人間失格【太宰治】11
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問題文
(じぶんがちゅうがくじだいにせわになったそのいえのあねむすめもいもうとむすめもひまさえあれば)
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、
(にかいのじぶんのへやにやってきて)
二階の自分の部屋にやって来て、
(じぶんはそのたびごとにとびあがらんばかりにぎょっとしてそうして)
自分はその度毎に飛び上がらんばかりにぎょっとして、そうして、
(ひたすらおびえおべんきょういいえとびしょうしてほんをとじ)
ひたすらおびえ、「御勉強?」「いいえ。」と微笑して本を閉じ、
(きょうねがっこうでねこんぼうというちりのせんせいがね)
「きょうね、学校でね、コンボウという地理の先生がね、」
(とするするくちからながれでるものはこころにもないこっけいばなしでした)
とするする口から流れ出るものは、心にもない滑稽噺でした。
(ようちゃんめがねをかけてごらんあるばんいもうとむすめのせっちゃんが)
「葉ちゃん、眼鏡をかけてごらん。」或る晩、妹娘のセッちゃんが、
(あねさといっしょにじぶんのへやにあそびにきて)
アネサと一緒に自分の部屋に遊びに来て、
(さんざんじぶんにおどけをえんじさせたあげくのはてにそんなことをいいだしました)
さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
(なぜいいからかけてごらんあねさのめがねをかりなさい)
「なぜ?」「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい。」
(いつでもこんならんぼうなめいれいくちょうでいうのでしたどうけしは)
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、
(すなおにあねさのめがねをかけましたとたんにふたりのむすめはわらいころげました)
素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
(そっくりろいどにそっくりとうじ)
「そっくり。ロイドに、そっくり。」当時、
(はろるどろいどとかいうがいこくのえいがのきげきやくしゃが)
ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、
(にほんでにんきがありましたじぶんはたってかたてをあげしょくんといい)
日本で人気がありました。自分は立って片手を挙げ、「諸君、」と言い、
(このたびにほんのふぁんのみなさまがたにといちじょうのあいさつをこころみ)
「このたび、日本のファンの皆様がたに、……」と一場の挨拶を試み、
(さらにおおわらいさせてそれから)
さらに大笑いさせて、それから、
(ろいどのえいががそのまちのげきじょうにくるたびごとにみにいって)
ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、
(ひそかにかれのひょうじょうなどをけんきゅうしましたまたあるあきのよる)
ひそかに彼の表情などを研究しました。また、或る秋の夜、
(じぶんがねながらほんをよんでいると)
自分が寝ながら本を読んでいると、
(あねさがとりのようにすばやくへやへはいってきて)
アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、
(いきなりじぶんのかけぶとんのうえにたおれてなきようちゃんが)
いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、「葉ちゃんが、
(あたしをたすけてくれるのだわねそうだわねこんないえ)
あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、
(いっしょにでていってしまったほうがいいのだわたすけてねたすけてなどと)
一緒に出ていってしまった方がいいのだわ。助けてね、助けて。」などと、
(はげしいことをくちばしってはまたなくのでしたけれどもじぶんにはおんなから)
はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、
(こんなたいどをみせつけられるのはこれがさいしょではありませんでしたので)
こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、
(あねさのかげきなことばにもさしておどろかずかえってそのちんぷ)
アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、
(むないようにきょうがさめたここちでそっとふとんからぬけだしつくえのうえのかきをむいて)
無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から抜け出し、机の上の柿をむいて、
(そのひときれをあねさにてわたしてやりましたするとあねさは)
その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、
(しゃくりあげながらそのかきをたべなにかおもしろいほんがないかしてよ)
しゃくり上げながらその柿を食べ、「何か面白い本が無い?貸してよ。」
(といいましたじぶんはそうせきのわがはいはねこであるというほんを)
と言いました。自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、
(ほんだなからえらんであげましたごちそうさまあねさは)
本棚から選んであげました。「ごちそうさま。」アネサは、
(はずかしそうにわらってへやからでていきましたがこのあねさにかぎらず)
恥ずかしそうに笑って部屋から出ていきましたが、このアネサに限らず、
(いったいおんなはどんなきもちでいきているのかをかんがえることはじぶんにとって)
いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、
(みみずのおもいをさぐるよりもややこしくわずらわしく)
蚯蚓の思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、
(うすきみのわるいものにかんぜられていましたただじぶんは)
薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、
(おんながあんなにきゅうになきだしたりしたばあいなにかあまいものをてわたしてやると)
女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、
(それをたべてきげんをなおすということだけはおさないときから)
それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、
(じぶんのけいけんによってしっていましたまたいもうとむすめのせっちゃんは)
自分の経験に依って知っていました。また、妹娘のセッちゃんは、
(そのともだちまでじぶんのへやにつれてきてじぶんがれいによってこうへいにみなをわらわせ)
その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ
(ともだちがかえるとせっちゃんはかならずそのともだちのわるぐちをいうのでした)
友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。
(あのひとはふりょうしょうじょだからきをつけるようにときまっていうのでした)
あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。
(そんならわざわざつれてこなければよいのにおかげでじぶんのへやのらいきゃくの)
そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の
(ほとんどぜんぶがおんなということになってしまいましたしかしそれは)
ほとんど全部が女、という事になってしまいました。しかし、それは、
(たけいちのおせじのほれられることのじつげんではまだけっしてなかったのでした)
竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。
(つまりじぶんはとうほくのはろるどろいどにすぎなかったのです)
つまり、じぶんは、東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。
(たけいちのむちなおせじがいまわしいよげんとしてなまなまといきてきて)
竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、
(ふきつなけいぼうをていするようになったのはさらにそれから)
不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、
(すうねんたったあとのことでありましたたけいちはまたじぶんにもうひとつ)
数年たった後の事でありました。竹一は、また、自分にもう一つ、
(じゅうだいなおくりものをしていましたおばけのえだよいつかたけいちが)
重大な贈り物をしていました。「お化けの絵だよ。」いつか竹一が、
(じぶんのにかいへあそびにきたときごじさんの)
自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、
(いちまいのげんしょくばんのくちえをとくいそうにじぶんにみせてそうせつめいしました)
一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。