【タイピング文庫】芥川龍之介「トロッコ2」

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プレイ回数2981難易度(4.2) 4563打 長文 かな
大正の作家、芥川龍之介の代表的な短編小説。
工事現場のトロッコに興味をもっていた良平はある日、若い土工と一緒に、トロッコを押すことになった。良平は最初は有頂天だが、だんだん帰りが不安になった。途中で土工に、遅くなったから帰るようにいわれて、良平は一人暗い坂道を「命さえ助かれば」と思いながら駆け抜けた。家に着いたとたん、良平は泣き出してしまう。

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問題文

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(そのみちをやっとのぼりきったら、こんどはたかいがけのむこうに、ひろびろとうすらさむいうみが)

その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が

(あけた。とどうじにりょうへいのあたまには、あまりとおくきすぎたことが、きゅうにはっきりとかんじ)

開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じ

(られた。さんにんはまたとろっこへのった。くるまはうみをみぎにしながら、ぞうきのえだのしたを)

られた。三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を

(はしっていった。しかしりょうへいはさっきのように、おもしろいきもちにはなれなかった。)

走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。

(もうかえってくれればいいかれはそうもねんじてみた。が、いくところまでいき)

「もう帰ってくれれば好い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行き

(つかなければ、とろっこもかれらもかえれないことは、もちろんかれにもわかりきっていた。)

つかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。

(そのつぎにくるまのとまったのは、きりくずしたやまをしょっている、わらやねのちゃみせのまえ)

その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前

(だった。ふたりのどこうはそのみせへはいると、ちのみごをおぶったかみさんをあいてに、)

だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、

(ゆうゆうとちゃなどをのみはじめた。りょうへいはひとりいらいらしながら、とろっこのまわり)

悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわり

(をまわってみた。とろっこにはがんじょうなしゃだいのいたに、はねかえったどろがかわいていた。)

をまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳かえった泥が乾いていた。

(しばらくののちちゃみせをでてきしなに、まきたばこをみみにはさんだおとこは、そのときはもうはさんで)

少時の後茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んで

(いなかったがとろっこのそばにいるりょうへいにしんぶんしにつつんだだがしをくれた。りょうへい)

いなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平

(はれいたんにありがとうといった。が、すぐにれいたんにしては、あいてにすまないとおもい)

は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い

(なおした。かれはそのれいたんさをとりつくろうように、つつみかしのひとつをくちへいれた。かし)

直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子

(にはしんぶんしにあったらしい、せきゆのにおいがしみついていた。さんにんはとろっこをおし)

には新聞紙にあったらしい、石油の匂がしみついていた。三人はトロッコを押し

(ながらゆるいけいしゃをのぼっていった。りょうへいはくるまにてをかけていても、こころはほかのことを)

ながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外の事を

(かんがえていた。そのさかをむこうへおりきると、またおなじようなちゃみせがあった。どこうたち)

考えていた。その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たち

(がそのなかへはいったあと、りょうへいはとろっこにこしをかけながら、かえることばかりきに)

がその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気に

(していた。ちゃみせのまえにははなのさいたうめに、にしびのひかりがきえかかっている。もう)

していた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう

(ひがくれるかれはそうかんがえると、ぼんやりこしかけてもいられなかった。)

日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。

など

(とろっこのしゃりんをけってみたり、ひとりではうごかないのをしょうちしながらうんうん)

トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうん

(それをおしてみたり、そんなことにきもちをまぎらせていた。ところがどこうたち)

それを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。ところが土工たち

(はでてくると、くるまのうえのまくらぎにてをかけながら、むぞうさにかれにこういった。)

は出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。

(われはもうかえんな。おれたちはきょうはむこうどまりだからあんまりかえりがおそく)

「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」「あんまり帰りが遅く

(なるとわれのいえでもしんぱいするずらりょうへいはいっしゅんかんあっけにとられた。もうかれこれ)

なるとわれの家でも心配するずら」良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ

(くらくなること、きょねんのくれははといわむらまできたが、きょうのとはそのさんよんばいあること、それ)

暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それ

(をいまからたったひとり、あるいてかえらなければならないこと、そういうことがいっときに)

を今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時に

(わかったのである。りょうへいはほとんどなきそうになった。が、ないてもしかたがないと)

わかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと

(おもった。ないているばあいではないともおもった。かれはわかいふたりのどこうに、とって)

思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って

(つけたようなおじぎをすると、どんどんせんろづたいにはしりだした。りょうへいはしばらく)

附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。良平は少時

(むがむちゅうにせんろのそばをはしりつづけた。そのうちにふところのかしづつみが、じゃまになることに)

無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に

(きがついたから、それをみちばたへほりだすついでに、いたぞうりもそこへぬぎすてて)

気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨てて

(しまった。するとうすいたびのうらへじかにこいしがくいこんだが、あしだけははるかに)

しまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに

(かるくなった。かれはひだりにうみをかんじながら、きゅうなさかみちをかけのぼった。ときどきなみだがこみ)

軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駈け登った。時時涙がこみ

(あげてくると、しぜんにかおがゆがんでくる。それはむりにがまんしても、はなだけは)

上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは

(たえずくうくうなった。たけやぶのそばをかけぬけると、ゆうやけのしたひがねやまのそらも、)

絶えずくうくう鳴った。竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、

(もうほてりがきえかかっていた。りょうへいは、いよいよきがきでなかった。いきとかえりとかわる)

もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往と返りと変る

(せいか、けしきのちがうのもふあんだった。するとこんどはきものまでも、あせのぬれとおった)

せいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通った

(のがきになったから、やはりひっしにかけつづけたなり、はおりをみちばたへぬいで)

のが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側へ脱いで

(すてた。みかんばたけへくるころには、あたりはくらくなるいっぽうだった。いのちさえたすかれ)

捨てた。蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれ

(ばりょうへいはそうおもいながら、すべってもつまずいてもはしっていった。やっと)

ば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。やっと

(とおいゆうやみのなかに、むらはずれのこうじばがみえたとき、りょうへいはひとおもいになきたくなった。)

遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。

(しかしそのときもべそはかいたが、とうとうなかずにかけつづけた。かれのむらへ)

しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。彼の村へ

(はいってみると、もうりょうがわのいえいえには、でんとうのひかりがさしあっていた。りょうへいはその)

はいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその

(でんとうのひかりに、あたまからあせのゆげのたつのが、かれじしんにもはっきりわかった。いどばた)

電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端

(にみずをくんでいるおんなしゅうや、はたけからかえってくるおとこしゅうは、りょうへいがあえぎあえぎはしるの)

に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平があえぎあえぎ走るの

(をみては、おいどうしたね?などとこえをかけた。が、かれはむごんのまま、)

を見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、

(ざっかやだのとこやだの、あかるいいえのまえをはしりすぎた。かれのいえのまぐちへかけこんだとき)

雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。彼の家の門口へ駈けこんだ時

(りょうへいはとうとうおおごえに、わっとなきださずにはいられなかった。そのなきごえはかれ)

良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼

(のしゅうい、いっときにちちやははをあつまらせた。ことにはははなんとかいいながら、りょうへいのからだを)

の周囲、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を

(かかえるようにした。が、りょうへいはてあしをもがきながら、すすりあげすすりあげなき)

抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き

(つづけた。そのこえがあまりはげしかったせいか、きんじょのおんなしゅうもさんよにん、うすぐらいまぐちへ)

続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ

(つどってきた。ふぼはもちろんそのひとたちは、くちぐちにかれのなくわけをたずねた。しかしかれは)

集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は

(なんといわれてもなきたてるよりほかにしかたがなかった。あのとおいみちをかけとおして)

何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して

(きた、いままでのこころぼそさをふりかえると、いくらおおごえになきつづけても、たりない)

来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない

(きもちにせまられながら、りょうへいはにじゅうろくのとし、さいしといっしょにとうきょうへ)

気もちに迫られながら、…………良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ

(でてきた。いまではあるざっししゃのにかいに、こうせいのしゅひつをにぎっている。が、かれはどうか)

出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうか

(すると、ぜんぜんなんのりゆうもないのに、そのときのかれをおもいだすことがある。ぜんぜんなんの)

すると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の

(りゆうもないのに?じんろうにつかれたかれのまえにはいまでもやはりそのときのように、)

理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、

(うすぐらいやぶやさかのあるみちが、ほそぼそとひとすじだんぞくしている。)

薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

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