晩年 71

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プレイ回数692難易度(4.2) 6247打 長文 かな
太宰 治

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問題文

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(うそのさぶろう)

嘘の三郎

(むかしえどふかがわにはらみやこうそんというおとこやもめのがくしゃがいた。しなのしゅうきょうに)

むかし江戸深川に原宮黄村という男やもめの学者がいた。支那の宗教に

(くわしかった。いっしがあり、さぶろうとよばれた。ひとりむすこなのにさぶろうと)

くわしかった。一子があり、三郎と呼ばれた。ひとり息子なのに三郎と

(なづけるとはさすがにがくしゃらしくひねったものだときんじょのとりざたであった。)

名づけるとは流石に学者らしくひねったものだと近所の取沙汰であった。

(どうしてそれががくしゃらしいひねりかたであるかはだれにもわからなかった。)

どうしてそれが学者らしいひねりかたであるかは誰にも判らなかった。

(そこががくしゃであるということになっていた。きんじょでのおうそんのひょうばんはあまり)

そこが学者であるということになっていた。近所での黄村の評判はあまり

(よくなかった。きょくたんにりんしょくであるとされていた。ごはんをたべてからかならずそれを)

よくなかった。極端に吝嗇であるとされていた。ごはんをたべてから必ずそれを

(きっちりはんぶんにもどして、それでもってのりをこしらえるといううわささえあった。)

きっちり半分にもどして、それでもって糊をこしらえるという噂さえあった。

(さぶろうのうそのはなはこのおうそんのりんしょくからめばえた。はっさいになるまではいっせんのこづかいも)

三郎の嘘の花はこの黄村の吝嗇から芽生えた。八歳になるまでは一銭の小使いも

(あたえられず、しなのくんしじんのことばをあんしょうすることだけをしいられた。)

与えられず、支那の君子人の言葉を暗誦することだけを強いられた。

(さぶろうはそのしなのくんしじんのことばをみずばなすすりあげながらつぶやきつぶやき、へやべやの)

三郎はその支那の君子人の言葉を水洟すすりあげながら呟き呟き、部屋部屋の

(はしらやかべのくぎをぶすぶすとぬいてあるいた。くぎがじゅっぽんたまれば、ちかくのくずやへもって)

柱や壁の釘をぶすぶすと抜いて歩いた。釘が十本たまれば、近くの屑屋へ持って

(いっていっせんかにせんでばいきゃくした。かりんとうをかうのである。あとになってちちのぞうしょが)

行って一銭か二銭で売却した。花林糖を買うのである。あとになって父の蔵書が

(さらにじゅうばいくらいのよいねでうれることをくずやからおそわり、いっさつにさつともちだし)

さらに十倍くらいのよい値で売れることを屑屋から教わり、一冊二冊と持ち出し

(ろくさつめにちちにはっけんされた。ちちはなみだをふるってこのとうへきのあるこをせっかんした。)

六冊目に父に発見された。父は涙をふるってこの盗癖のある子を折檻した。

(こぶしでつづけさまにみっつほどさぶろうのあたまをなぐり、それからいった。)

こぶしでつづけさまに三つほど三郎の頭を殴り、それから言った。

(これいじょうのせっかんは、おまえのためにもわしのためにもいたずらにくうふくをおぼえさせる)

これ以上の折檻は、お前のためにもわしのためにもいたずらに空腹を覚えさせる

(だけのことだ。それゆえせっかんはこれだけにしてやめる。そこへすわれ。)

だけのことだ。それゆえ折檻はこれだけにしてやめる。そこへ坐れ。

(さぶろうはなくなくかいごをちかわされた。さぶろうにとって、これがうそのしはじめで)

三郎は泣く泣く悔悟をちかわされた。三郎にとって、これが嘘のしはじめで

(あった。そのとしのなつ、さぶろうはりんかのあいけんをころした。あいけんはちんであった。)

あった。そのとしの夏、三郎は隣家の愛犬を殺した。愛犬は狆であった。

など

(よる、ちんはけたたましくほえたてた。ながいとおぼえやら、きゃんきゃんという)

夜、狆はけたたましく吠えたてた。ながい遠吠えやら、きゃんきゃんという

(せわしないひめいやら、くつうにたえかねたようなおおげさなうなりごえやら、)

せわしない悲鳴やら、苦痛に堪えかねたような大げさな唸り声やら、

(さまざまのなきごえをまぜてさわぎたてた。いちじかんくらいなきつづけたころ、ちちのおうそんは)

様様の鳴き声をまぜて騒ぎたてた。一時間くらい鳴きつづけたころ、父の黄村は

(そばにねているさぶろうへこえをかけた。みてこい。さぶろうはせんこくよりあたまをもたげ)

傍に寝ている三郎へ声をかけた。見て来い。三郎は先刻より頭をもたげ

(めをぱちぱちさせながらききみみをたてていたのであった。おきあがってあまどを)

眼をぱちぱちさせながら聞き耳をたてていたのであった。起きあがって雨戸を

(くりあげ、みるととなりのいえのたけがきにむすびつけられているちんが、からだをつちに)

繰りあげ、見ると隣の家の竹垣にむすびつけられている狆が、からだを土に

(こすりつけてみもだえしていた。さぶろうは、さわぐな、といってしかった。ちんはさぶろうの)

こすりつけて身悶えしていた。三郎は、騒ぐな、と言って叱った。狆は三郎の

(すがたをみとめて、これみよがしにつちにまろびたけがきをかみ、ひとしきりきょうらんのすがたを)

姿をみとめて、これ見よがしに土にまろび竹垣を噛み、ひとしきり狂乱の姿を

(よそおい、きゃんきゃんといっそうたかくなきさけんだ。さぶろうはちんのあまったれたせいしんに)

よそおい、きゃんきゃんと一そう高く泣き叫んだ。三郎は狆の甘ったれた精神に

(むかむかぞうおをおぼえたのである。さわぐな、さわぐな、といきをつめたようなこえで)

むかむか憎悪を覚えたのである。騒ぐな、騒ぐな、と息をつめたような声で

(いってから、にわへとびおりこいしをひろい、はっしとぶっつけた。ちんのとうぶに)

言ってから、庭へ飛び降り小石を拾い、はっしとぶっつけた。狆の頭部に

(めいちゅうした。きゃんとひとこえするどくないてからちんのしろいちいさいからだがくるくると)

命中した。きゃんと一声するどく鳴いてから狆の白い小さいからだがくるくると

(こまのようにまわって、ぱたとたおれた。しんだのである。あまどをしめてねどこへ)

独楽のように廻って、ぱたとたおれた。死んだのである。雨戸をしめて寝床へ

(はいってから、ちちはねむたげなこえでたずねた。どうしたのじゃ。さぶろうはふとんを)

はいってから、父は眠たげな声でたずねた。どうしたのじゃ。三郎は蒲団を

(あたまからかぶったままでこたえた。なきやみました。びょうきらしゅうございます。)

頭からかぶったままで答えた。鳴きやみました。病気らしゅうございます。

(あしたあたりしぬかもしれません。そのとしのあき、さぶろうはひとをころした。)

あしたあたり死ぬかも知れません。そのとしの秋、三郎はひとを殺した。

(ことといばしからあそびなかまをすみだがわへつきおとしたのである。ちょくせつのりゆうはなかった。)

言問橋から遊び仲間を隅田川へ突き落したのである。直接の理由はなかった。

(ぴすとるをじぶんのみみにぶっぱなしたいほっさとよくにたほっさにおそわれたのであった)

ピストルを自分の耳にぶっ放したい発作とよく似た発作におそわれたのであった

(つきおとされたとうふやのすえっこはらっかしながらほそながいりょうあしであひるのように)

突きおとされた豆腐屋の末っ子は落下しながら細長い両脚で家鴨のように

(さんどゆるくくうきをかくようにうごかして、ぼしゃっとすいめんへおちた。)

三度ゆるく空気を掻くようにうごかして、ぼしゃっと水面へ落ちた。

(はもんがながれにしたがってひとまほどかわしものほうへいどうしてからはもんのまんなかに)

波紋が流れにしたがって一間ほど川下のほうへ移動してから波紋のまんなかに

(かたてがひょいとでた。こぶしをきつくにぎっていた。すぐひっこんだ。)

片手がひょいと出た。こぶしをきつく握っていた。すぐひっこんだ。

(はもんはくずれながらながれた。さぶろうはそれをみとどけでしまってから、おおごえをたてて)

波紋は崩れながら流れた。三郎はそれを見とどけでしまってから、大声をたてて

(なきさけんだ。ひとびとはあつまり、さぶろうのなきなきさすこどころをみてことのなりゆきを)

泣き叫んだ。人々は集まり、三郎の泣き泣き指す箇処を見て事のなりゆきを

(さとった。よくしらせてくれた。おまえのほうばいがおちたのか。なくでない、)

さとった。よく知らせてくれた。お前の朋輩が落ちたのか。泣くでない、

(すぐたすけてやる。よくしらせてくれた。ひとりのがてんのはやいおとこがそういって)

すぐ助けてやる。よく知らせてくれた。ひとりの合点の早い男がそう言って

(さぶろうのかたをかるくたたいた。そのうちにひとびとのなかのおよぎにじしんのあるおとこがさんにん、)

三郎の肩を軽くたたいた。そのうちに人々の中の泳ぎに自信のある男が三人、

(きょうそうしておおかわへとびこみ、おのおのじぶんのおよぎのかたをほこりながらとうふやの)

競争して大川へ飛び込み、おのおの自分の泳ぎの型を誇りながら豆腐屋の

(すえっこをさがしはじめた。さんにんともあまりじぶんのおよぎのすがたをきにしすぎて、)

末っ子を捜しはじめた。三人ともあまり自分の泳ぎの姿を気にしすぎて、

(そのためにこどもをさがしあるくのがおろそかになり、ようやくさがしあてたものは)

そのために子供を捜しあるくのがおろそかになり、ようやく捜しあてたものは

(まったくのしがいであった。さぶろうはなんともなかった。とうふやのそうぎにはかれも)

全くの死骸であった。三郎はなんともなかった。豆腐屋の葬儀には彼も

(ちちのおうそんとともにさんれつした。じゅっさいじゅういっさいとなるにつれて、このだれにもしられぬ)

父の黄村とともに参列した。十歳十一歳となるにつれて、この誰にも知られぬ

(はんざいのおもいでがさぶろうをくるしはじめた。こういうはんざいがさぶろうのうそのはなをいよいよ)

犯罪の思い出が三郎を苦しはじめた。こういう犯罪が三郎の嘘の花をいよいよ

(みごとにひらかせた。ひとにうそをつき、おのれにうそをつき、ひたすらじぶんのはんざいを)

見事にひらかせた。ひとに嘘をつき、おのれに嘘をつき、ひたすら自分の犯罪を

(このよのなかからけし、またおのれのこころからけそうとつとめ、ちょうずるにおよんで)

この世の中から消し、またおのれの心から消そうと努め、長ずるに及んで

(いよいようそのかたまりになった。はたちのさぶろうはしんみょうなうちきなせいねんになっていた)

いよいよ嘘のかたまりになった。二十歳の三郎は神妙な内気な青年になっていた

(おぼんのくるごとになきははのおもいでをためいきつきながらひとにかたり、きんじょきんぺんの)

お盆の来るごとに亡き母の思い出を溜息つきながらひとに語り、近所近辺の

(どうじょうをあつめた。さぶろうはははをしらなかった。かれがうまれおちるとすぐははは)

同情を集めた。三郎は母を知らなかった。彼が生れ落ちるとすぐ母は

(それとこうたいにしんだのである。いまだかつてははをおもってみたことさえ)

それと交代に死んだのである。いまだかつて母を思ってみたことさえ

(なかったのである。いよいようそがじょうずになった。おうそんのところへおしえをうけに)

なかったのである。いよいよ噓が上手になった。黄村のところへ教えを受けに

(きているにさんのしょせいたちにてがみのだいひつをしてやった。おやもとへそうきんをねがうてがみを)

来ているニ三の書生たちに手紙の代筆をしてやった。親元へ送金を願う手紙を

(もっともとくいとしていた。たとえばこんなぐあいであった。きんけい、よものけしきうんぬんと)

最も得意としていた。例えばこんな工合いであった。謹啓、よもの景色云々と

(かきだして、ごそんぷさまにはごかわりもこれなくそうろうや、ときょしんにおうかがいもうしあげ、)

書きだして、御尊父様には御変りもこれなく候や、と虚心にお伺い申し上げ、

(それからすぐようじをかくのであった。はじめおせじたらたらかきしたためて、さて、)

それからすぐ用事を書くのであった。はじめお世辞たらたら書き認めて、さて、

(かねをおくってくだされといいだすのはへたなのであった。はじめのたらたらの)

金を送って下されと言いだすのは下手なのであった。はじめのたらたらの

(おせじがそのさいごのようじのひとことでもってがかいし、いかにもさもしくきたなくみえる)

お世辞がその最後の用事の一言でもって瓦解し、いかにもさもしく汚く見える

(ものである。それゆえ、ゆうきをだしてすこしもはやくひとおもいにようじにとりかかる)

ものである。それゆえ、勇気を出して少しも早くひと思いに用事にとりかかる

(のであった。なるべくかんめいなほうがよい。このたびわがじゅくにおいてしきょうのこうぎが)

のであった。なるべく簡明なほうがよい。このたびわが塾に於いて詩経の講義が

(はじまるのであるが、このきょうかしょはぼうかんのしょしよりもとむればにじゅうにえんである。)

はじまるのであるが、この教科書は坊間の書肆より求むればニ十二円である。

(けれどもおうそんせんせいはしょせいたちのけいざいりょくをこうりょしちょくせつにしなへちゅうもんしてくださる)

けれども黄村先生は書生たちの経済力を考慮し直接に支那へ注文して下さる

(こととあいなった。じっぴじゅうごえんはちじゅっせんである。このきをのがすならばすこしのそんをする)

ことと相成った。実費十五円八十銭である。この機を逃すならば少しの損をする

(ゆえさっそくにもうしこもうとおもう。おおいそぎでじゅうごえんはちじゅっせんをおくっていただきたいと)

ゆえ早速に申し込もうと思う。大急ぎで十五円八十銭を送っていただきたいと

(いうようなあんばいであった。そのつぎにおのれのきんきょうのそれもささたるちゃばんごとを)

いうような案配であった。そのつぎにおのれの近況のそれも些々たる茶番事を

(つげる。きのうわがまどよりそとをながめていたら、たくさんのからすがいちわのとびとたたかい)

告げる。昨日わが窓より外を眺めていたら、たくさんの烏が一羽の鳶とたたかい

(まことにゆうそうであったとか、いっさくじつ、ぼくていをさんぽしきみょうなくさばなをみつけた、)

まことに勇壮であったとか、一昨日、墨堤を散歩し奇妙な草花を見つけた、

(かべんはあさがおににてちいさくえんどうににておおきくいろあかきににてしろくめずらしきものゆえ、)

花弁は朝顔に似て小さく豌豆に似て大きくいろ赤きに似て白く珍しきものゆえ、

(ねごとぬきとりもちかえってわがへやのはちにうつしうえた、とかいうようなことを)

根ごと抜きとり持ちかえってわが部屋の鉢に移し植えた、とかいうようなことを

(そうきんのせいきゅうもなにもわすれてしまったかのようにのんびりとかきしたためてるので)

送金の請求もなにも忘れてしまったかのようにのんびりと書き認めてるので

(あった。そんぷはこのたよりにせっして、わがこのへいせいなしんきょうをおもいおのれのあくせく)

あった。尊父はこの便りに接して、わが子の平静な心境を思いおのれのあくせく

(したこころをはじ、ほほえんでそうきんをするのである。さぶろうのてがみはじじつそのように)

した心を恥じ、微笑んで送金をするのである。三郎の手紙は事実そのように

(うまくいった。しょせいたちは、われもわれもとさぶろうにてがみのだいひつ、もしくは)

うまくいった。書生たちは、われもわれもと三郎に手紙の代筆、もしくは

(こうじゅつをたのんだのである。かねがくるとしょせいたちはさぶろうをさそってあそびにでかけ、)

口述をたのんだのである。金が来ると書生たちは三郎を誘って遊びに出かけ、

(いちもんもあますことなくつかった。おうそんのじゅくはそろそろとはんえいしはじめた。)

一文もあますことなく使った。黄村の塾はそろそろと繁栄しはじめた。

(うわさをきいたえどのしょせいたちは、わかせんせいからてがみのかきかたをこっそり)

噂を聞いた江戸の書生たちは、若先生から手紙の書きかたをこっそり

(おそわりたいこころからおうそんにおしえをもとめたのである。)

教わりたい心から黄村に教えを求めたのである。

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