【タイピング文庫】夏目漱石「変な音2」

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プレイ回数1918難易度(4.2) 4556打 長文 かな
明治で最も有名な文学者のひとり、夏目漱石の短編です。
著者の入院中、隣の部屋から聞こえる「変な音」をめぐって生と死が交錯する物語。

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問題文

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(さんかげつばかりしてじぶんはまたおなじびょういんにはいった。へやはまえのとばんごうがひとつ)

(下)三カ月ばかりして自分はまた同じ病院に入った。室は前のと番号が一つ

(ちがうだけで、つまりそのにしどなりであった。かべひとえへだてたむかしのじゅうきょにはだれがいる)

違うだけで、つまりその西隣であった。壁一重隔てた昔の住居には誰がいる

(のだろうとおもってちゅういしてみると、しゅうじつかたりというおともしない。あいていた)

のだろうと思って注意して見ると、終日かたりと云う音もしない。空いていた

(のである。もうひとつさきがすなわちれいのいようのおとのでたとこであるが、ここには)

のである。もう一つ先がすなわち例の異様の音の出た所であるが、ここには

(いまだれがいるのだかわからなかった。じぶんはそののちうけたからだのへんかの)

今誰がいるのだか分らなかった。自分はその後受けた身体の変化の

(あまりはげしいのと、そのはげしさがあたまにうつって、このあいだからのかこのかげに)

あまり劇しいのと、その劇しさが頭に映って、この間からの過去の影に

(あたえられたどうようが、たえずげんざいにむかってはもんをつたえるのとで、わさびおろしのこと)

与えられた動揺が、絶えず現在に向って波紋を伝えるのとで、山葵おろしの事

(などはとんとおもいだすひまもなかった。それよりはむしろじぶんにちかいうんめいをもった)

などはとんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分に近い運命を持った

(ざいいんのかんじゃのけいかのほうがきにかかった。かんごふにいっとうのびょうにんはなんにんいるのかと)

在院の患者の経過の方が気にかかった。看護婦に一等の病人は何人いるのかと

(きくと、さんにんだけだとこたえた。おもいのかときくとおもそうですという。それから)

聞くと、三人だけだと答えた。重いのかと聞くと重そうですと云う。それから

(いちにちふつかしてじぶんはそのさんにんのびょうじょうをかんごふからたしかめた。ひとりはしょくどうがんであった)

一日二日して自分はその三人の病症を看護婦から確めた。一人は食道癌であった

(ひとりはいがんであった、のこるひとりはいかいようであった。みんなながくはもたないひと)

一人は胃癌であった、残る一人は胃潰瘍であった。みんな長くは持たない人

(ばかりだそうですとかんごふはかれらのうんめいをひとまとめによげんした。じぶんはえんがわに)

ばかりだそうですと看護婦は彼らの運命を一纏に予言した。自分は縁側に

(おいたべごにあのちいさなはなをみくらした。じつはきくをかうはずのところを、)

置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。実は菊を買うはずのところを、

(うえきやがじゅうろっかんだというので、ごかんにまけろとねぎってもそうだんにならなかった)

植木屋が十六貫だと云うので、五貫に負けろと値切っても相談にならなかった

(ので、かえりに、じゃろっかんやるからまけろといってもやっぱりまけなかった、)

ので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと云ってもやっぱり負けなかった、

(ことしはみずできくがたかいのだとせつめいした、べごにあをもってきたひとのはなしをおもいだして)

今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持って来た人の話を思い出して

(にぎやかなとおりのえんにちのやけいをあたまのなかにえがきなどしてみた。やがてしょくどうがんのおとこが)

賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどして見た。やがて食道癌の男が

(たいいんした。いがんのひとはしぬのはあきらめさえすればなんでもないといってうつくしくしんだ)

退院した。胃癌の人は死ぬのは諦めさえすれば何でもないと云って美しく死んだ

(かいようのひとはだんだんわるくなった。よなかにめをさますと、ときどきひがしのはずれで、)

潰瘍の人はだんだん悪くなった。夜半に眼を覚すと、時々東のはずれで、

など

(つきそいのものがこおりをさいくおとがした。そのおとがやむとどうじにびょうにんはしんだ。)

付添のものが氷を摧く音がした。その音がやむと同時に病人は死んだ。

(じぶんはにっきにかきこんだ。さんにんのうちふたりしんでじぶんだけのこったから、)

自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二人死んで自分だけ残ったから、

(しんだひとにたいしてのこっているのがきのどくのようなきがする。あのびょうにんははきけが)

死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。あの病人は嘔気が

(むこうのはしからこっちのはてまでひびくようなこえをだしてしじゅうげえげえはいていたが、)

向うの端からこっちの果まで響くような声を出して始終げえげえ吐いていたが、

(このにさんにちそれがぴたりときこえなくなったので、だいぶおちついてまあけっこうだと)

この二三日それがぴたりと聞えなくなったので、だいぶ落ちついてまあ結構だと

(おもったら、じつはひろうのきょくこえをだすげんきをうしなったのだとしれた。そののちかんじゃは)

思ったら、実は疲労の極声を出す元気を失ったのだと知れた。」その後患者は

(いれかわりたちかわりでたりはいったりした。じぶんのびょうきはひをつむにしたがって)

入れ代り立ち代り出たり入ったりした。自分の病気は日を積むにしたがって

(しだいにかいほうにむかった。しまいにはうわぞうりをはいてひろいろうかをあちこちさんぽ)

しだいに快方に向った。しまいには上草履を穿いて広い廊下をあちこち散歩

(しはじめた。そのときふとしたことから、ぐうぜんあるつきそいのかんごふとくちをきくように)

し始めた。その時ふとした事から、偶然ある附添の看護婦と口を利くように

(なった。あたたかいひのひるすぎしょくごのうんどうがてらすいせんのみずをかえてやろうとおもって)

なった。暖かい日の午過ぎ食後の運動がてら水仙の水を易えてやろうと思って

(せんめんじょへでて、すいどうのせんをねじっていると、そのかんごふがうけもちのへやのちゃきをあらいに)

洗面所へ出て、水道の栓を捩っていると、その看護婦が受持の室の茶器を洗いに

(きて、れいのとおりあいさつをしながら、しばらくじぶんのてにしたしゅでいのはちと、)

来て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分の手にした朱泥の鉢と、

(そのなかにもりあげられたようにふくれてみえるたまねをながめていたが、やがて)

その中に盛り上げられたように膨れて見える珠根を眺めていたが、やがて

(そのめをじぶんのよこがおにうつして、このまえごにゅういんのときよりもうずっとおかおいろがよく)

その眼を自分の横顔に移して、この前御入院の時よりもうずっと御顔色が好く

(なりましたねと、さんかげつまえのじぶんといまのじぶんをひかくしたようなひひょうをした。)

なりましたねと、三カ月前の自分と今の自分を比較したような批評をした。

(このまえって、あのじぶんきみもやはりつきそいでここにきていたのかいええ)

「この前って、あの時分君もやはり附添でここに来ていたのかい」「ええ

(ついおとなりでした。しばらくまるまるさんのところにおりましたがごぞんじはなかったかも)

つい御隣でした。しばらく○○さんの所におりましたが御存じはなかったかも

(しれませんまるまるさんというとれいのへんなおとをさせたかたのひがしどなりである。じぶんは)

知れません」○○さんと云うと例の変な音をさせた方の東隣である。自分は

(かんごふをみて、これがあのときよなかによばれると、はいというやさしいへんじを)

看護婦を見て、これがあの時夜半に呼ばれると、「はい」という優しい返事を

(しておきあがったおんなかとおもうと、すこしおどろかずにはいられなかった。けれども、)

して起き上った女かと思うと、少し驚かずにはいられなかった。けれども、

(そのころじぶんのしんけいをあのくらいしげきしたおとのげんいんについてはべつにきくきも)

その頃自分の神経をあのくらい刺激した音の原因については別に聞く気も

(おこらなかった。で、ああそうかといったなりしゅでいのはちをふいていた。するとおんなが)

起らなかった。で、ああそうかと云ったなり朱泥の鉢を拭いていた。すると女が

(とつぜんすこしあらたまったちょうしでこんなことをいった。あのころあなたのおへやでときどきへんな)

突然少し改まった調子でこんな事を云った。 「あの頃あなたの御室で時々変な

(おとがいたしましたがじぶんはふいにぎゃくしゅうをうけたひとのように、かんごふをみた。)

音が致しましたが……」自分は不意に逆襲を受けた人のように、看護婦を見た。

(かんごふはつづけていった。まいあさろくじごろになるときっとするようにおもいましたが)

看護婦は続けて云った。「毎朝六時頃になるときっとするように思いましたが」

(うん、あれかとじぶんはおもいだしたようについおおきなこえをだした。あれはね)

「うん、あれか」と自分は思い出したようについ大きな声を出した。「あれはね

(おーとすとろっぷのおとだ。まいあさひげをそるんでね、あんぜんかみそりをかわどへかけてとぐのだよ。)

自働革砥の音だ。毎朝髭を剃るんでね、安全髪剃を革砥へかけて磨ぐのだよ。

(いまでもやってる。うそだとおもうならきてごらんかんごふはただへええといった。)

今でもやってる。嘘だと思うなら来て御覧」看護婦はただへええと云った。

(だんだんきいてみると、まるまるさんというかんじゃは、ひどくそのかわどのおとをきにして)

だんだん聞いて見ると、○○さんと云う患者は、ひどくその革砥の音を気にして

(あれはなんのおとだなんのおとだとかんごふにしつもんしたのだそうである。かんごふがどうも)

あれは何の音だ何の音だと看護婦に質問したのだそうである。看護婦がどうも

(わからないとこたえると、となりのひとはだいぶんいいのであさおきるとすぐ、うんどうをする、)

分らないと答えると、隣の人はだいぶん快いので朝起きるとすぐ、運動をする、

(そのきかいのおとなんじゃないかうらやましいなとなんべんもくりかえしたというはなしである。)

その器械の音なんじゃないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云う話である。

(そりゃよいがおまえのほうのおとはなんだいおまえのほうのおとって?)

「そりゃ好いが御前の方の音は何だい」「御前の方の音って?」

(そらよくだいこをおろすようなみょうなおとがしたじゃないかええあれですか。)

「そらよく大根をおろすような妙な音がしたじゃないか」「ええあれですか。

(あれはきゅうりをすったんです。かんじゃさんがあしがほてってしかたがない、きゅうりのしるで)

あれは胡瓜を擦ったんです。患者さんが足が熱って仕方がない、胡瓜の汁で

(ひやしてくれとおっしゃるもんですからわたしがしじゅうすってあげました)

冷してくれとおっしゃるもんですから私が始終擦って上げました」

(じゃやっぱりだいこおろしのおとなんだねええそうかそれでようやく)

「じゃやっぱり大根おろしの音なんだね」「ええ」「そうかそれでようやく

(わかった。いったいまるまるさんのびょうきはなんだいちょくちょうがんです)

分った。――いったい○○さんの病気は何だい」「直腸癌です」

(じゃとてもむずかしいんだねええもうとうに。ここをたいいんなさると)

「じゃとてもむずかしいんだね」「ええもうとうに。ここを退院なさると

(じきでした、おなくなりになったのはじぶんはもくねんとしてわがへやにかえった。)

直でした、御亡くなりになったのは」自分は黙然としてわが室に帰った。

(そうしてきゅうりのおとでほかをじらしてしんだおとこと、かわどのおとをうらやましがらせて)

そうして胡瓜の音で他を焦らして死んだ男と、革砥の音を羨ましがらせて

(よくなったひととのそういをこころのなかでおもいくらべた。)

快くなった人との相違を心の中で思い比べた。

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