中島敦 名人伝 3/4

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プレイ回数498難易度(4.2) 3100打 長文 かな

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問題文

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(きしょうはすぐににしにむかってたびだつ。)

紀昌はすぐに西に向って旅立つ。

(そのひとのまえにでてはわれわれのわざのごときじぎにひとしいといったしのことばが、)

その人の前に出ては我々の技のごとき児戯にひとしいと言った師の言葉が、

(かれのじそんしんにこたえた。)

彼の自尊心にこたえた。

(もしそれがほんとうだとすれば、てんかだいいちをめざすかれののぞみも、)

もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望も、

(まだまだぜんとほどとおいわけである。)

まだまだ前途程遠い訳である。

(おのがわざがじぎにるいするかどうか、)

己が業が児戯に類するかどうか、

(とにもかくにもはやくそのひとにあってうでをくらべたいとあせりつつ、)

とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、

(かれはひたすらにみちをいそぐ。)

彼はひたすらに道を急ぐ。

(あしうらをやぶりすねをきずつけ、きがんをよじさんどうをわたって、)

足裏を破り脛を傷つけ、危巌を攀じ桟道を渡って、

(ひとつきののちにかれはようやくめざすさんてんにたどりつく。)

一月の後に彼はようやく目指す山顛に辿りつく。

(きおいたつきしょうをむかえたのは、)

気負い立つ紀昌を迎えたのは、

(ひつじのようなにゅうわなめをした、しかしひどくよぼよぼのじいさんである。)

羊のような柔和な目をした、しかし酷くよぼよぼの爺さんである。

(ねんれいはひゃくさいをもこえていよう。)

年齢は百歳をも超えていよう。

(こしのまがっているせいもあって、はくぜんはあるくときもちにひきずっている。)

腰の曲っているせいもあって、白髯は歩く時も地に曳きずっている。

(あいてがろうかもしれぬと、おおごえにあわただしくきしょうはらいいをつげる。)

相手がろうかも知れぬと、大声に遽だしく紀昌は来意を告げる。

(おのがわざのほどをみてもらいたいむねをのべると、)

己が技の程を見てもらいたいむねを述べると、

(あせりがたったかれはあいてのへんじをもまたず、)

あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、

(いきなりせにおうたようかんまきんのゆみをはずしててにとった。)

いきなり背に負うた楊幹麻筋の弓を外して手に執った。

(そうして、せきけつのやをつがえると、)

そうして、石碣の矢をつがえると、

(おりからそらのたかくをとびすぎていくわたりどりのむれにむかってねらいをさだめる。)

折から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向って狙いを定める。

など

(げんにおうじて、いっせんたちまちごわのおおとりがあざやかにへきくうをきっておちてきた。)

弦に応じて、一箭たちまち五羽の大鳥が鮮やかに碧空を切って落ちて来た。

(ひととおりできるようじゃな、とろうじんがおだやかなびしょうをふくんでいう。)

一通り出来るようじゃな、と老人が穏かな微笑を含んで言う。

(だが、それはしょせんしゃのしゃというもの、こうかんいまだふしゃのしゃをしらぬとみえる。)

だが、それは所詮射之射というもの、好漢いまだ不射之射を知らぬと見える。

(むっとしたきしょうをみちびいて、ろういんじゃは、)

ムッとした紀昌を導いて、老隠者は、

(そこからにひゃっぽばかりはなれたぜっぺきのうえまでつれてくる。)

そこから二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。

(きゃっかはもじどおりのびょうぶのごときへきりつせつじん、)

脚下は文字通りの屏風のごとき壁立千仭、

(はるかましたにいとのようなほそさにみえるけいりゅうをちょっとのぞいただけで)

遥か真下に糸のような細さに見える渓流をちょっと覗いただけで

(たちまちめまいをかんずるほどのたかさである。)

たちまち眩暈を感ずるほどの高さである。

(そのだんがいからなかばちゅうにのりだしたきせきのうえにつかつかとろうじんはかけあがり、)

その断崖から半ば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駈上り、

(ふりかえってきしょうにいう。)

振返って紀昌に言う。

(どうじゃ。このいしのうえでせんこくのわざをいまいちどみせてくれぬか。)

どうじゃ。この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。

(いまさらひっこみもならぬ。)

今更引込もならぬ。

(ろうじんといりかわりにきしょうがそのいしをふんだとき、いしはかすかにぐらりとゆらいだ。)

老人と入代りに紀昌がその石を履んだ時、石は微かにグラリと揺らいだ。

(しいてきをはげましてやをつがえようとすると、)

強いて気を励まして矢をつがえようとすると、

(ちょうどがけのはしからこいしがひとつころがりおちた。)

ちょうど崖の端から小石が一つ転がり落ちた。

(そのゆくえをめでおうたとき、おぼえずきしょうはせきじょうにふした。)

その行方を目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏した。

(あしはわなわなとふるえ、あせはながれてかかとにまでいたった。)

脚はワナワナと顫え、汗は流れて踵にまで至った。

(ろうじんがわらいながらてをさしのべてかれをいしからおろし、みずからかわってこれにのると、)

老人が笑いながら手を差し伸べて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、

(ではしゃというものをおめにかけようかな、といった。)

では射というものをお目にかけようかな、と言った。

(まだどうきがおさまらずあおざめたかおをしてはいたが、)

まだ動悸がおさまらず蒼ざめた顔をしてはいたが、

(きしょうはすぐにきがついていった。)

紀昌はすぐに気が付いて言った。

(しかし、ゆみはどうなさる? ゆみは? ろうじんはすでだったのである。)

しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だったのである。

(ゆみ? とろうじんはわらう。ゆみやのいるうちはまだしゃのしゃじゃ。)

弓? と老人は笑う。弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。

(ふしゃのしゃには、うしつのゆみもしゅくいんのやもいらぬ。)

不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。

(ちょうどかれらのまうえ、そらのきわめてたかいところを)

ちょうど彼等の真上、空の極めて高い所を

(いちわのとびがゆうゆうとわをえがいていた。)

一羽の鳶が悠々と輪を画いていた。

(そのごまつぶほどにちいさくみえるすがたをしばらくみあげていたかんようが、)

その胡麻粒ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、

(やがて、みえざるやをむけいのゆみにつがえ、)

やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、

(まんげつのごとくにひきしぼってひょうとはなてば、)

満月のごとくに引絞ってひょうと放てば、

(みよ、とびははばたきもせずちゅうくうからいしのごとくにおちてくるではないか。)

見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。

(きしょうはりつぜんとした。いまにしてはじめてげいどうのしんえんをのぞきえたここちであった。)

紀昌は慄然とした。今にして始めて芸道の深淵を覗き得た心地であった。

(きゅうねんのあいだ、きしょうはこのろうめいじんのもとにとどまった。)

九年の間、紀昌はこの老名人の許に留まった。

(そのかんいかなるしゅぎょうをつんだものやらそれはだれにもわからぬ。)

その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。

(きゅうねんたってやまをおりてきたとき、ひとびとはきしょうのかおつきのかわったのにおどろいた。)

九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。

(いぜんのまけずぎらいなせいかんなつらだましいはどこかにかげをひそめ、)

以前の負けず嫌いな精悍な面魂はどこかに影をひそめ、

(なんのひょうじょうもない、でくのごとくぐしゃのごときようぼうにかわっている。)

なんの表情も無い、木偶のごとく愚者のごとき容貌に変っている。

(ひさしぶりにきゅうしのひえいをたずねたとき、しかし、)

久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、

(ひえいはこのかおつきをいっけんするとかんたんしてさけんだ。)

飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。

(これでこそはじめててんかのめいじんだ。)

これでこそ初めて天下の名人だ。

(われらのごとき、あしもとにもおよぶものでないと。)

我儕のごとき、足下にも及ぶものでないと。

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