【タイピング文庫】梶井基次郎「檸檬1」
順位 | 名前 | スコア | 称号 | 打鍵/秒 | 正誤率 | 時間(秒) | 打鍵数 | ミス | 問題 | 日付 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | A.N | 6169 | A++ | 6.4 | 96.3% | 849.5 | 5448 | 207 | 75 | 2024/12/05 |
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問題文
(えたいのしれないふきつなかたまりがわたしのこころをしじゅうおさえつけていた。しょうそうといおうか、)
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、
(けんおといおうかさけをのんだあとにふつかよいがあるように、さけをまいにちのんでいると)
嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると
(ふつかよいにそうとうしたじきがやってくる。それがきたのだ。これはちょっと)
宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっと
(いけなかった。けっかしたはいせんかたるやしんけいすいじゃくがいけないのではない。また)
いけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また
(せをやくようなしゃっきんなどがいけないのではない。いけないのはそのふきつなかたまりだ。)
背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。
(いぜんわたしをよろこばせたどんなうつくしいおんがくも、どんなうつくしいしのいっせつも)
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も
(しんぼうがならなくなった。ちくおんきをきかせてもらいにわざわざでかけていっても、)
辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、
(さいしょのにさんしょうせつでふいにたちあがってしまいたくなる。なにかがわたしを)
最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私を
(いたたまらずさせるのだ。それでしじゅうわたしはまちからまちをふろうしつづけていた。なぜだか)
居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。何故だか
(そのころわたしはみすぼらしくてうつくしいものにつよくひきつけられたのをおぼえている。)
その頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。
(ふうけいにしてもこわれかかったまちだとか、そのまちにしてもよそよそしいおもてどおりよりも)
風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりも
(どこかしたしみのある、きたないせんたくものがほしてあったりがらくたがころがしてあったり)
どこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったり
(むさくるしいへやがのぞいていたりするうらどおりがすきであった。あめやかぜがむしばんで)
むさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んで
(やがてつちにかえってしまう、といったようなおもむきのあるまちで、どべいがくずれていたり)
やがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり
(いえなみがかたむきかかっていたりいきおいのいいのはしょくぶつだけで、ときとすると)
家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とすると
(びっくりさせるようなひまわりがあったりかんながさいていたりする。)
びっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
(ときどきわたしはそんなみちをあるきながら、ふと、そこがきょうとではなくてきょうとから)
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から
(なんびゃくりもはなれたせんだいとかながさきとかそのようなしへいまじぶんがきているのだ)
何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ
(というさっかくをおこそうとつとめる。わたしは、できることならきょうとからにげだして)
――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して
(だれひとりしらないようなしへいってしまいたかった。だいいちにあんせい。がらんとした)
誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした
(りょかんのいっしつ。せいじょうなふとん。においのいいかやとのりのよくきいたゆかた。そこで)
旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで
(ひとつきほどなにもおもわずよこになりたい。ねがわくはここがいつのまにかそのしに)
一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市に
(なっているのだったら。さっかくがようやくせいこうしはじめるとわたしはそれから)
なっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれから
(それへそうぞうのえのぐをぬりつけてゆく。なんのことはない、わたしのさっかくと)
それへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と
(こわれかかったまちとのにじゅううつしである。そしてわたしはそのなかにげんじつのわたくしじしんを)
壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を
(みうしなうのをたのしんだ。わたしはまたあのはなびというやつがすきになった。)
見失うのを楽しんだ。私はまたあの花火というやつが好きになった。
(はなびそのものはだいにだんとして、あのやすっぽいえのぐであかやむらさきやきやあおや、)
花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、
(さまざまのしまもようをもったはなびのたば、なかやまでらのほしくだり、はながっせん、かれすすき。)
さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。
(それからねずみはなびというのはひとつずつわになっていてはこにつめてある。)
それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。
(そんなものがへんにわたしのこころをそそった。それからまた、びいどろといういろがらすで)
そんなものが変に私の心を唆った。それからまた、びいどろという色硝子で
(たいやはなをうちだしてあるおはじきがすきになったし、なんきんだまがすきになった。)
鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。
(またそれをなめてみるのがわたしにとってなんともいえないきょうらくだったのだ。)
またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。
(あのびいどろのあじほどかすかなすずしいあじがあるものか。わたしはおさないときよく)
あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。私は幼い時よく
(それをくちにいれてはふぼにしかられたものだが、そのようじのあまいきおくが)
それを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が
(おおきくなっておちぶれたわたしによみがえってくるゆえだろうか、まったくあのあじには)
大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくる故だろうか、まったくあの味には
(かすかなさわやかななんとなくしびといったようなみかくがただよってくる。)
幽かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
(さっしはつくだろうがわたしにはまるでかねがなかった。とはいえそんなものをみて)
察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは言えそんなものを見て
(すこしでもこころのうごきかけたときのわたくしじしんをなぐさめるためにはぜいたくということが)
少しでも心の動きかけた時の私自身を慰めるためには贅沢ということが
(ひつようであった。にせんやさんせんのものといってぜいたくなもの。)
必要であった。二銭や三銭のもの――と言って贅沢なもの。
(うつくしいものといってむきりょくなわたしのしょっかくにむしろこびてくるもの。)
美しいもの――と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。
(そういったものがしぜんわたしをなぐさめるのだ。せいかつがまだむしばまれていなかった)
――そう言ったものが自然私を慰めるのだ。生活がまだ蝕まれていなかった
(いぜんわたしのすきであったところは、たとえばまるぜんであった。あかやきのおーどころんや)
以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンや
(おーどきにん。しゃれたきりこざいくやてんがなろここしゅみのうきもようをもったこはくいろや)
オードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や
(ひすいいろのこうすいびん。きせる、こがたな、せっけん、たばこ。わたしはそんなものをみるのに)
翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに
(こいちじかんもついやすことがあった。そしてけっきょくいっとういいえんぴつをいっぽんかうくらいの)
小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの
(ぜいたくをするのだった。しかしここももうそのころのわたしにとってはおもくるしい)
贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい
(ばしょにすぎなかった。しょせき、がくせい、かんじょうだい、これらはみなしゃっきんとりの)
場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの
(ぼうれいのようにわたしにはみえるのだった。あるあさそのころわたしはこうのともだちから)
亡霊のように私には見えるのだった。ある朝――その頃私は甲の友達から
(おつのともだちへというふうにともだちのげしゅくをてんてんとしてくらしていたのだが)
乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが
(ともだちががっこうへでてしまったあとのくうきょなくうきのなかにぽつねんとひとり)
――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人
(とりのこされた。わたしはまたそこからさまよいでなければならなかった。なにかがわたしを)
取り残された。私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を
(おいたてる。そしてまちからまちへ、さきにいったようなうらどおりをあるいたり、)
追いたてる。そして街から街へ、先に言ったような裏通りを歩いたり、
(だがしやのまえでたちどまったり、かんぶつやのほしえびやぼうだらやゆばをながめたり、)
駄菓子屋の前で立ち留まったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、
(とうとうわたしはにじょうのほうへてらまちをくだり、そこのくだものやであしをとめた。ここで)
とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。ここで
(ちょっとそのくだものやをしょうかいしたいのだが、そのくだものやはわたしのしっていたはんいで)
ちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で
(もっともすきなみせであった。そこはけっしてりっぱなみせではなかったのだが、)
最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、
(くだものやこゆうのうつくしさがもっともろこつにかんぜられた。くだものはかなりこうばいのきゅうなだいのうえに)
果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に
(ならべてあって、そのだいというのもふるびたくろいうるしぬりのいただったようにおもえる。)
並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。
(なにかはなやかなうつくしいおんがくのあれっぐろのながれが、みるひとをいしにばかしたという)
何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したという
(ごるごんのきめんてきなものをさしつけられて、あんなしきさいやあんな)
ゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんな
(ヴぉりうむにこりかたまったというふうにくだものはならんでいる。あおものもやはり)
ヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。青物もやはり
(おくへゆけばゆくほどうずたかたかくつまれている。じっさいあそこのにんじんばのうつくしさ)
奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。――実際あそこの人参葉の美しさ
(などはすばらしかった。それからみずにつけてあるまめだとかくわいだとか。)
などは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。
(またそこのいえのうつくしいのはよるだった。てらまちどおりはいったいににぎやかなとおりで)
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑かな通りで
(といってかんじはとうきょうやおおさかよりはずっとすんでいるがかざりまどのひかりが)
――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光が
(おびただしくがいろへながれでている。それがどうしたわけかそのてんとうのしゅういだけが)
おびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが
(みょうにくらいのだ。もともとかたほうはくらいにじょうどおりにせっしているまちかどになっているので、)
妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、
(くらいのはとうぜんであったが、そのりんかがてらまちどおりにあるいえにもかかわらずくらかった)
暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かった
(のがはっきりしない。しかしそのいえがくらくなかったら、あんなにもわたしをゆうわくするには)
のが瞭然しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには
(いたらなかったとおもう。もうひとつはそのいえのうちだしたひさしなのだが、そのひさしが)
至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が
(まぶかにかぶったぼうしのひさしのようにこれはけいようというよりも、おや、)
眼深に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、
(あそこのみせはぼうしのひさしをやけにさげているぞとおもわせるほどなので、)
あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、
(ひさしのうえはこれもまっくらなのだ。そうしゅういがまっくらなため、てんとうにつけられたいくつもの)
廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの
(でんとうがしゅううのようにあびせかけるけんらんは、しゅういのなにものにもうばわれることなく、)
電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、
(ほしいままにもうつくしいながめがてらしだされているのだ。)
ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。