中島敦 名人伝 2/4

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(めのきそくんれんにごねんもかけたかいがあってきしょうのうでまえのじょうたつは、おどろくほどはやい。)

目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。

(おうぎでんじゅがはじまってからとおかののち、)

奥儀伝授が始まってから十日の後、

(こころみにきしょうがひゃっぽをへだててりゅうようをいるに、すでにひゃっぱつひゃくちゅうである。)

試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。

(はつかののち、いっぱいにみずをたたえたさかずきをみぎひじのうえにのせてごうきゅうをひくに、)

二十日の後、いっぱいに水を湛えた盃を右肱の上に載せて剛弓を引くに、

(ねらいにくるいのないのはもとより、はいちゅうのみずもびどうだにしない。)

狙いに狂いの無いのはもとより、杯中の水も微動だにしない。

(ひとつきののち、ひゃっぽんのやをもってそくしゃをこころみたところ、)

一月の後、百本の矢をもって速射を試みたところ、

(だいいっしがまとにあたれば、)

第一矢が的に中れば、

(つづいてとびきたっただいにしはあやまたずだいいっしのやはずにあたってつきささり、)

続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括に中って突き刺さり、

(さらにかんぱつをいれずだいさんしのやじりがだいにしのやはずにがっしとくいこむ。)

更に間髪を入れず第三矢の鏃が第二矢の括にガッシと喰い込む。

(ししあいしょくし、はつはつあいおよんで、)

矢矢相属し、発発相及んで、

(こうはつのやじりはかならずぜんしのやはずにくいいるがゆえに、たえてちにおちることがない。)

後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。

(またたくうちに、ひゃっぽんのやはいっぽんのごとくにあいつらなり、)

瞬く中に、百本の矢は一本のごとくに相連なり、

(まとからいっちょくせんにつづいたそのさいごのやはずはなおげんをふくむがごとくにみえる。)

的から一直線に続いたその最後の括はなお弦を銜むがごとくに見える。

(わきでみていたしのひえいもおもわず「よし!」といった。)

傍で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。

(ふたつきののち、たまたまいえにかえってつまといさかいをしたきしょうが)

二月の後、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌が

(これをおどそうとてうごうのゆみにきえいのやをつがえきりりとひきしぼってつまのめをいた。)

これを威そうとて烏号の弓に衛の矢をつがえきりりと引絞って妻の目を射た。

(やはつまのまつげさんぼんをいきってかなたへとびさったが、)

矢は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、

(いられたほんにんはいっこうにきづかず、まばたきもしないでていしゅをののしりつづけた。)

射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主を罵り続けた。

(けだし、かれのしげいによるやのそくどとねらいのせいみょうさとは、)

けだし、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、

(じつにこのいきにまでたっしていたのである。)

実にこの域にまで達していたのである。

など

(もはやしからまなびとるべきなにものもなくなったきしょうは、)

もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、

(あるひ、ふとよからぬかんがえをおこした。)

ある日、ふと良からぬ考えを起した。

(かれがそのときひとりつくづくとかんがえるには、)

彼がその時独りつくづくと考えるには、

(いまやゆみをもっておのれにてきすべきものは、しのひえいをおいてほかにない。)

今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外に無い。

(てんかだいいちのめいじんとなるためには、どうあってもひえいをのぞかねばならぬと。)

天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。

(ひそかにそのきかいをうかがっているうちに、いちにちたまたまこうやにおいて、)

秘かにその機会を窺っている中に、一日たまたま郊野において、

(むこうからただひとりあゆみきたるひえいにであった。)

向うからただ一人歩み来る飛衛に出遇った。

(とっさにいをけっしたきしょうがやをとってねらいをつければ、)

とっさに意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、

(そのけはいをさっしてひえいもまたゆみをとってあいおうずる。)

その気配を察して飛衛もまた弓を執って相応ずる。

(ふたりたがいにいれば、やはそのたびにちゅうどうにしてあいあたり、ともにちにおちた。)

二人互いに射れば、矢はその度に中道にして相当り、共に地に墜ちた。

(ちにおちたやがけいじんをもあげなかったのは、)

地に落ちた矢が軽塵をも揚げなかったのは、

(りょうじんのわざがいずれもしんにいっていたからであろう。)

両人の技がいずれも神に入っていたからであろう。

(さて、ひえいのやがつきたとき、きしょうのほうはなおいっしをあましていた。)

さて、飛衛の矢が尽きた時、紀昌の方はなお一矢を余していた。

(えたりといきおいこんでそのやをはなてば、)

得たりと勢込んで紀昌がその矢を放てば、

(ひえいはとっさに、ぼうなるのいばらのえだをおりとり、)

飛衛はとっさに、傍なる野茨の枝を折り取り、

(そのとげのせんたんをもってはっしとやじりをたたきおとした。)

その棘の先端をもってハッシと鏃を叩き落した。

(ついにひぼうのとげられないことをさとったきしょうのこころに、)

ついに非望の遂げられないことを悟った紀昌の心に、

(せいこうしたならばけっしてしょうじなかったにちがいないどうぎてきざんきのねんが、)

成功したならば決して生じなかったに違いない道義的慚愧の念が、

(このときこつえんとしてわきおこった。)

この時忽焉として湧起った。

(ひえんのほうでは、また、ききをだっしえたあんどとおのがぎりょうについてのまんぞくとが、)

飛衛の方では、また、危機を脱し得た安堵と己が伎倆についての満足とが、

(てきにたいするにくしみをすっかりわすれさせた。)

敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。

(ふたりはたがいにかけよると、のはらのまんなかにあいいだいて、)

二人は互いに駈寄ると、野原の真中に相抱いて、

(しばしうつくしいしていあいのなみだにかきくれた。)

しばし美しい師弟愛の涙にかきくれた。

((こうしたことをこんにちのどうぎかんをもってみるのはあたらない。)

(こうした事を今日の道義観をもって見るのは当らない。

(びしょくかのせいのかんこうがおのれのいまだあじわったことのないちんみをもとめたとき、)

美食家の斉の桓公が己のいまだ味わったことのない珍味を求めた時、

(ちゅうさいのえきがはおのがむすこをむしやきにしてこれをすすめた。)

厨宰の易牙は己が息子を蒸焼にしてこれをすすめた。

(じゅうろくさいのしょうねん、しんのしこうていはちちがしんだそのばんに、)

十六歳の少年、秦の始皇帝は父が死んだその晩に、

(ちちのあいしょうをさんどおそうた。すべてそのようなじだいのはなしである。))

父の愛妾を三度襲うた。すべてそのような時代の話である。)

(なみだにくれてあいようしながらも、)

涙にくれて相擁しながらも、

(ふたたびでしがかかるたくらみをいだくようなことがあってははなはだあやういとおもったひえいは、)

再び弟子がかかる企みを抱くようなことがあっては甚だ危いと思った飛衛は、

(きしょうにあらたなもくひょうをあたえてそのきをてんずるにしくはないとかんがえた。)

紀昌に新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考えた。

(かれはこのきけんなでしにむかっていった。)

彼はこの危険な弟子に向って言った。

(もはや、つたうべきほどのことはことごとくつたえた。)

もはや、伝うべきほどのことはことごとく伝えた。

(なんじがもしこれいじょうこのみちのうんのうをきわめたいとのぞむならば、)

爾がもしこれ以上この道の蘊奥を極めたいと望むならば、

(ゆいてにしのかたたいこうのけんによじ、かくざんのいただきをきわめよ。)

ゆいて西の方大行の嶮に攀じ、霍山の頂を極めよ。

(そこにはかんようろうしとてここんをむなしゅうするしどうのたいかがおられるはず。)

そこには甘蠅老師とて古今を曠しゅうする斯道の大家がおられるはず。

(ろうしのわざにくらべれば、われわれのしゃのごときはほとんどじぎにるいする。)

老師の技に比べれば、我々の射のごときはほとんど児戯に類する。

(なんじのしとたのむべきは、いまはかんようしのほかにあるまいと。)

爾の師と頼むべきは、今は甘蠅師の外にあるまいと。

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