【タイピング文庫】芥川龍之介「猿蟹合戦」
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問題文
(かにのにぎりめしをうばったさるはとうとうかににかたきをとられた。かにはうす、はち、たまごとともに、)
蟹の握り飯を奪った猿はとうとう蟹に仇を取られた。蟹は臼、蜂、卵と共に、
(おんてきのさるをころしたのである。そのはなしはいまさらしないでもよい。)
怨敵の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも好い。
(たださるをしとめたのち、かにをはじめどうしのものはどういううんめいにほうちゃくしたか、)
ただ猿を仕止めた後、蟹を始め同志のものはどう云う運命に逢着したか、
(それをはなすことはひつようである。なぜといえばおとぎばなしはぜんぜんこのことは)
それを話すことは必要である。なぜと云えばお伽噺は全然このことは
(はなしていない。いや、はなしていないどころか、あたかもかにはあなのなかに、)
話していない。いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、
(うすはだいどころのどまのすみに、はちはのきさきのはちのすに、たまごはもみがらのはこのなかに、)
臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、
(たいへいぶじなしょうがいでもおくったかのようによそおっている。しかしそれは)
太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。しかしそれは
(いつわりである。かれらはかたきをとったのち、けいかんのほばくするところとなり、)
偽である。彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、
(ことごとくかんごくにとうぜられた。しかもさいばんをかさねたけっか、)
ことごとく監獄に投ぜられた。しかも裁判を重ねた結果、
(しゅはんかにはしけいになり、うす、はち、たまごなどのきょうはんはむきとけいのせんこくを)
主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を
(うけたのである。おとぎばなしのみしかしらないどくしゃはこういうかれらのうんめいに、)
受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、
(けげんのねんをもつかもしれない。が、これはじじつである。すんごうもうたがいのない)
怪訝の念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない
(じじつである。かにはかにじしんのげんによれば、にぎりめしとかきとこうかんした。)
事実である。蟹は蟹自身の言によれば、握り飯と柿と交換した。
(が、さるはじゅくしをあたえず、あおがきばかりあたえたのみか、かににしょうがいをくわえるように、)
が、猿は熟柿を与えず、青柿ばかり与えたのみか、蟹に傷害を加えるように、
(さんざんそのかきをなげつけたという。しかしかにはさるとのあいだに、)
さんざんその柿を投げつけたと云う。しかし蟹は猿との間に、
(いっつうのしょうしょもとりかわしていない。よしまたそれはふもんにふしても、)
一通の証書も取り換わしていない。よしまたそれは不問に附しても、
(にぎりめしとかきとこうかんしたといい、じゅくしとはとくにことわっていない。)
握り飯と柿と交換したと云い、熟柿とは特に断っていない。
(さいごにあおがきをなげつけられたというのも、さるにあくいがあったかどうか、)
最後に青柿を投げつけられたと云うのも、猿に悪意があったかどうか、
(そのへんのしょうこはふじゅうぶんである。だからかにのべんごにたった、ゆうべんのなのたかい)
その辺の証拠は不十分である。だから蟹の弁護に立った、雄弁の名の高い
(ぼうべんごしも、さいばんかんのどうじょうをこうよりほかに、さくのいづるところを)
某弁護士も、裁判官の同情を乞うよりほかに、策の出づるところを
(しらなかったらしい。そのべんごしはきのどくそうに、かにのあわをぬぐってやりながら、)
知らなかったらしい。その弁護士は気の毒そうに、蟹の泡を拭ってやりながら、
(あきらめたまえといったそうである。もっともこのあきらめたまえは、)
「あきらめ給え」と云ったそうである。もっともこの「あきらめ給え」は、
(しけいのせんこくをくだされたことをあきらめたまえといったのだか、)
死刑の宣告を下されたことをあきらめ給えと云ったのだか、
(べんごしにたいきんをとられたことをあきらめたまえといったのだか、)
弁護士に大金をとられたことをあきらめ給えと云ったのだか、
(それはだれにもけっていできない。そのうえしんぶんざっしのよろんも、)
それは誰にも決定出来ない。その上新聞雑誌の輿論も、
(かににどうじょうをよせたものはほとんどひとつもなかったようである。)
蟹に同情を寄せたものはほとんど一つもなかったようである。
(かにのさるをころしたのはしふんのけっかにほかならない。しかもそのしふんたるや、)
蟹の猿を殺したのは私憤の結果にほかならない。しかもその私憤たるや、
(おのれのむちとけいそつとからさるにりえきをしめられたのをいまいましがっただけではないか?)
己の無知と軽卒とから猿に利益を占められたのを忌々しがっただけではないか?
(ゆうしょうれっぱいのよのなかにこういうしふんをもらすとすれば、ぐしゃにあらずんば)
優勝劣敗の世の中にこう云う私憤を洩らすとすれば、愚者にあらずんば
(きょうしゃである。というひなんがおおかったらしい。げんにしょうぎょうかいぎしょかいとうぼうだんしゃくの)
狂者である。――と云う非難が多かったらしい。現に商業会議所会頭某男爵の
(ごときはだいたいかみのようないけんとともに、かにのさるをころしたのもたしょうは)
ごときは大体上のような意見と共に、蟹の猿を殺したのも多少は
(りゅうこうのきけんしそうにかぶれたのであろうとろんだんした。そのせいかかにのかたきうちいらい、)
流行の危険思想にかぶれたのであろうと論断した。そのせいか蟹の仇打ち以来、
(ぼうだんしゃくはそうしのほかにも、ぶるどっぐをじゅっとうかったそうである。)
某男爵は壮士のほかにも、ブルドッグを十頭飼ったそうである。
(かつまたかにのかたきうちはいわゆるしきしゃのあいだにも、いっこうこうひょうをはくさなかった。)
かつまた蟹の仇打ちはいわゆる識者の間にも、一向好評を博さなかった。
(だいがくきょうじゅぼうはかせはりんりがくじょうのけんちから、かにのさるをころしたのはふくしゅうのいしに)
大学教授某博士は倫理学上の見地から、蟹の猿を殺したのは復讐の意志に
(いでたものである、ふくしゅうはぜんとしょうしがたいといった。それからしゃかいしゅぎのぼうしゅりょうは)
出でたものである、復讐は善と称し難いと云った。それから社会主義の某首領は
(かにはかきとかにぎりめしとかいうしゆうざいさんをありがたがっていたから、)
蟹は柿とか握り飯とか云う私有財産を難有がっていたから、
(うすやはちやたまごなどもはんどうてきしそうをもっていたのであろう、ことによると)
臼や蜂や卵なども反動的思想を持っていたのであろう、事によると
(しりおしをしたのはこくすいかいかもしれないといった。それからぼうしゅうのかんちょうぼうしは)
尻押をしたのは国粋会かも知れないと云った。それから某宗の管長某師は
(かにはぶつじひをしらなかったらしい、たといあおがきをなげつけられたとしても、)
蟹は仏慈悲を知らなかったらしい、たとい青柿を投げつけられたとしても、
(ぶつじひをしっていさえすれば、さるのしょぎょうをにくむかわりに、かえってそれを)
仏慈悲を知っていさえすれば、猿の所業を憎む代りに、反ってそれを
(あわれんだであろう。ああ、おもえばいちどでもいいから、わたしのせっきょうを)
憐んだであろう。ああ、思えば一度でも好いから、わたしの説教を
(きかせたかったといった。それからまたかくほうめんにいろいろひひょうする)
聴かせたかったと云った。それから――また各方面にいろいろ批評する
(めいしはあったが、いずれもかにのかたきうちにはふさんせいのこえばかりだった。)
名士はあったが、いずれも蟹の仇打ちには不賛成の声ばかりだった。
(そういうなかにたったひとり、かにのためにきをはいたのはしゅごうけんしじんの)
そう云う中にたった一人、蟹のために気を吐いたのは酒豪兼詩人の
(ぼうだいぎしである。だいぎしはかにのかたきうちはぶしどうのせいしんといっちするといった。)
某代議士である。代議士は蟹の仇打ちは武士道の精神と一致すると云った。
(しかしこんなじだいおくれのぎろんはだれのみみにもとまるはずはない。)
しかしこんな時代遅れの議論は誰の耳にも止まるはずはない。
(のみならずしんぶんのごしっぷによると、そのだいぎしはすうねんいぜん、どうぶつえんをけんぶつちゅう、)
のみならず新聞のゴシップによると、その代議士は数年以前、動物園を見物中、
(さるにいばりをかけられたことをいこんにおもっていたそうである。)
猿に尿をかけられたことを遺恨に思っていたそうである。
(おとぎばなししかしらないどくしゃは、かなしいかにのうんめいにどうじょうのなみだをおとすかもしれない。)
お伽噺しか知らない読者は、悲しい蟹の運命に同情の涙を落すかも知れない。
(しかしかにのしはとうぜんである。それをきのどくにおもいなどするのは、)
しかし蟹の死は当然である。それを気の毒に思いなどするのは、
(ふじょどうようのせんてぃめんたりずむにすぎない。てんかはかにのしをぜなりとした。)
婦女童幼のセンティメンタリズムに過ぎない。天下は蟹の死を是なりとした。
(げんにしけいのおこなわれたよる、はんじ、けんじ、べんごし、かんしゅ、しけいしっこうにん、きょうかいしなどは)
現に死刑の行われた夜、判事、検事、弁護士、看守、死刑執行人、教誨師等は
(よんじゅうはちじかんじゅくすいしたそうである。そのうえみんなゆめのなかに、てんごくのもんを)
四十八時間熟睡したそうである。その上皆夢の中に、天国の門を
(みたそうである。てんごくはかれらのはなしによると、ほうけんじだいのしろににた)
見たそうである。天国は彼等の話によると、封建時代の城に似た
(でぱあとめんとすとあらしい。ついでにかにのしんだのち、)
デパアトメント・ストアらしい。ついでに蟹の死んだ後、
(かにのかていはどうしたか、それもすこしかいておきたい。かにのつまはばいしょうふになった。)
蟹の家庭はどうしたか、それも少し書いて置きたい。蟹の妻は売笑婦になった。
(なったどうきはひんこんのためか、かのじょじしんのせいじょうのためか、)
なった動機は貧困のためか、彼女自身の性情のためか、
(どちらかいまだにはんぜんしない。かにのちょうなんはちちのぼつご、しんぶんざっしのようごをつかうと、)
どちらか未に判然しない。蟹の長男は父の没後、新聞雑誌の用語を使うと、
(ほんぜんとこころをあらためた。いまはなんでもあるかぶやのばんとうかなにかしているという。)
「飜然と心を改めた。」今は何でもある株屋の番頭か何かしていると云う。
(このかにはあるときじぶんのあなへ、どうるいのにくをくうために、けがをしたなかまを)
この蟹はある時自分の穴へ、同類の肉を食うために、怪我をした仲間を
(ひきずりこんだ。くろぽときんがそうごふじょろんのなかに、かにもどうるいをいたわる)
引きずりこんだ。クロポトキンが相互扶助論の中に、蟹も同類を劬る
(というじつれいをひいたのはこのかにである。じなんのかにはしょうせつかになった。)
と云う実例を引いたのはこの蟹である。次男の蟹は小説家になった。
(もちろんしょうせつかのことだから、おんなにほれるほかはなにもしない。)
勿論小説家のことだから、女に惚れるほかは何もしない。
(ただちちかにのいっしょうをれいに、ぜんはあくのいみょうであるなどと、いいかげんなひにくを)
ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を
(ならべている。さんなんのかにはぐぶつだったから、かによりほかのものになれなかった。)
並べている。三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。
(それがよこばいにあるいていると、にぎりめしがひとつおちていた。)
それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。
(にぎりめしはかれのこうぶつだった。かれはおおきいはさみのさきにこのえものをひろいあげた。)
握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。
(するとたかいかきのきのこずえにしらみをとっていたさるがいっぴき、)
すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、
(そのさきははなすひつようはあるまい。とにかくさるとたたかったがさいご、)
――その先は話す必要はあるまい。とにかく猿と戦ったが最後、
(かにはかならずてんかのためにころされることだけはじじつである。)
蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。
(ごをてんかのどくしゃによす。きみたちもたいていかになんですよ。)
語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。