【タイピング文庫】梶井基次郎「檸檬2」

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プレイ回数2121難易度(4.2) 5308打 長文 かな
大正の作家、梶井基次郎の代表的な短編作品です。
高校時代の作者が置かれていた鬱屈した心の状態を背景におき、そこへ一個のレモンと出会ったときの感覚のよろこびを再現している。

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問題文

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(はだかのでんとうがほそながいらせんぼうをきりきりめのなかへさしこんでくるおうらいにたって、)

裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、

(またきんじょにあるかぎやのにかいのがらすまどをすかしてながめたこのくだものてんのながめほど、)

また近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、

(そのときどきのわたしをおもしろがらせたものはてらまちのなかでもまれだった。そのひわたしは)

その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。その日私は

(いつになくそのみせでかいものをした。というのはそのみせにはめずらしいれもんが)

いつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が

(でていたのだ。れもんなどごくありふれている。がそのみせというのも)

出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも

(みすぼらしくはないまでもただあたりまえのやおやにすぎなかったので、)

見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、

(それまであまりみかけたことはなかった。いったいわたしはあのれもんがすきだ。)

それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。

(れもんえろうのえのぐをちゅーぶからしぼりだしてかためたようなあのたんじゅんないろも、)

レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、

(それからあのたけのつまったぼうすいけいのかっこうも。けっきょくわたしはそれをひとつだけ)

それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ

(かうことにした。それからのわたしはどこへどうあるいたのだろう。わたしはながいあいだ)

買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間

(まちをあるいていた。しじゅうわたしのこころをおさえつけていたふきつなかたまりがそれをにぎった)

街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った

(しゅんかんからいくらかたゆんできたとみえて、わたしはまちのうえでひじょうにこうふくであった。)

瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。

(あんなにしつこかったゆううつが、そんなもののいっかでまぎらされるあるいは)

あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは

(ふしんなことが、ぎゃくせつてきなほんとうであった。それにしてもこころというやつは)

不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつは

(なんというふかしぎなやつだろう。そのれもんのつめたさはたとえようもなく)

なんという不可思議なやつだろう。その檸檬の冷たさはたとえようもなく

(よかった。そのころわたしははいせんをわるくしていていつもからだにねつがでた。)

よかった。その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。

(じじつともだちのだれかれにわたしのねつをみせびらかすためにてのにぎりあいなどを)

事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどを

(してみるのだが、わたしのてのひらがだれのよりもあつかった。そのあついゆえだったのだろう、)

してみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故だったのだろう、

(にぎっているてのひらからみうちにしみとおってゆくようなそのつめたさはこころよいものだった。)

握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

(わたしはなんどもなんどもそのかじつをはなにもっていってはかいでみた。)

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。

など

(それのさんちだというかりふぉるにやがそうぞうにのぼってくる。)

それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。

(かんぶんでならったうりかんもののげんのなかにかいてあったはなをうつということばが)

漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が

(きれぎれにうかんでくる。そしてふかぶかとむねいっぱいににおやかなくうきを)

断れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を

(すいこめば、ついぞむねいっぱいにこきゅうしたことのなかったわたしのからだやかおにはあたたかい)

吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い

(ちのほとぼりがのぼってきてなんだかみうちにげんきがめざめてきたのだった。)

血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。

(じっさいあんなたんじゅんなれいかくやしょっかくやきゅうかくやしかくが、ずっとむかしからこればかり)

……実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり

(さがしていたのだといいたくなったほどわたしにしっくりしたなんてわたしはふしぎに)

探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に

(おもえるそれがあのころのことなんだから。わたしはもうおうらいをかろやかなこうふんに)

思える――それがあの頃のことなんだから。私はもう往来を軽やかな昂奮に

(はずんで、いっしゅほこらかなきもちさえかんじながら、びてきしょうぞくをしてまちをかっぽした)

弾んで、一種誇らかな気持さえ感じながら、美的装束をして街を闊歩した

(しじんのことなどおもいうかべてはあるいていた。よごれたてぬぐいのうえへのせてみたり)

詩人のことなど思い浮かべては歩いていた。汚れた手拭の上へ載せてみたり

(まんとのうえへあてがってみたりしていろのはんえいをはかったり、またこんなことを)

マントの上へあてがってみたりして色の反映を量ったり、またこんなことを

(おもったり、つまりはこのおもさなんだな。そのおもさこそつねづね)

思ったり、――つまりはこの重さなんだな。――その重さこそ常づね

(たずねあぐんでいたもので、うたがいもなくこのおもさはすべてのいいものすべての)

尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての

(うつくしいものをじゅうりょうにかんさんしてきたおもさであるとか、おもいあがったかいぎゃくしんから)

美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心から

(そんなばかげたことをかんがえてみたりなにがさてわたしはこうふくだったのだ。)

そんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。

(どこをどうあるいたのだろう、わたしがさいごにたったのはまるぜんのまえだった。)

どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。

(へいじょうあんなにさけていたまるぜんがそのときのわたしにはやすやすとはいれるようにおもえた。)

平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。

(きょうはひとつはいってみてやろうそしてわたしはずかずかはいっていった。)

「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。

(しかしどうしたことだろう、わたしのこころをみたしていたこうふくなかんじょうはだんだん)

しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん

(にげていった。こうすいのびんにもきせるにもわたしのこころはのしかかってはゆかなかった。)

逃げていった。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。

(ゆううつがたてこめてくる、わたしはあるきまわったひろうがでてきたのだとおもった。)

憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。

(わたしはがほんのたなのまえへいってみた。がしゅうのおもたいのをとりだすのさえつねにまして)

私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して

(ちからがいるな!とおもった。しかしわたしはいっさつずつぬきだしてはみる、)

力が要るな!と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、

(そしてあけてはみるのだが、こくめいにはぐってゆくきもちはさらにわいてこない。)

そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。

(しかものろわれたことにはまたつぎのいっさつをひきだしてくる。それもおなじことだ。)

しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。

(それでいていちどばらばらとやってみなくてはきがすまないのだ。)

それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。

(それいじょうはたまらなくなってそこへおいてしまう。いぜんのいちへもどすことさえ)

それ以上は堪らなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえ

(できない。わたしはいくどもそれをくりかえした。とうとうおしまいには)

できない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには

(ひごろからだいすきだったあんぐるのだいだいいろのおもいほんまでなおいっそうの)

日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの

(たえがたさのためにおいてしまった。なんというのろわれたことだ。)

堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。

(てのきんにくにひろうがのこっている。わたしはゆううつになってしまって、じぶんがぬいたまま)

手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま

(つみかさねたほんのぐんをながめていた。いぜんにはあんなにわたしをひきつけたがほんが)

積み重ねた本の群を眺めていた。以前にはあんなに私をひきつけた画本が

(どうしたことだろう。いちまいいちまいにめをさらしおわってあと、さてあまりにじんじょうな)

どうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な

(しゅういをみまわすときのあのへんにそぐわないきもちを、わたしはいぜんにはこのんであじわって)

周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わって

(いたものであった。あ、そうだそうだそのときわたしはたもとのなかのれもんを)

いたものであった。……「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を

(おもいだした。ほんのしきさいをごちゃごちゃにつみあげて、いちどこのれもんで)

憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で

(ためしてみたら。そうだわたしにまたさきほどのかろやかなこうふんがかえってきた。)

試してみたら。「そうだ」私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。

(わたしはてあたりしだいにつみあげ、またあわただしくつぶし、またあわただしくきずきあげた。)

私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。

(あたらしくひきぬいてつけくわえたり、とりさったりした。きかいなげんそうてきなしろが、)

新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、

(そのたびにあかくなったりあおくなったりした。やっとそれはできあがった。)

そのたびに赤くなったり青くなったりした。やっとそれはでき上がった。

(そしてかるくおどりあがるこころをせいしながら、そのじょうへきのいただきにおそるおそるれもんを)

そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を

(すえつけた。そしてそれはじょうできだった。みわたすと、そのれもんのしきさいは)

据えつけた。そしてそれは上出来だった。見わたすと、その檸檬の色彩は

(がちゃがちゃしたいろのかいちょうをひっそりとぼうすいけいのからだのなかへきゅうしゅうしてしまって、)

ガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、

(かーんとさえかえっていた。わたしはほこりっぽいまるぜんのなかのくうきが、そのれもんの)

カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の

(しゅういだけへんにきんちょうしているようなきがした。わたしはしばらくそれをながめていた。)

周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

(ふいにだいにのあいでぃあがおこった。そのきみょうなたくらみはむしろわたしを)

不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私を

(ぎょっとさせた。それをそのままにしておいてわたしは、なにくわぬかおをして)

ぎょっとさせた。――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして

(そとへでる。わたしはへんにくすぐったいきもちがした。でてゆこうかなあ。)

外へ出る。――私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。

(そうだでてゆこうそしてわたしはすたすたでていった。へんにくすぐったいきもちが)

そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。変にくすぐったい気持が

(まちのうえのわたしをほほえませた。まるぜんのたなへこがねいろにかがやくおそろしいばくだんをしかけてきた)

街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た

(きかいなあっかんがわたしで、もうじゅっぷんごにはあのまるぜんがびじゅつのたなをちゅうしんとしてだいばくはつを)

奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発を

(するのだったらどんなにおもしろいだろう。わたしはこのそうぞうをねっしんについきゅうした。)

するのだったらどんなにおもしろいだろう。私はこの想像を熱心に追求した。

(そうしたらあのきづまりなまるぜんもこっぱみじんだろうそしてわたしは)

「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」そして私は

(かつどうしゃしんのかんばんえがきたいなおもむきでまちをいろどっているきょうごくをくだっていった。)

活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。

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