【タイピング文庫】芥川龍之介「トロッコ1」

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プレイ回数5608難易度(4.2) 4755打 長文 かな
大正の作家、芥川龍之介の代表的な短編小説。
工事現場のトロッコに興味をもっていた良平はある日、若い土工と一緒に、トロッコを押すことになった。良平は最初は有頂天だが、だんだん帰りが不安になった。途中で土工に、遅くなったから帰るようにいわれて、良平は一人暗い坂道を「命さえ助かれば」と思いながら駆け抜けた。家に着いたとたん、良平は泣き出してしまう。

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問題文

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(おだわらあたみかんに、けいべんてつどうふせつのこうじがはじまったのは、りょうへいのやっつのとしだった。)

小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。

(りょうへいはまいにちむらはずれへ、そのこうじをけんぶつにいった。こうじをといったところが、)

良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、

(ただとろっこでつちをうんぱんするそれがおもしろさにみにいったのである。とろっこの)

唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。トロッコの

(うえにはどこうがふたり、つちをつんだうしろにたたずんでいる。とろっこはやまをくだるのだから、)

上には土工が二人、土を積んだ後に佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、

(ひとでをかりずにはしってくる。あおるようにしゃだいがうごいたり、どこうのはんてんのすそがひら)

人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひら

(ついたり、ほそいせんろがしなったりりょうへいはそんなけしきをながめながら、どこうに)

ついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺めながら、土工に

(なりたいとおもうことがある。せめていちどでもどこうといっしょに、とろっこへのりたい)

なりたいと思う事がある。せめて一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたい

(とおもうこともある。とろっこはむらはずれのへいちへくると、しぜんとそこにとまって)

と思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まって

(しまう。とどうじにどこうたちは、みがるにとろっこをとびおりるがはやいか、そのせんろ)

しまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路

(のしゅうてんへくるまのつちをぶちまける。それからこんどはとろっこをおしおし、もときたやま)

の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山

(のほうへのぼりはじめる。りょうへいはそのときのれないまでも、おすことさえできたらとおもうの)

の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うの

(である。あるゆうがた、それはにがつのしょじゅんだった。りょうへいはふたつしたのおとうとや、おとうととおなじ)

である。或夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ

(としのとなりのこどもと、とろっこのおいてあるむらはずれへいった。とろっこはどろだらけに)

年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけに

(なったまま、うすあかるいなかにならんでいる。が、そのほかはどこをみても、)

なったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、

(どこうたちのすがたはみえなかった。さんにんのこどもはおそるおそる、いちばんはしにあるとろっこを)

土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを

(おした。とろっこはさんにんのちからがそろうと、とつぜんごろりとしゃりんをまわした。りょうへいは)

押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平は

(このおとにひやりとした。しかしにどめのしゃりんのおとは、もうかれをおどろかさなかった。)

この音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。

(ごろり、ごろり、とろっこはそういうおととともに、さんにんのてにおされながら、)

ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、

(そろそろせんろをのぼっていった。そのうちにかれこれじっけんほどくると、せんろのこうばいが)

そろそろ線路を登って行った。その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が

(きゅうになりだした。とろっこもさんにんのちからでは、いくらおしてもうごかなくなった。)

急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。

など

(どうかすればくるまといっしょに、おしもどされそうにもなることがある。りょうへいはもういい)

どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好い

(とおもったから、とししたのふたりにあいずをした。さあ、のろう!かれらはいちどにてを)

と思ったから、年下の二人に合図をした。「さあ、乗ろう!」彼等は一度に手を

(はなすと、とろっこのうえへとびのった。とろっこはさいしょおもむろに、それからみるみる)

はなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐に、それから見る見る

(いきおいよく、ひといきにせんろをくだりだした。そのとたんにつきあたりのふうけいは、たちまちりょうがわへ)

勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ

(わかれるように、ずんずんめのまえへてんかいしてくる。かおにあたるはくぼのかぜ、あしのもとに)

分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に

(おどるとろっこのどうよう、りょうへいはほとんどうちょうてんになった。しかしとろっこはにさんぷん)

躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。しかしトロッコは二三分

(ののち、もうもとのしゅうてんにとまっていた。さあ、もういちどおすじゃありょうへいは)

の後、もうもとの終点に止まっていた。「さあ、もう一度押すじゃあ」良平は

(とししたのふたりといっしょに、またとろっこをおしあげにかかった。が、まだしゃりんも)

年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も

(うごかないうちに、とつぜんかれらのうしろには、だれかのあしおとがきこえだした。のみならずそれは)

動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは

(きこえだしたとおもうと、きゅうにこういうどなりごえにかわった。このやろう!だれに)

聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。「この野郎! 誰に

(ことわってとろにさわった?そこにはふるいしるしばんてんに、きせつはずれのむぎわらぼうをかぶった、)

断ってトロに触った?」其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、

(せのたかいどこうがたたずんでいる。そういうすがたがめにはいったとき、りょうへいはとししたの)

背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の

(ふたりといっしょに、もうごろっけんにげだしていた。それぎりりょうへいはつかいのかえりに、)

二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、

(ひとけのないこうじばのとろっこをみても、にどとのってみようとおもったことはない。)

人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。

(ただそのときのどこうのすがたは、いまでもりょうへいのあたまのどこかに、はっきりしたきおくをのこして)

唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残して

(いる。うすあかりのなかにほのめいた、ちいさいきいろのむぎわらぼう、しかしそのきおくさえ)

いる。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえ

(も、としごとにしきさいはうすれるらしい。そののちとおかあまりたってから、りょうへいはまたたった)

も、年毎に色彩は薄れるらしい。その後十日余りたってから、良平は又たった

(ひとり、ひるすぎのこうじばにたたずみながら、とろっこのくるのをながめていた。すると)

一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると

(つちをつんだとろっこのほかに、まくらぎをつんだとろっこがいちりょう、これはほんせんになる)

土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる

(はずの、ふといせんろをのぼってきた。このとろっこをおしているのは、ふたりともわかいおとこ)

筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男

(だった。りょうへいはかれらをみたときから、なんだかしたしみやすいようなきがした。このひと)

だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人

(たちならばしかられないかれはそうおもいながら、とろっこのそばへかけて)

たちならば叱られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側へ駈けて

(いった。おじさん。おしてやろうか?そのなかのひとり、しまのしゃつをきて)

行った。「おじさん。押してやろうか?」その中の一人、――縞のシャツを着て

(いるおとこは、うつむきにとろっこをおしたまま、おもったとおりこころよいへんじをした。)

いる男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。

(おお、おしてくようりょうへいはふたりのあいだにはいると、ちからいっぱいおしはじめた。われ)

「おお、押してくよう」良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。「われ

(はなかなかちからがあるなほかのひとり、みみにまきたばこをはさんだおとこも、こうりょうへいをほめて)

は中中力があるな」他の一人、――耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めて

(くれた。そのうちにせんろのこうばいは、だんだんらくになりはじめた。もうおさなくとも)

くれた。その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも

(いいりょうへいはいまにもいわれるかとないしんきがかりでならなかった。が、わかい)

好い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い

(ふたりのどこうは、まえよりもこしをおこしたぎり、もくもくとくるまをおしつづけていた。りょうへいは)

二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平は

(とうとうこらえきれずに、おずおずこんなことをたずねてみた。いつまでもおして)

とうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんな事を尋ねて見た。「何時までも押して

(いていい?いいともふたりはどうじにへんじをした。りょうへいはやさしいひとたちだ)

いて好い?」「好いとも」二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」

(とおもった。ごろくちょうあまりおしつづけたら、せんろはもういちどきゅうこうばいになった。そこには)

と思った。五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には

(りょうがわのみかんばたけに、きいろいみがいくつもひをうけている。のぼりみちのほうがいい、)

両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。「登り路の方が好い、

(いつまでもおさせてくれるからりょうへいはそんなことをかんがえながら、ぜんしんで)

何時までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身で

(とろっこをおすようにした。みかんばたけのあいだをのぼりつめると、きゅうにせんろはくだりに)

トロッコを押すようにした。蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りに

(なった。しまのしゃつをきているおとこは、りょうへいにやい、のれといった。りょうへいは)

なった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は

(すぐにとびのった。とろっこはさんにんがのりうつるとどうじに、みかんばたけのにおいをあおり)

直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匂を煽り

(ながら、ひたすべりにせんろをはしりだした。おすよりものるほうがずっといい)

ながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」

(りょうへいははおりにかぜをはらませながら、あたりまえのことをかんがえた。いきにおすところが)

――良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が

(おおければ、かえりにまたのるところがおおいそうもまたかんがえたりした。たけやぶのある)

多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。竹藪のある

(ところへくると、とろっこはしずかにはしるのをやめた。さんにんはまたまえのように、おもい)

所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重い

(とろっこをおしはじめた。たけやぶはいつかぞうきばやしになった。つまさきあがりのところどころには、)

トロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、

(あかさびのせんろもみえないほど、おちばのたまっているばしょもあった。)

赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。

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