼくにはやはりいちおう、はんばくして)
「でもあれで何かきっと考えていますよ。」僕にはやはり一応、反駁して
(おきたいようなきがおこるのであった。まだむはくすくすわらいながらこたえた。)
置きたいような気が起こるのであった。マダムはくすくす笑いながら答えた。
(「ええ。かぞくさんになって、それからおかねもちになるんですって。」)
「ええ。華族さんになって、それからお金持ちになるんですって。」
(ぼくはすこしさむかった。あしをこころもちはやめた。いっぽいっぽあるくたびごとに、)
僕はすこし寒かった。足をこころもち早めた。一歩一歩あるくたびごとに、
(しもでふくれあがったつちがうずらかふくろうのつぶやきのようなおかしいていおんをたててくだける)
霜でふくれあがった土が鶉か梟の呟きのようなおかしい低音をたててくだける
(のだ。「いや。」ぼくはわざとわらった。「そんなことでなしに、なにかおしごとでも)
のだ。「いや。」僕はわざと笑った。「そんなことでなしに、何かお仕事でも
(はじめていきませんか?」「もうほねのずいからのなまけものです。」きっぱり)
はじめていきませんか?」「もう骨のずいからの怠けものです。」きっぱり
(こたえた。「どうしたのでしょう。しつれいですが、いくつなのですか?よんじゅうにさい)
答えた。「どうしたのでしょう。失礼ですが、いくつなのですか?四十二歳
(だとかいっていましたが。」「さあ。」こんどはわらわなかったのである。)
だとか言っていましたが。」「さあ。」こんどは笑わなかったのである。
(「まださんじゅうまえじゃないかしら。うんとわかいのでございますのよ。いつもかわり)
「まだ三十まえじゃないかしら。うんと若いのでございますのよ。いつも変り
(ますので、はっきりはわたしにもわかりませんのですの。」「どうするつもりかな。)
ますので、はっきりは私にもわかりませんのですの。」「どうするつもりかな。
(べんきょうなんかしていないようですね。あれでほんでもよむのですか?」「いいえ。)
勉強なんかしていないようですね。あれで本でも読むのですか?」「いいえ。
(しんぶんだけ。しんぶんだけはかんしんにさんしゅるいのしんぶんをとっていますの。ていねいによむ)
新聞だけ。新聞だけは感心に三種類の新聞をとっていますの。ていねいに読む
(ことよ。せいじめんをなんべんもなんべんもくりかえしてよんでいます。」)
ことよ。政治面をなんべんもなんべんも繰りかえして読んでいます。」
(ぼくたちはあのあきちへでた。はらっぱのしもはせいじょうであった。つきあかりのために、)
僕たちはあの空地へ出た。原っぱの霜は清浄であった。月あかりのために、
(いしころや、ささのはや、ぼうくいや、はきだめまでしろくひかっていた。「ともだちもない)
石ころや、笹の葉や、棒杭や、掃き溜めまで白く光っていた。「友だちもない
(ようですね。」「ええ。みんなにわるいことをしていますから、もうつきあえない)
ようですね。」「ええ。みんなに悪いことをしていますから、もうつきあえない
(のだそうです。」「どんなわるいことを。」ぼくはきんせんのことをかんがえていた。)
のだそうです。」「どんな悪いことを。」僕は金銭のことを考えていた。
(「それがつまらないことなのですの。ちっともなんともないことなのです。)
「それがつまらないことなのですの。ちっともなんともないことなのです。
(それでもわるいことですって。あのひと、もののよしあしがわからないので)
それでも悪いことですって。あのひと、ものの善し悪しがわからないので
(ございますのよ。」「そうだ。そうです。よいこととわるいことがさかさま)
ございますのよ。」「そうだ。そうです。善いことと悪いことがさかさま
(なのです。」「いいえ。」あごをしょおるにふかくうめてかすかにくびをふった。)
なのです。」「いいえ。」顎をショオルに深く埋めてかすかに頸をふった。
(「はっきりさかさまなら、まだいいのでございます。めちゃめちゃなんですのよ、)
「はっきりさかさまなら、まだいいのでございます。目茶目茶なんですのよ、
(それが。だからこころぼそいの。にげられますわよ、あれじゃ、あのひと、それは)
それが。だから心細いの。逃げられますわよ、あれじゃ、あのひと、それは
(ごきげんをとるのですけれど。わたしのあとにふたりもきていましたそうですね。」)
ごきげんを取るのですけれど。私のあとに二人も来ていましたそうですね。」
(「ええ。」ぼくはあまりはなしをきいていなかった。「きせつごとにかえるような)
「ええ。」僕はあまり話を聞いていなかった。「季節ごとに変えるような
(ものだわ。まねしましたでしょう?」「なんです。」すぐにはのみこめなかった)
ものだわ。真似しましたでしょう?」「なんです。」すぐには呑みこめなかった
(「まねをしますのよ、あのひと。あのひとにいけんなんてあるものか。)
「真似をしますのよ、あのひと。あの人に意見なんてあるものか。
(みんなおんなからのえいきょうよ。ぶんがくしょうじょのときにはぶんがく。したまちのひとのときにはこいきに)
みんな女からの影響よ。文学少女のときには文学。下町のひとのときには小粋に
(わかってるわ。」「まさか。そんなちえほふみたいな。」そういってわらって)
わかってるわ。」「まさか。そんなチエホフみたいな。」そう言って笑って
(やったが、やはりむねがつまってきた。いまここにせいせんがいるならかれのあのほそい)
やったが、やはり胸がつまって来た。いまここに青扇がいるなら彼のあの細い
(かたをぎゅっとだいてやってもよいとおもったのだ。「そんなら、いまきのしたさんが)
肩をぎゅっと抱いてやってもよいと思ったのだ。「そんなら、いま木下さんが
(ほねのずいからのものぐさをしているのは、つまりあなたをまねしているという)
骨のずいからのものぐさをしているのは、つまりあなたを真似しているという
(わけなのですね。」ぼくはそういってしまって、ぐらぐらとよろめいた。)
わけなのですね。」僕はそう言ってしまって、ぐらぐらとよろめいた。
(「ええ。わたし、そんなおとこのかたがすきなの。もすこしまえにそれをしってください)
「ええ。私、そんな男のかたが好きなの。もすこしまえにそれを知ってください
(ましたなら。でも、もうおそいの。わたしをしんじなかったばつよ。」かるくわらいながら)
ましたなら。でも、もうおそいの。私を信じなかった罰よ。」軽く笑いながら
(いってのけた。ぼくはあしもとのつちくれをひとつけって、ふとめをあげると、)
言ってのけた。僕はあしもとの土くれをひとつ蹴って、ふと眼をあげると、
(やぶのしたにおとこがひっそりたっていた。どてらをきて、とうはつもむかしのようにながく)
藪のしたに男がひっそり立っていた。どてらを着て、頭髪もむかしのように長く
(のびていた。ぼくたちはどうじにそのすがたをみとめた。にぎりあっていたてをこっそり)
のびていた。僕たちは同時にその姿を認めた。握り合っていた手をこっそり
(ほどいて、そっとはなれた。「むかえにきたのだよ。」せいせんはひくいこえで)
ほどいて、そっと離れた。「むかえに来たのだよ。」青扇はひくい声で
(そういったのであるが、あたりのしずかなせいか、ぼくにはそれがいようにちかちか)
そう言ったのであるが、あたりの静かなせいか、僕にはそれが異様にちかちか
(いたくひびいた。かれはつきのひかりさえまぶしいらしく、まゆをひそめてぼくたちをおどおど)
痛く響いた。彼は月の光さえまぶしいらしく、眉をひそめて僕たちをおどおど
(ながめていた。ぼくは、こんばんはとあいさつしたのである。「こんばんは。おおやさん。」)
眺めていた。僕は、今晩はと挨拶したのである。「今晩は。おおやさん。」
(あいそよくおうじた。ぼくはにさんぽだけかれにちかよってたずねてみた。「なにかやって)
あいそよく応じた。僕はニ三歩だけ彼に近寄って尋ねてみた。「なにかやって
(いますか。」「もう、ほっておいてください。そのほかにはなすことがないじゃ)
いますか。」「もう、ほって置いて下さい。そのほかに話すことがないじゃ
(あるまいし。」いつもににずきびしくそうこたえてから、きゅうにもちまえの)
あるまいし。」いつもに似ずきびしくそう答えてから、急に持ちまえの
(あまったれたくちょうにかえるのであった。「わたしはね、このあいだからてそうをやって)
甘ったれた口調にかえるのであった。「私はね、このあいだから手相をやって
(いますよ。ほら、たいようせんがわたしのてのひらにあらわれてきています。ほら。ね、ね。)
いますよ。ほら、太陽線が私のてのひらに現れて来ています。ほら。ね、ね。
(うんせいがひらけるしょうこなのです。」そういいながらひだりてをたかくげっこうにかざし、)
運勢がひらける証拠なのです。」そう言いながら左手をたかく月光にかざし、
(じぶんのてのひらのそのたいようせんとかいうてすじをほれぼれとながめたのである。)
自分のてのひらのその太陽線とかいう手筋をほれぼれと眺めたのである。
(うんせいなんて、ひらけるものか。それきりもうぼくはせいせんとあっていない。)
運勢なんて、ひらけるものか。それきりもう僕は青扇と逢っていない。
(きがくるおうが、じさつしようが、それはあいつのかってだとおもっている。)
気が狂おうが、自殺しようが、それはあいつの勝手だと思っている。
(ぼくもこのいちねんかんというもの、せいせんのためにずいぶんとこころのへいせいをかきまわされて)
僕もこの一年間というもの、青扇のためにずいぶんと心の平静をかきまわされて
(きたようである。ぼくにしてもわずかないさんのおかげでどうやらあんらくなくらしをして)
来たようである。僕にしてもわずかな遺産のおかげでどうやら安楽な暮しをして
(いるとはいえ、そんなによゆうがあるわけでなし、せいせんのことでかなりのふじゆうに)
いるとはいえ、そんなに余裕があるわけでなし、青扇のことでかなりの不自由に
(おそわれた。しかもいまになってみると、それはなんのおもしろさもないいっそう)
襲われた。しかもいまになってみると、それはなんの面白さもない一層
(いきぐるしいけっかにいたったようである。ふつうのぼんぷを、なにかといみづけて)
息ぐるしい結果にいたったようである。ふつうの凡夫を、なにかと意味づけて
(ゆめにかたどりながめてくらしてきただけではなかったのか。りゅうしゅんはいないか。)
夢にかたどり眺めて暮らして来ただけではなかったのか。竜駿はいないか。
(きりんじはいないか。もうはや、そのようなきたいにはまったくほとほとごめんである。)
麒麟児はいないか。もうはや、そのような期待には全くほとほと御免である。
(みんなみんなむかしながらのかれであって、そのひそのひのかぜのぐあいですこしばかり)
みんなみんな昔ながらの彼であって、その日その日の風の工合いで少しばかり
(いろあいがかわってみえるだけのことだ。おい、みたまえ。せいせんのおさんぽである。)
色あいが変って見えるだけのことだ。おい、見給え。青扇の御散歩である。
(あのたこのあがっているあきちだ。よこじまのどてらをきて、ゆっくりゆっくり)
あの紙凧のあがっている空地だ。横縞のどてらを着て、ゆっくりゆっくり
(あるいている。なぜ、きみはそうとめどもなくわらうのだ。そうかい。にていると)
歩いている。なぜ、君はそうとめどもなく笑うのだ。そうかい。似ていると
(いうのか。よし。それならきみにきこうよ。そらをみあげたりかたをゆすったり)
いうのか。よし。それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったり
(うなだれたりこのはをちぎりとったりしながらのろのろさまよいあるいている)
うなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いている
(あのおとこと、それから、ここにいるぼくと、ちがったところが、いってんでも、あるか。)
あの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。