【タイピング文庫】横光利一「蠅2」

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プレイ回数753難易度(4.2) 3757打 長文 かな
川端康成と共に新感覚派として活躍した小説家、横光利一の作品です。
ある宿場から出発する1台の馬車とその乗客の様々な事情を、たまたまその馬にとまった蝿の視点から客観的に描写していく物語。

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問題文

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(わかものとむすめはばにわのなかへはいってきた。のうふはまたふたりのそばへちかよった。)

若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。

(ばしゃにのりなさるのかな。ばしゃはでませんぞなでませんか?)

「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな」「出ませんか?」

(とわかものはききかえした。でませんの?とむすめはいった。)

と若者は訊き返した。「出ませんの?」と娘はいった。

(もうにじかんもまっていますのやが、でませんぞな。)

「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。

(まちまでさんじかんかかりますやろ。もういつになっていますかな。)

街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。

(まちへつくとひるになりますやろか。そりゃひるや。)

街へ着くと正午になりますやろか。」「そりゃ正午や。」

(といなかしんしはよこからいった。のうふはくるりとかれのほうをまたむいて、)

と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、

(ひるになりますかいな。それまでにゃしにますやろな。)

「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。

(ひるになりますかいな。というなかにまたなきだした。)

正午になりますかいな。」という中にまた泣き出した。

(が、すぐまんじゅうやのてんとうへかけていった。)

が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。

(まだかのう。ばしゃはまだなかなかでぬじゃろか?)

「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」

(ねこぜのぎょしゃはしょうぎばんをまくらにしてあおむけになったまま、)

猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向になったまま、

(すのこをあらっているまんじゅうやのしゅふのほうへあたまをむけた。)

簀の子を洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。

(まんじゅうはまだむさらんかいのう?)

「饅頭はまだ蒸さらんかいのう?」

(ばしゃはいつになったらでるのであろう。しゅくばにつどったひとびとのあせはかわいた。)

(七)馬車は何時になったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。

(しかし、ばしゃはいつになったらでるのであろう。これはだれもしらない。)

しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。

(だが、もししりえることのできるものがあったとすれば、)

だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、

(それはまんじゅうやのかまどのなかで、ようやくふくれはじめたまんじゅうであった。)

それは饅頭屋の竈の中で、漸く脹れ始めた饅頭であった。

(なぜかといえば、このしゅくばのねこぜのぎょしゃは、まだそのひ、だれもてをつけない)

何ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない

(ふかしたてのまんじゅうにしょてをつけるということが、)

蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、

など

(それほどのけっぺきからながいねんげつのあいだ、どくしんでくらさねばならなかった)

それほどの潔癖から長い年月の間、独身で暮さねばならなかった

(というかれのそのひそのひの、さいこうのなぐさめとなっていたのであったから。)

という彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。

(しゅくばのはしらどけいがじゅうじをうった。まんじゅうやのかまどはゆげをたててなりだした。)

(八)宿場の柱時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて鳴り出した。

(ざく、ざく、ざく。ねこぜのぎょしゃはまぐさをきった。)

ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。

(うまはねこぜのよこで、みずをじゅうぶんのみためた。ざく、ざく、ざく。)

馬は猫背の横で、水を充分飲み溜めた。ザク、ザク、ザク。

(うまはばしゃのしゃたいにむすばれた。のうふはまさきにしゃたいのなかへのりこむと)

(九)馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗り込むと

(まちのほうをみつづけた。のっとくれやあ。とねこぜはいった。)

街の方を見続けた。「乗っとくれやア。」と猫背はいった。

(ごにんのじょうきゃくは、かたむくふみだんにきをつけてのうふのそばへのりはじめた。)

五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。

(ねこぜのぎょしゃは、まんじゅうやのすのこのうえで、)

猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、

(わたのようにふくらんでいるまんじゅうをはらがけのなかへおしこむと)

綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと

(ぎょしゃだいのうえにそのせをまげた。らっぱがなった。むちがなった。)

馭者台の上にその背を曲げた。喇叭が鳴った。鞭が鳴った。

(めのおおきなかのいっぴきのはえはうまのこしのあまじしのにおいのなかからとびたった。)

眼の大きなかの一疋の蠅は馬の腰の余肉の匂いの中から飛び立った。

(そうして、しゃたいのやねのうえにとまりなおると、いまさきに、ようやくくものあみから)

そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、漸く蜘蛛の網から

(そのいのちをとりもどしたからだをやすめて、ばしゃといっしょにゆれていった。)

その生命をとり戻した身体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。

(ばしゃはえんてんのしたをはしりとおした。そうしてなみきをぬけ、ながくつづいた)

馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた

(あずきばたけのよこをとおり、あまばたけとくわばたけのあいだをゆれつつもりのなかへわりこむと、)

小豆畑の横を通り、亜麻畑と桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、

(みどりいろのもりは、ようやくたまったうまのひたいのあせにうつってさかさまにゆらめいた。)

緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。

(ばしゃのなかでは、いなかしんしのじょうぜつが、はやくもひとびとをごねんいらいのちきにした。)

(十)馬車の中では、田舎紳士の饒舌が、早くも人々を五年以来の知己にした。

(しかし、おとこのこはひとりしゃたいのはしらをにぎって、そのいきいきしためで)

しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で

(ののなかをみつづけた。おかかあ、なしなし。ああ、なしなし。)

野の中を見続けた。「お母ア、梨々。」「ああ、梨々。」

(ぎょしゃだいではむちがうごきとまった。のうふはいなかしんしのおびのくさりにめをつけた。)

馭者台では鞭が動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。

(もういくじですかいな。じゅうにじはすぎましたかいな。)

「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。

(まちへつくとひるすぎになりますやろな。)

街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」

(ぎょしゃだいではらっぱがならなくなった。そうしてはらがけのまんじゅうを)

馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして腹掛けの饅頭を

(いまやことごとくいのふのなかへおとしこんでしまったぎょしゃは、)

今や尽く胃の腑の中へ落し込んでしまった馭者は、

(いっそうねこぜをはらせていねむりだした。そのいねむりは、)

一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、

(ばしゃのうえから、かのめのおおきなはえがおしだまったすうだんのなしばたけをながめ、)

馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、

(まなつのたいようのひかりをうけてまっかにはえたあかつちのだんがいをあおぎ、)

真夏の太陽の光りを受けて真赤に栄えた赤土の断崖を仰ぎ、

(とつぜんにあらわれたげきりゅうをみおろして、そうして、ばしゃがたかいがけみちのこうていで)

突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路の高低で

(かたかたときしみだすおとをきいてもまだつづいた。)

かたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。

(しかしじょうきゃくのなかで、そのぎょしゃのいねむりをしっていたものは、)

しかし乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、

(わずかにただはえいっぴきであるらしかった。)

僅かにただ蠅一疋であるらしかった。

(はえはしゃたいのやねのうえからぎょしゃのたれさがったはんぱくのあたまにとびうつり、)

蠅は車体の屋根の上から馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、

(それから、ぬれたうまのせなかにとまってあせをなめた。)

それから、濡れた馬の背中に留って汗を舐めた。

(ばしゃはがけのちょうじょうへさしかかった。うまはぜんぽうにあらわれためかくしのなかのみちにしたがって)

馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿しの中の路に従って

(じゅうじゅんにまがりはじめた。しかし、そのとき、)

柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、

(かれはじぶんのどうと、しゃたいのはばとをかんがえることはできなかった。)

彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。

(ひとつのしゃりんがみちからはずれた。とつぜん、うまはしゃたいにひかれてつきたった。)

一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。

(しゅんかん、はえはとびあがった。と、しゃたいといっしょにがけのしたへついらくしていく)

瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く

(ほうらつなうまのはらがめについた。そうして、じんばのひめいがたかくひとこえはっせられると、)

放埒な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、

(かわらのうえでは、おしかさなったひととうまといたきれとのかたまりが、)

河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、

(ちんもくしたままうごかなかった。が、めのおおきなはえは、)

沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、

(いまやかんぜんにやすまったそのはねにちからをこめて、ただひとり、)

今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、

(ゆうゆうとあおぞらのなかをとんでいった。)

悠々と青空の中を飛んでいった。

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