【タイピング文庫】芥川龍之介「鼻1」

(いけのおのまちのものは、こういうはなをしているぜんちないぐのために、)

池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、

(ないぐのぞくでないことをしあわせだといった。あのはなではだれもつまになるおんながあるまい)

内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまい

(とおもったからである。なかにはまた、あのはなだからしゅっけしたのだろう)

と思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家したのだろう

(とひひょうするものさえあった。しかしないぐは、じぶんがそうであるために、)

と批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、

(いくぶんでもこのはなにわずらわされることがすくなくなったとおもっていない。ないぐのじそんしんは、)

幾分でもこの鼻に煩される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、

(さいたいというようなけっかてきなじじつにさゆうされるためには、)

妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、

(あまりにでりけいとにできていたのである。そこでないぐは、せっきょくてきにもしょうきょくてきにも)

余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも

(このじそんしんのきそんをかいふくしようとこころみた。だいいちにないぐのかんがえたのは、)

この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。第一に内供の考えたのは、

(このながいはなをじっさいいじょうにみじかくみせるほうほうである。これはひとのいないときに、)

この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、

(かがみへむかって、いろいろなかくどからかおをうつしながら、ねっしんにくふうをこらしてみた。)

鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。

(どうかすると、かおのいちをかえるだけでは、あんしんができなくなって、)

どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、

(ほおづえをついたりあごのさきへゆびをあてがったりして、)

頬杖をついたり頤の先へ指をあてがったりして、

(こんきよくかがみをのぞいてみることもあった。しかしじぶんでもまんぞくするほど、)

根気よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、

(はながみじかくみえたことは、これまでにただのいちどもない。)

鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。

(ときによると、くしんすればするほど、かえってながくみえるようなきさえした。)

時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。

(ないぐは、こういうときにはかがみをはこへしまいながら、いまさらのようにためいきをついて、)

内供は、こう云う時には鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、

(ふしょうぶしょうにまたもとのきょうづくえへ、かんのんぎょうをよみにかえるのである。)

不承不承にまた元の経机へ、観音経をよみに帰るのである。

(それからまたないぐは、たえずひとのはなをきにしていた。いけのおのてらは、)

それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、

(そうぐこうせつなどのしばしばおこなわれるてらである。てらのうちには、)

僧供講説などのしばしば行われる寺である。寺の内には、

(そうぼうがすきなくたてつづいて、ゆやではてらのそうがひごとにゆをわかしている。)

僧坊が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。

(したがってここへでいりするそうぞくのたぐいもはなはだおおい。)

従ってここへ出入する僧俗の類も甚だ多い。

(ないぐはこういうひとびとのかおをこんきよくぶっしょくした。)

内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。

(ひとりでもじぶんのようなはなのあるにんげんをみつけて、あんしんがしたかったからである。)

一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。

(だからないぐのめには、こんのすいかんもしろのかたびらもはいらない。)

だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。

(ましてこうじいろのぼうしや、しいにびのころもなぞは、みなれているだけに、)

まして柑子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れているだけに、

(あれどもなきがごとくである。ないぐはひとをみずに、ただ、はなをみた。)

有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――

(しかしかぎばなはあっても、ないぐのようなはなはひとつもみあたらない。)

しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。

(そのみあたらないことがたびかさなるにしたがって、ないぐのこころはしだいにまたふかいになった。)

その見当らない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。

(ないぐがひととはなしながら、おもわずぶらりとくだっているはなのさきをつまんでみて、)

内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、

(としがいもなくかおをあからめたのは、まったくこのふかいにうごかされてのしょいである。)

年甲斐もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快に動かされての所為である。

(さいごに、ないぐは、ないてんげてんのなかに、じぶんとおなじような)

最後に、内供は、内典外典の中に、自分と同じような

(はなのあるじんぶつをみいだして、せめていくぶんのこころやりにしようとさえおもったことがある。)

鼻のある人物を見出して、せめて幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。

(けれども、もくれんや、しゃりほつのはながながかったとは、どのきょうもんにもかいてない。)

けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。

(もちろんりゅうじゅやめみょうも、ひとなみのはなをそなえたぼさつである。)

勿論竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。

(ないぐは、しんたんのはなしのついでにしょくかんのりゅうげんとくのみみがながかったということをきいたときに、)

内供は、震旦の話の序に蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、

(それがはなだったら、どのくらいじぶんはこころぼそくなくなるだろうとおもった。)

それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。

(ないぐがこういうしょうきょくてきなくしんをしながらも、いっぽうではまた、)

内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、

(せっきょくてきにはなのみじかくなるほうほうをこころみたことは、わざわざここにいうまでもない。)

積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。

(ないぐはこのほうめんでもほとんどできるだけのことをした。)

内供はこの方面でもほとんど出来るだけの事をした。

(からすうりをせんじてのんでみたこともある。ねずみのいばりをはなへなすってみたこともある。)

烏瓜を煎じて飲んで見た事もある。鼠の尿を鼻へなすって見た事もある。

(しかしなにをどうしても、はなはいぜんとして、ごろくすんのながさをぶらりとくちびるのうえに)

しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上に

(ぶらさげているではないか。ところがあるとしのあき、ないぐのようをかねて、)

ぶら下げているではないか。所がある年の秋、内供の用を兼ねて、

(きょうへのぼったでしのそうが、しるべのいしゃからながいはなをみじかくするほうをおそわってきた。)

京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。

(そのいしゃというのは、もとしんたんからわたってきたおとこで、とうじはちょうらくじのぐそうに)

その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺の供僧に

(なっていたのである。ないぐは、いつものように、はななどはきにかけない)

なっていたのである。内供は、いつものように、鼻などは気にかけない

(というふうをして、わざとそのほうもすぐにやってみようとはいわずにいた。)

と云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。

(そうしていっぽうでは、きがるなくちょうで、しょくじのたびごとに、でしのてすうをかけるのが、)

そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、

(こころぐるしいというようなことをいった。ないしんではもちろんでしのそうが、じぶんをときふせて、)

心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説伏せて、

(このほうをこころみさせるのをまっていたのである。でしのそうにも、)

この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、

(ないぐのこのさくりゃくがわからないはずはない。しかしそれにたいするはんかんよりは、)

内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反感よりは、

(ないぐのそういうさくりゃくをとるこころもちのほうが、よりつよくこのでしのそうのどうじょうを)

内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を

(うごかしたのであろう。でしのそうは、ないぐのよきどおり、くちをきわめて、)

動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極めて、

(このほうをこころみることをすすめだした。そうして、ないぐじしんもまた、そのよきどおり、)

この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、

(けっきょくこのねっしんなかんこくにちょうじゅうすることになった。そのほうというのは、ただ、)

結局この熱心な勧告に聴従する事になった。その法と云うのは、ただ、

(ゆではなをゆでて、そのはなをひとにふませるという、きわめてかんたんなものであった。)

湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。

(ゆはてらのゆやで、まいにちわかしている。そこででしのそうは、)

湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、

(ゆびもいれられないようなあついゆを、すぐにひさげにいれて、ゆやからくんできた。)

指も入れられないような熱い湯を、すぐに提に入れて、湯屋から汲んで来た。

(しかしじかにこのひさげへはなをいれるとなると、ゆげにふかれて)

しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて

(かおをやけどするおそれがある。そこでおしきへあなをあけて、それをひさげのふたにして、)

顔を火傷する惧がある。そこで折敷へ穴をあけて、それを提の蓋にして、

(そのあなからはなをゆのなかへいれることにした。はなだけはこのあついゆのなかへひたしても、)

その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、

(すこしもあつくないのである。しばらくするとでしのそうがいった。)

少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。

(もうゆだったじふんでござろう。ないぐはくしょうした。これだけきいたのでは、)

――もう茹った時分でござろう。内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、

(だれもはなのはなしとはきがつかないだろうとおもったからである。)

誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。

(はなはねっとうにむされて、のみのくったようにむずがゆい。でしのそうは、)

鼻は熱湯に蒸されて、蚤の食ったようにむず痒い。弟子の僧は、

(ないぐがおしきのあなからはなをぬくと、そのまだゆげのたっているはなを、)

内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、

(りょうあしにちからをいれながら、ふみはじめた。ないぐはよこになって、)

両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、

(はなをゆかいたのうえへのばしながら、でしのそうのあしがうえしたにうごくのを)

鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下に動くのを

(めのまえにみているのである。でしのそうは、ときどききのどくそうなかおをして、)

眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、

(ないぐのはげあたまをみくだしながら、こんなことをいった。いとうはござらぬかな。)

内供の禿頭を見下しながら、こんな事を云った。痛うはござらぬかな。

(いしはせめてふめともうした。じゃが、いとうはござらぬかな。)

医師は責めて踏めと申した。じゃが、痛うはござらぬかな。

(ないぐはくびをふって、いたくないといういみをしめそうとした。)

内供は首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。

(ところがはなをふまれているのでおもうようにくびがうごかない。)

所が鼻を踏まれているので思うように首が動かない。