人間失格【太宰治】20
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問題文
(おなじころまたじぶんはぎんざのあるだいかふぇのじょきゅうからおもいがけぬおんをうけ)
同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、
(たったいちどあっただけなのにそれでもそのおんにこだわり)
たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、
(やはりみうごきできないほどのしんぱいやらそらおそろしさをかんじていたのでした)
やはり身動き出来ないほどの、心配やら、空おそろしさを感じていたのでした。
(そのころになるとじぶんもあえてほりきのあんないにたよらずとも)
その頃になると、自分も、敢えて堀木の案内に頼らずとも、
(ひとりででんしゃにものれるしまたかぶきざにもいけるしまたは)
ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、
(かすりのきものをきてかふぇにだってはいれるくらいの)
絣の着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、
(たしょうのずうずうしさをよそおえるようになっていたのですこころではあいかわらず)
多少の図々しさを装えるようになっていたのです。心では、相変らず、
(にんげんのじしんとぼうりょくとをあやしみおそれなやみながらうわべだけはすこしずつ)
人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、
(たにんとまがおのあいさついやちがう)
他人と真顔の挨拶、いや、ちがう、
(じぶんはやはりはいぼくのおどけのくるしいわらいをともなわずには)
自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、
(あいさつできないたちなのですがとにかくむがむちゅうのへどもどのあいさつでも)
挨拶できないたちなのですが、とにかく、無我夢中のへどもどの挨拶でも、
(どうやらできるくらいのぎりょうをれいのうんどうではしりまわったおかげまたは)
どうやら出来るくらいの「伎倆」を、れいの運動で走り廻ったおかげ?または、
(おんなのまたはさけけれども)
女の?または、酒?けれども、
(おもにきんせんのふじゆうのおかげでしゅうとくしかけていたのですどこにいても)
おもに金銭の不自由のおかげで習得しかけていたのです。どこにいても、
(おそろしくかえってだいかふぇでたくさんのすいきゃくまたはじょきゅう)
おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女給、
(ぼーいたちにもまれまぎれこむことができたら)
ボーイたちにもまれ、まぎれ込むことが出来たら、
(じぶんのこのたえずおわれているようなこころもおちつくのではなかろうか)
自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、
(とじゅうえんもってぎんざのそのだいかふぇにひとりではいって)
と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、
(わらいながらあいてのじょきゅうにじゅうえんしかないんだからねそのつもりで)
笑いながら相手の女給に「十円しか無いんだからね、そのつもりで。」
(といいましたしんぱいいりませんどこかにかんさいのなまりがありました)
と言いました。「心配要りません。」どこかに関西の訛りがありました。
(そうしてそのひとことがきみょうにじぶんの)
そうして、その一言が、奇妙に自分の、
(ふるえおののいているこころをしずめてくれましたいいえ)
震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、
(おかねのしんぱいがいらなくなったからではありません)
お金の心配が要らなくなったからではありません。
(そのひとのそばにいることにしんぱいがいらないようなきがしたのですじぶんは)
そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。自分は、
(おさけをのみましたそのひとにあんしんしているので)
お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、
(かえっておどけなどえんじるきもちもおこらず)
かえってお道化など演じる気持も起らず、
(じぶんのじがねのむくちでいんさんなところをかくさずみせてだまっておさけをのみました)
自分の地金の無口で陰惨なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。
(こんなのおすきかおんなはさまざまのりょうりをじぶんのまえにならべました)
「こんなの、おすきか?」女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。
(じぶんはくびをふりましたおさけだけかうちものもうあきのさむいよるでした)
自分は首を振りました。「お酒だけか?うちも飲もう。」秋の、寒い夜でした。
(じぶんはつねこといったとおぼえていますがきおくがうすれ)
自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶が薄れ、
(たしかではありませんじょうしのあいてのなまえをさえわすれているようなじぶんなのです)
たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです
(にいいつけられたとおりにぎんざうらのあるやたいのおすしやで)
に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台のお鮨やで、
(すこしもおいしくないすしをたべながらそのひとのなまえはわすれても)
少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、
(そのときのすしのまずさだけはどうしたことかはっきりきおくにのこっています)
その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。
(そうしてあおだいしょうのかおににたかおつきのまるぼうずのおやじがくびをふりふり)
そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、
(いかにもじょうずみたいにごまかしながらすしをにぎっているさまも)
いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、
(がんぜんにみるようにせんめいにおもいだされこうねんでんしゃなどではてみたかおだ)
眼前に見るように鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、
(といろいろかんがえなんだあのときのすしやのおやじににているんだ)
といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に似ているんだ、
(ときがつきくしょうしたこともさいさんあったほどでしたあのひとのなまえもまた)
と気が附き苦笑したことも再三あったほどでした。あのひとの名前も、また、
(かおかたちさえきおくからとおざかっているげんざいなお)
顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお、
(あのすしやのおやじのかおだけはえにかけるほどせいかくにおぼえているとは)
あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、
(よっぽどあのときのすしがまずくじぶんにさむさとくつうをあたえたものとおもわれます)
よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。
(もともとじぶんはうまいすしをくわせるみせというところに)
もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、
(ひとにつれられていってくってもうまいとおもったことは)
人に連れられて行って食っても、うまいと思った事は、
(いちどもありませんでしたおおきすぎるのです)
いちどもありませんでした。大き過ぎるのです。
(おやゆびくらいのおおきさにきちっとにぎれないものかしらといつもかんがえていました)
親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)
(そのひとをまっていました)
そのひとを、待っていました。