黒死館事件77

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(ところで、きおうのもんだいはのちほどあらためてうかがうとして・・・・・・。きょうのできごととうじに)

「ところで、既往の問題はのちほど改めて伺うとして……。今日の出来事当時に

(あなたはなぜじぶんのありばいをたてることができなかったのです なぜって、)

貴女は何故自分の不在証明を立てることが出来なかったのです」「何故って、

(それがにかいつづきのふうんなんですわ とのぶこはちょっとぐちをもらして、)

それが二回続きの不運なんですわ」と伸子はちょっと愚痴を洩らして、

(かなしそうにいった。だってわたしは、あのとうじぼるけん・はうす ほんかんのさたんちかくにあり の)

悲しそうに云った。「だって私は、あの当時樹皮亭(本館の左端近くにあり)の

(なかにいたんですもの。あそこはびなんかつらのそでがきにかこまれていてどこからも)

中にいたんですもの。あそこは美男桂の袖垣に囲まれていてどこからも

(みえはいたしませんわ。それに、くりヴぉふさまがつるされたぶぐしつのまどだっても、)

見えはいたしませんわ。それに、クリヴォフ様が吊された武具室の窓だっても、

(ちょうどあのへんだけが、びなんかつらのいけがきにさえぎられているのです。ですから、ああいう)

ちょうどあの辺だけが、美男桂の籬に遮られているのです。ですから、ああいう

(どうぶつきょくげいのあったことさえ、わたしはてんでしらなかったのです でも、ふじんの)

動物曲芸のあった事さえ、私はてんで知らなかったのです」「でも、夫人の

(ひめいだけは、おききになったでしょうな もちろんききましたとも それが)

悲鳴だけは、お聴きになったでしょうな」「勿論聴きましたとも」それが

(ほとんどはんしゃてきだったらしく、のぶこはげんかにこたえた。けれどもそのくちのしたから、)

ほとんど反射的だったらしく、伸子は言下に答えた。けれどもその口の下から、

(いようなこんらんがひょうじょうのなかにあらわれてきて、がぜんこえにふるえをおびてきた。)

異様な混乱が表情の中に現われてきて、俄然声に慄えを帯びてきた。

(ですけど、どうしてもわたしは、あのぼるけん・はうすからはなれることが)

「ですけど、どうしても私は、あの樹皮亭から離れることが

(できなかったのです それは、またなぜにです?だいたいそういうことが、)

出来なかったのです」「それは、また何故にです?だいたいそういう事が、

(ねもないけんぎをふかめることになるんですぞ くましろはここぞときびしくつっこんだが)

根もない嫌疑を深めることになるんですぞ」熊城はここぞと厳しく突っ込んだが

(のぶこはくちびるをけいれんさせ、りょうてでむねをいだいてからくもげきじょうをおさえていた。しかし、)

伸子は唇を痙攣させ、両手で胸を抱いてからくも激情を圧えていた。しかし、

(そのくちからは、こおりのようにひややかなことばがはかれた。どうしても、)

その口からは、氷のように冷やかな言葉が吐かれた。「どうしても、

(もうしあげることはできません このことはなんどくりかえしてもおなじですわ。)

申し上げることは出来ません――この事は何度繰り返しても同じですわ。

(それより、ちょうどくりヴぉふさまが、ひめいをおあげになる)

それより、ちょうどクリヴォフ様が、悲鳴をおあげになる

(いっしゅんほどまえのことでしたが、わたしはあのまどのかたわらに、じつはふしぎなものがいるのを)

一瞬ほど前のことでしたが、私はあの窓の側に、実は不思議なものがいるのを

(みたのですわ。それは、いろのないすきとおったものがひかっているようでいて、)

見たのですわ。それは、色のない透明ったものが光っているようでいて、

など

(そのくせどうもかたちのはっきりとしていない、まるできたいのようなものでした。)

そのくせどうも形体の明瞭としていない、まるで気体のようなものでした。

(ところが、そのいようなものは、まどのじょうほうのがいきのなかからあらわれてきて、)

ところが、その異様なものは、窓の上方の外気の中から現われて来て、

(それがふわふわふどうしながら、ななめにあのまどのなかへはいりこんでいくのでした。)

それがふわふわ浮動しながら、斜めにあの窓の中へ入り込んで行くのでした。

(そのいっしゅんごに、くりヴぉふさまがさくようなひめいをおあげになりました とのぶこは)

その一瞬後に、クリヴォフ様が裂くような悲鳴をおあげになりました」と伸子は

(まざまざきょうふのいろをうかべて、のりみずのかおをうかがうようにみいるのだった。さいしょわたしは)

まざまざ恐怖の色を泛べて、法水の顔を窺うように見入るのだった。「最初私は

(れヴぇずさまがあのさいにいらっしゃったので、あるいは、うぉーたー・さーぷらいずのしぶきかなとも)

レヴェズ様があの際にいらっしゃったので、あるいは、驚駭噴泉の飛沫かなとも

(おもいました。でもかんがえてみますと、だいたいびふうさえもないのに、)

思いました。でも考えてみますと、だいたい微風さえもないのに、

(しぶきがながれるというきづかいはございませんわね ふん、またおばけか と)

飛沫が流れるという気遣いはございませんわね」「ふん、またお化か」と

(けんじはかおをしかめてつぶやいたが、どうじにくちびるのおくで、それとものぶこのきょげんか と)

検事は顔を顰めて呟いたが、同時に唇の奥で、それとも伸子の虚言か――と

(つけくわえたのはとうぜんであろう。しかし、くましろはただならぬけついをうかべて)

附け加えたのは当然であろう。しかし、熊城はただならぬ決意を泛べて

(たちあがった。そして、げんぜんのぶこにいいわたしたのだった。とにかく、)

立ち上った。そして、厳然と伸子に云い渡したのだった。「とにかく、

(このすうにちかんのふみんくのうはおさっししますが、しかしこんやからは、)

この数日間の不眠苦悩はお察ししますが、しかし今夜からは、

(じゅうぶんよくねむられるようにはからいましょう。だいたい、これがけいじひこくにんの)

充分よく眠られるように計らいましょう。だいたい、これが刑事被告人の

(てんごくなんですよ。とりなわであなたのてくびをつよくしめるんです。そうすると、ぜんしんに)

天国なんですよ。捕繩で貴女の手頸を強く緊めるんです。そうすると、全身に

(きもちのよいひんけつがおこって、しだいにうとうととなってゆくそうですからな)

気持のよい貧血が起って、しだいにうとうととなってゆくそうですからな」

(そのしゅんかん、のぶこのしせんががくんとおちて、りょうてでかおをおおい、たくじょうに)

その瞬間、伸子の視線がガクンと落ちて、両手で顔を覆い、卓上に

(うつぶしてしまった。ところが、つづいてけいさつじどうしゃをよぼうとし、くましろがじゅわきを)

俯伏してしまった。ところが、続いて警察自動車を呼ぼうとし、熊城が受話器を

(とりあげたときだった。のりみずはなんとおもったか、そのこーどにつづいている、かべの)

取り上げた時だった。法水は何と思ったか、その紐線に続いている、壁の

(ぷらぐをぽんとひきぬいて、それをのぶこのてのひらのうえにおいた。そうしてから、)

差込みをポンと引き抜いて、それを伸子の掌の上に置いた。そうしてから、

(あぜんとなったさんにんをしりめにかけ、とうぜんとかれのちゃくそうをのべたのである。ああ、)

唖然となった三人を尻眼にかけ、陶然と彼の着想を述べたのである。ああ、

(じたいはふたたびぎゃくてんしてしまったのだった。じつは、その あなたにとってふうんな)

事態は再び逆転してしまったのだった。「実は、その――貴女にとって不運な

(おばけが、ぼくにしそうをつくってくれました。これがもしはるならば、あのへんはかふんと)

お化が、僕に詩想を作ってくれました。これがもし春ならば、あの辺は花粉と

(においのうみでしょう。しかし、うらがれたまふゆでさえも、あのふんせんとぼるけん・はうすの)

匂いの海でしょう。しかし、裏枯れた真冬でさえも、あの噴泉と樹皮亭の

(しぜんぶたい それがぼくにあなたのありばいをみとめさせたのです。あなたも)

自然舞台――それが僕に貴女の不在証明を認めさせたのです。貴女も

(くりヴぉふふじんも、あのわんだー・ふぉーげる・・・・・・にじによってすくわれたのですよ ああ、)

クリヴォフ夫人も、あの渡り鳥……虹によって救われたのですよ」「ああ、

(にじとは・・・・・・。あなたはなにをおっしゃるのです のぶこはとつぜんはねあげたようにからだを)

虹とは……。貴方は何を仰言るのです」伸子は突然弾ね上げたように身体を

(おこして、なみだでうるおんだうつくしいめをのりみずにむけた。しかし、いっぽうそのにじは、けんじと)

起して、涙で霑んだ美しい眼を法水に向けた。しかし、一方その虹は、検事と

(くましろをぜつぼうのふちにたたきこんでしまった。おそらくふたりにとれば、そのせつなが、)

熊城を絶望の淵に叩き込んでしまった。恐らく二人にとれば、その刹那が、

(あらゆるちからのむりょくをちょっかんしたしゅんかんであったろう。けれども、そののりみずが)

あらゆる力の無力を直感した瞬間であったろう。けれども、その法水が

(もちだした、はなやかにさいしょくこくひびきのたかいえには、どうしても)

持ち出した、華やかに彩色濃く響の高い絵には、どうしても

(みりょうせずにはおかないふしぎなかんかくがあった。のりずはしずかにいった。にじ・・・・・・)

魅了せずにはおかない不思議な感覚があった。法水は静かに云った。「虹……

(まさにそれは、かわむちのようなにじでした。ですが、はんにんをきどってみたり、)

まさにそれは、革鞭のような虹でした。ですが、犯人を気取ってみたり、

(くがしずこのぺだんてぃっくなかめんをつけたりしているあいだは、それにさえぎられていて、)

久我鎮子の衒学的な仮面を被けたりしている間は、それに遮られていて、

(あのにじをみることができなかったのです。ぼくはこころからくなんをきわめていたあなたの)

あの虹を見ることが出来なかったのです。僕は心から苦難をきわめていた貴女の

(たちばにごどうじょうしますよ では、くがさんのことばをかりれば もちふ・わんでる。)

立場に御同情しますよ」「では、久我さんの言を借りれば――動機変転。

(ねえ、そうでございましょう。でも、そんなくまどりは、もうとうに)

ねえ、そうでございましょう。でも、そんな隈取りは、もう既に

(あらいおとしてしまいましたわ。ぎあく、ぺだんとりー・・・・・・そういうあくとくは、たしか、わたしには)

洗い落してしまいましたわ。偽悪、衒学……そういう悪徳は、たしか、私には

(おもすぎるいしょうでしたわね とだいいちにちいらいうっせきしきっていたものが、かのじょのせいぎょを)

重過ぎる衣裳でしたわね」と第一日以来鬱積しきっていたものが、彼女の制御を

(はねこえていっときにほうしゅつされた。のぶこのからだがまるでこじかのようにはずみだして、)

跳ね越えて一時に放出された。伸子の身体がまるで小鹿のように弾み出して、

(りょうひじをすいへいにあげ、そのこぶしをりょうみみのねにつけて、それをさゆうにゆすぶりながら、)

両肱を水平に上げ、その拳を両耳の根につけて、それを左右に揺ぶりながら、

(よろこばしさにうっとりとなったひとみで、かのじょはちゅうになんというもじを)

喜悦に恍惚となった瞳で、彼女は宙になんという文字を

(かいていたことであろう。いがいにもおもいもよらなかったかんきのおとずれが、のぶこを)

書いていたことであろう。意外にも思いもよらなかった歓喜の訪れが、伸子を

(まったくきょうきのようにしてしまったのである。)

まったく狂気のようにしてしまったのである。

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