晩年 68
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問題文
(けんかじろべえ)
喧嘩次郎兵衛
(むかしとうかいどうみしまのやどに、しかまやいっぺいというおとこがいた。そうそふのだいより)
むかし東海道三島の宿に、鹿間屋逸平という男がいた。曾祖父の代より
(さけのじょうぞうをもってなりわいとしていた。さけはそのじょうぞうしゅのひとがらをうつすものと)
酒の醸造をもって業としていた。酒はその醸造主のひとがらを映すものと
(いわれている。しかまやのさけはあくまでもすみ、しかもなかなかにからくちであった。)
言われている。鹿間屋の酒はあくまでも澄み、しかもなかなかに辛口であった。
(さけのなは、すいしゃとよばれた。こどもがじゅうよにんあった。おとこのこがろくにん、おんなのこがはちにん)
酒の名は、水車と呼ばれた。子供が十四人あった。男の子が六人、女の子が八人
(ちょうなんはせじににぶく、したがっていっぺいのさしずどおりにしょうばいをだいいちとしていきていた)
長男は世事に鈍く、したがって逸平の指図どおりに商売を第一として生きていた
(おのれのしそうにじしんがなく、それでもときどきはちちおやにむかってなにかいけんを)
おのれの思想に自信がなく、それでもときどきは父親にむかって何か意見を
(いいだすことがあったけれども、ことばのなかばでもうはやまるっきりじしんをうしない、)
言いだすことがあったけれども、言葉のなかばでもうはや丸っきり自信を失い、
(そうかともおもわれますが、しかしこれとてもまちがいだらけであるとしか)
そうかとも思われますが、しかしこれとても間違いだらけであるとしか
(おもわれませんし、きっとまちがっているとおもいますがちちうえはどうおかんがえで)
思われませんし、きっと間違っているとおもいますが父上はどうお考えで
(しょうか、なんだかまちがっているようでございます。とやはりいいにくそうに)
しょうか、なんだか間違っているようでございます。とやはり言いにくそうに
(そのいけんをうちけすのであった。いっぺいはかんたんにこたえる。まちがっとるじゃ。)
その意見を打ち消すのであった。逸平は簡単に答える。間違っとるじゃ。
(けれどもじなんのじろべえとなるとすこしようすがちがっていた。かれのきしつのなかには)
けれども次男の次郎兵衛となると少し様子がちがっていた。彼の気質の中には
(せいじかのなきごとのいみでないほんらいのいみのぜぜひひのたいどをしめそうとする)
政治家の泣き言の意味でない本来の意味の是々非々の態度を示そうとする
(けいこうがあった。それがためにかれはみしまのやどのひとたちから、ならずもの、と)
傾向があった。それがために彼は三島の宿のひとたちから、ならずもの、と
(よばれてふけつがられていた。じろべえはしょうにんこんじょうというものをきらった。)
呼ばれて不潔がられていた。次郎兵衛は商人根性というものをきらった。
(よのなかはそろばんでない。あたいのないものこそとうといのだ、とかくしんしてまいにちのように)
世の中はそろばんでない。価のないものこそ貴いのだ、と確信して毎日のように
(さけをのんだ。さけをのむにしても、ふとうのりえきをむさぼっているのをこのめで)
酒を呑んだ。酒を呑むにしても、不当の利益をむさぼっているのをこの眼で
(たしかにいままでみてきたかれのいえのさけをくちにすることはごめんであった。)
たしかにいままで見て来た彼の家の酒を口にすることは御免であった。
(もしあやまってのみくだしたばあいにはすぐさまのどへてをつっこみむりにもそれを)
もしあやまって呑みくだした場合にはすぐさま喉へ手をつっこみ無理にもそれを
(はきだした。くるひもくるひもじろべえはみしまのまちをひとりしてのみあるいて)
吐きだした。来る日も来る日も次郎兵衛は三島のまちをひとりして呑みあるいて
(いたのであったが、ちちおやのいっぺいはべつだんそれをとがめだてしようとしなかった。)
いたのであったが、父親の逸平は別段それをとがめだてしようとしなかった。
(あたまのすんだおとこであったからである。あまたのこどものなかにひとりくらいの)
頭の澄んだ男であったからである。あまたの子供のなかにひとりくらいの
(ばかがいたほうが、かえってせいさいがあってよいとおもっていた。それにいっぺいは)
馬鹿がいたほうが、かえって生彩があってよいと思っていた。それに逸平は
(みしまのひけしのあたまをつとめていたので、ゆくゆくはじろべえにこのめいよしょくを)
三島の火消しの頭をつとめていたので、ゆくゆくは次郎兵衛にこの名誉職を
(ゆずってやろうというたくらみもあり、じろべえがこれからますますうまのように)
ゆずってやろうというたくらみもあり、次郎兵衛がこれからますます馬のように
(あばれまわってくれたならそれだけしょうらいのひけしがしらとしてのしかくもそなわって)
暴れまわってくれたならそれだけ将来の火消し頭としての資格もそなわって
(くることだというとおいみすかしから、じろべえのほうらつをみてみぬふりをしてやった)
来ることだという遠い見透しから、次郎兵衛の放埓を見て見ぬふりをしてやった
(わけであった。じろべえは、にじゅうにさいのなつにぜひともけんかのうわてになってやろう)
わけであった。次郎兵衛は、二十二歳の夏にぜひとも喧嘩の上手になってやろう
(とけっしんしたのであったが、それはこんなわけからであった。みしまたいしゃではまいとし、)
と決心したのであったが、それはこんな訳からであった。三島大杜では毎年、
(はちがつのじゅうごにちにおまつりがあり、しゅくばのひとたちはもちろん、ぬまづのぎょそんやいずのやまやま)
八月の十五日にお祭りがあり、宿場のひとたちは勿論、沼津の漁村や伊豆の山々
(からなにまんというひとがてんでにうちわをこしにはさみたいしゃさしてぞろぞろあつまって)
から何万というひとがてんでに団扇を腰にはさみ大杜さしてぞろぞろ集まって
(くるのであった。みしまたいしゃのおまつりのひには、きっとあめがふるとむかしのむかし)
来るのであった。三島大社のお祭りの日には、きっと雨が降るとむかしのむかし
(からきまっていた。みしまのひとたちははでずきであるから、そのあめのなかでうちわを)
からきまっていた。三島のひとたちは派手好きであるから、その雨の中で団扇を
(つかい、おどりやたいがとおりだしがとおりはなびがあがるのを、びっしょりぬれて)
使い、踊屋台がとおり山車がとおり花火があがるのを、びっしょり濡れて
(さむいのをこたえにこたえながらけんぶつするのである。じろべえがにじゅうにさいのときの)
寒いのを堪えに堪えながら見物するのである。次郎兵衛がニ十二歳のときの
(おまつりのひは、めずらしくはれていた。あおぞらにはとんびがいちわぴょろぴょろなきながら)
お祭りの日は、珍しく晴れていた。青空には鳶が一羽ぴょろぴょろ鳴きながら
(まっていて、さんけいのひとたちはたいしゃさまをおがんでからそのつぎにあおぞらととんびをおがんだ)
舞っていて、参詣のひとたちは大社様を拝んでからそのつぎに青空と鳶を拝んだ
(ひるすこしすぎたころ、だしぬけにこくうんがとうほくのそらのすみからむくむくあらわれ)
ひる少しすぎたころ、だしぬけに黒雲が東北の空の隅からむくむくあらわれ
(にさんどまたたいているうちにもうはやみしまはうすぐらくなってしまい、みずけを)
ニ三度またたいているうちにもうはや三島は薄暗くなってしまい、水気を
(ふくんだおもたいかぜがちをはいまわるとそれがあいずとみえておおつぶのすいてきがてんから)
ふくんだ重たい風が地を這いまわるとそれが合図とみえて大粒の水滴が天から
(ぽたぽたたこぼれおち、やがてこらえかねたかひとおもいにおおあめとなった。)
ぽたぽたたこぼれ落ち、やがてこらえかねたかひと思いに大雨となった。
(じろべえはたいしゃのおおとりいのまえのいざかやでさけをのみながら、そとのあまあしとこばしりに)
次郎兵衛は大社の大鳥居のまえの居酒屋で酒を呑みながら、外の雨脚と小走りに
(はしってとおるもようのおんなのすがたをながめていた。そのうちにふとこしをうかしかけたので)
はしって通る模様の女の姿を眺めていた。そのうちにふと腰を浮かしかけたので
(ある。ちじんをみつけたからであった。かれのいえのおおむかいにすまっているしゅうじの)
ある。知人を見つけたからであった。彼の家のおおむかいに住まっている習字の
(おししょうのむすめであった。あかいはなもようのおもたげなきものをきてごろっぽはしってはまた)
お師匠の娘であった。赤い花模様の重たげな着物を着て五六歩はしってはまた
(あるきごろっぽはしってはまたあるきしていた。じろべえはいざかやののれんを)
あるき五六歩はしってはまたあるきしていた。次郎兵衛は居酒屋ののれんを
(ぱっとはじいてそとへでて、かさをおもちなさい、とことばをかけた。きものがぬれると)
ぱっとはじいて外へ出て、傘をお持ちなさい、と言葉をかけた。着物が濡れると
(たいへんです。むすめはたちどまってほそいくびをゆっくりねじまげ、じろべえのすがたをみると)
大変です。娘は立ちどまって細い頸をゆっくりねじ曲げ、次郎兵衛の姿を見ると
(やわらかいまっしろなほおをあからめた。おまち。そういいおいてじろべえは)
やわらかいまっ白な頬をあからめた。お待ち。そう言い置いて次郎兵衛は
(いざかやへひきかえしてていしゅをおおごえでしかりつけながらばんがさをいっぽんかりたのである。)
居酒屋へ引返して亭主を大声で叱りつけながら番傘を一ぽん借りたのである。
(やいおししょうさんのむすめ。おまえのおやじにしろおふくろにしろ、またおまえにしろ、)
やいお師匠さんの娘。おまえの親爺にしろおふくろにしろ、またおまえにしろ、
(おれをならずものののんだくれのわるいわるいわるものとおもっているにちがいない。)
おれをならずものの呑んだくれのわるいわるい悪者と思っているにちがいない。
(ところがどうじゃ。おれはああきのどくなとおもったならこうしてかさでもなんでも)
ところがどうじゃ。おれはああ気の毒なと思ったならこうして傘でもなんでも
(めんどうしてやるほどのおとこなのだ。ざまをみろ。ふたたびのれんをはじいてそとへ)
めんどうしてやるほどの男なのだ。ざまを見ろ。ふたたびのれんをはじいて外へ
(でてみると、むすめはいなくていっそうさかんなあまあしと、おしあいへしあいしながら)
出てみると、娘はいなくていっそうさかんな雨脚と、押し合いへし合いしながら
(はしってとおるひとのながれとだけであった。よう、よう、よう、ようといざかやの)
走って通るひとの流れとだけであった。よう、よう、よう、ようと居酒屋の
(なかからちょうろうのこえがきこえた。ろくしちにんのならずもののこえなのである。ばんがさをみぎてに)
なかから嘲弄の声が聞えた。六七人のならずものの声なのである。番傘を右手に
(ささげもちながらじろべえはかんがえる。あああ。けんかのうわてになりたいな。)
ささげ持ちながら次郎兵衛は考える。あああ。喧嘩の上手になりたいな。
(にんげん、こんなばかげためにあったときにはりくつもくそもないものだ。)
人間、こんな莫迦げた目にあったときには理屈もくそもないものだ。
(ひとにふれたら、ひとをきる。うまにふれたら、うまをきる。それでよいのだ。)
人に触れたら、人を斬る。馬に触れたら、馬を斬る。それでよいのだ。
(そのひからさんねんのあいだじろべえはこっそりけんかのしゅうぎょうをした。けんかはどきょうで)
その日から三年のあいだ次郎兵衛はこっそり喧嘩の修業をした。喧嘩は度胸で
(ある。じろべえはどきょうをさけでこしらえた。じろべえのさけはいよいよりょうがふえて、)
ある。次郎兵衛は度胸を酒でこしらえた。次郎兵衛の酒はいよいよ量がふえて、
(めはだんだんとしぎょのめのようにひやくかすみ、ひたいにはさんぼんのあぶらぎったよこじわがしょうじ)
眼はだんだんと死魚の眼のように冷くかすみ、額には三本の油ぎった横皺が生じ
(どうやらふてぶてしいめんぼうになってしまった。きせるをくちもとへもっていくのにも、)
どうやらふてぶてしい面貌になってしまった。煙管を口元へ持って行くのにも、
(うでをうしろからおおまわしにまわしてもっていって、やがてすぱりといっぷくすうのである)
腕をうしろから大廻しに廻して持っていって、やがてすぱりと一服すうのである
(どきょうのすわったおとこにみえた。つぎにはもののいいようである。おくのしれぬような)
度胸のすわった男に見えた。つぎにはものの言いようである。奥のしれぬような
(ぼそぼそごえでいおうとおもった。けんかのまえにはなにかしらきのきいたせりふを)
ぼそぼそ声で言おうと思った。喧嘩のまえには何かしら気のきいた台詞を
(いわないといけないことになっているが、じろべえはそのせりふのせんたくに)
言わないといけないことになっているが、次郎兵衛はその台詞の選択に
(くろうをした。かたのものをいってはじっさいのかんじがこもらぬ。こういうかたはずれの)
苦労をした。型のものを言っては実際の感じがこもらぬ。こういう型はずれの
(せりふをえらんだ。おまえ、まちがってはいませんか。じょうだんじゃないかしら。)
台詞をえらんだ。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。
(おまえのそのはなのさきがむらさきいろにはれあがるとおかしくみえますよ。なおすのに)
おまえのその鼻の先が紫いろに腫れあがるとおかしく見えますよ。なおすのに
(ひゃくにちもかかる。なんだかまちがっているとおもいます。これをいつまでもすらすら)
百日もかかる。なんだか間違っていると思います。これをいつまでもすらすら
(いいだせるように、まいよ、ねてからさんじゅっぺんずつひくくしょうした。)
言い出せるように、毎夜、寝てから三十ぺんずつひくく誦した。