江戸川乱歩 芋虫 -6-

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江戸川乱歩

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(ときこのふさいだまぶたのなかには、それらのさんねんかんのできごとが、げきじょうてきな)

時子のふさいだまぶたの中には、それらの三年間の出来事が、激情的な

(ばめんだけが、きれぎれに、つぎからつぎとにじゅうにもさんじゅうにもなって、あらわれては)

場面だけが、切れぎれに、次から次と二重にも三重にもなって、現われては

(きえていくのだった。このきれぎれのきおくが、ひじょうなあざやかさで、まぶたの)

消えていくのだった。この切れぎれの記憶が、非常な鮮やかさで、まぶたの

(うちがわにえいがのようにあらわれたりきえたりするのは、かのじょのからだに)

内がわに映画のように現われたり消えたりするのは、彼女のからだに

(いじょうがあるごとに、かならずおこるげんしょうであった。そして、このげんしょうがおこる)

異状があるごとに、必ず起こる現象であった。そして、この現象が起こる

(ときには、きっと、かのじょのやせいがいっそうあらあらしくなり、きのどくなふぐしゃを)

時には、きっと、彼女の野性がいっそうあらあらしくなり、気の毒な不具者を

(せめさいなむことがいっそうはげしくなるのをつねとした。かのじょじしんそれを)

責めさいなむことがいっそう烈しくなるのを常とした。彼女自身それを

(いしきさえしているのだけれど、みうちにわきあがるきょうぼうなちからは、かのじょのいしを)

意識さえしているのだけれど、身内に湧き上がる兇暴な力は、彼女の意志を

(もってしては、どうすることもできないのであった。)

もってしては、どうすることもできないのであった。

(ふときがつくと、へやのなかが、ちょうどかのじょのまぼろしとおなじに、もやにつつまれた)

ふと気がつくと、部屋の中が、ちょうど彼女の幻と同じに、もやに包まれた

(ようにくらくなっていくかんじがした。まぼろしのそとに、もうひとつまぼろしがあって、)

ように暗くなって行く感じがした。幻のそとに、もうひとつ幻があって、

(そのそとのほうのまぼろしが、いまきえていこうとしているようなきもちであった。)

そのそとの方の幻が、今消えて行こうとしているような気持であった。

(それがしんけいのたかぶったかのじょをこわがらせ、はっとむねのこどうがはげしくなった。)

それが神経のたかぶった彼女を怖がらせ、ハッと胸の鼓動が烈しくなった。

(だが、よくかんがえてみると、なんでもないことだった。かのじょはふとんから)

だが、よく考えてみると、なんでもないことだった。彼女は蒲団から

(のりだして、まくらもとのらんぷのしんをひねった。さっきほそめておいたしんがつきて、)

乗り出して、枕もとのランプの芯をひねった。さっき細めておいた芯が尽きて、

(ともしびがきえかかっていたのである。)

ともし火が消えかかっていたのである。

(へやのなかがぱっとあかるくなった。だが、それがやっぱりだいだいいろにかすんで)

部屋の中がパッと明るくなった。だが、それがやっぱり橙色にかすんで

(いるのが、すこしばかりへんなかんじであった。ときこはそのこうせんで、おもいだしたように)

いるのが、少しばかり変な感じであった。時子はその光線で、思い出したように

(おっとのねがおをのぞいてみた。かれはいぜんとして、すこしもかたちをかえないで、てんじょうの)

夫の寝顔を覗いて見た。彼は依然として、少しも形を変えないで、天井の

(おなじところをみつめている。)

同じ所を見つめている。

など

(「まあ、いつまでかんがえごとをしているのだろう」)

「まあ、いつまで考えごとをしているのだろう」

(かのじょはいくらか、ぶきみでもあったが、それよりも、みるかげもないかたわものの)

彼女はいくらか、無気味でもあったが、それよりも、見る影もない片輪者の

(くせに、ひとりでしさいらしくものおもいにふけっているようすが、ひどくにくにくしく)

くせに、ひとりで仔細らしく物思いに耽っている様子が、ひどく憎々しく

(おもわれた。そして、またしても、むずがゆく、れいのざんぎゃくせいがかのじょのみうちに)

思われた。そして、またしても、むず痒く、例の残虐性が彼女の身内に

(わきおこってくるのだった。)

湧き起こってくるのだった。

(かのじょは、ひじょうにとつぜん、おっとのふとんのうえにとびかかっていった。そしていきなり、)

彼女は、非常に突然、夫の蒲団の上に飛びかかって行った。そしていきなり、

(あいてのかたをだいて、はげしくゆすぶりはじめた。)

相手の肩を抱いて、烈しくゆすぶりはじめた。

(あまりにそれがとうとつであったものだから、はいじんはからだぜんたいで、ぴくんと)

あまりにそれが唐突であったものだから、廃人はからだ全体で、ピクンと

(おどろいた。そして、そのつぎには、つよいしっせきのまなざしで、かのじょをにらみつける)

驚いた。そして、その次には、強い叱責のまなざしで、彼女を睨みつける

(のであった。)

のであった。

(「おこったの?なんだい、そのめ」)

「怒ったの?なんだい、その眼」

(ときこはそんなことをどなりながら、おっとにいどみかかっていった。わざとあいての)

時子はそんなことをどなりながら、夫にいどみかかって行った。わざと相手の

(めをみないようにして、いつものゆうぎをもとめていった。)

眼を見ないようにして、いつもの遊戯を求めて行った。

(「おこったってだめよ。あんたは、わたしのおもうままなんだもの」)

「怒ったってだめよ。あんたは、私の思うままなんだもの」

(だが、かのじょがどんなしゅだんをつくしても、そのときにかぎって、はいじんはいつものように)

だが、彼女がどんな手段をつくしても、その時に限って、廃人はいつものように

(かれのほうからだきょうしてくるようすはなかった。さっきから、じっとてんじょうをみつめて)

彼の方から妥協してくる様子はなかった。さっきから、じっと天井を見つめて

(かんがえていたことがそれであったのか、またはたんににょうぼうのえてかってなふるまいが)

考えていたことがそれであったのか、または単に女房のえて勝手な振舞いが

(かんにさわったのか、いつまでもいつまでも、おおきなめをとびだすばかりに)

癇にさわったのか、いつまでもいつまでも、大きな眼を飛び出すばかりに

(いからして、さすようにときこのかおをみすえていた。)

いからして、刺すように時子の顔を見据えていた。

(「なんだい、こんなめ」)

「なんだい、こんな眼」

(かのじょはさけびながら、りょうてを、あいてのめにあてがった。そして、「なんだい」)

彼女は叫びながら、両手を、相手の眼に当てがった。そして、「なんだい」

(「なんだい」ときちがいみたいにさけびつづけた。びょうてきなこうふんがかのじょを)

「なんだい」と気ちがいみたいに叫びつづけた。病的な興奮が彼女を

(むかんかくにした。りょうてのゆびにどれほどのちからがくわわったかさえ、ほとんど)

無感覚にした。両手の指にどれほどの力が加わったかさえ、ほとんど

(いしきしていなかった。)

意識していなかった。

(はっとゆめからさめたように、きがつくと、かのじょのしたで、はいじんがおどりくるっていた。)

ハッと夢からさめたように、気がつくと、彼女の下で、廃人が躍り狂っていた。

(どうたいだけとはいえ、ひじょうなちからで、しにものぐるいにおどるものだから、おもいかのじょが)

胴体だけとはいえ、非常な力で、死に物狂いに躍るものだから、重い彼女が

(はねとばされたほどであった。ふしぎなことには、はいじんのりょうめからまっかなちが)

はね飛ばされたほどであった。不思議なことには、廃人の両眼からまっ赤な血が

(ふきだして、ひっつりのかおぜんたいが、ゆでだこみたいにじょうきしていた。)

吹き出して、ひっつりの顔全体が、ゆでだこみたいに上気していた。

(ときこはそのとき、すべてをはっきりいしきした。かのじょはむざんにも、かのじょのおっとの)

時子はその時、すべてをハッキリ意識した。彼女は無残にも、彼女の夫の

(たったひとつのこっていた、がいかいへのまどを、むちゅうにきずつけてしまったのである。)

たったひとつ残っていた、外界への窓を、夢中に傷つけてしまったのである。

(だが、それはけっしてむちゅうのかしつとはいいきれなかった。かのじょじしんそれを)

だが、それは決して夢中の過失とは言いきれなかった。彼女自身それを

(しっていた。いちばんはっきりしているのは、かのじょはおっとのものいうりょうめを、)

知っていた。いちばんハッキリしているのは、彼女は夫の物言う両眼を、

(かれらがあんいなけだものになりきるのに、はなはだしくじゃまっけだとかんじて)

彼らが安易なけだものになりきるのに、はなはだしく邪魔っけだと感じて

(いたことだ。ときたまそこにうかびあがってくるせいぎのかんねんともいうべきものを、)

いたことだ。時たまそこに浮かび上がってくる正義の観念ともいうべきものを、

(にくにくしくかんじていたことだ。のみならず、そのめのうちには、にくにくしく)

憎々しく感じていたことだ。のみならず、その眼のうちには、憎々しく

(じゃまっけであるばかりでなく、もっとべつなもの、もっとぶきみでおそろしい)

邪魔っけであるばかりでなく、もっと別なもの、もっと無気味で恐ろしい

(なにものかさえかんじられたのである。)

何物かさえ感じられたのである。

(しかし、それはうそだ。かのじょのこころのおくのおくには、もっとちがった、もっとおそろしい)

しかし、それは嘘だ。彼女の心の奥の奥には、もっと違った、もっと恐ろしい

(かんがえがそんざいしていなかったであろうか。かのじょは、かのじょのおっとをほんとうの)

考えが存在していなかったであろうか。彼女は、彼女の夫をほんとうの

(いきたしかばねにしてしまいたかったのではないか。かんぜんなにくごまにかして)

生きた屍にしてしまいたかったのではないか。完全な肉ゴマに化して

(しまいたかったのではないか。どうたいだけのしょっかくのほかには、ごかんをまったく)

しまいたかったのではないか。胴体だけの触覚のほかには、五官をまったく

(うしなったいっこのいきものにしてしまいたかったのではないか。そして、かのじょの、)

失った一個の生きものにしてしまいたかったのではないか。そして、彼女の、

(あくなきざんぎゃくせいを、しんそこからまんぞくさせたかったのではないか。ふぐしゃのぜんしんの)

飽くなき残虐性を、真底から満足させたかったのではないか。不具者の全身の

(うちで、めだけがわずかににんげんのおもかげをとどめていた。それがのこって)

うちで、眼だけがわずかに人間のおもかげをとどめていた。それが残って

(いては、なにかしらかんぜんでないようなきがしたのだ。ほんとうのかのじょの)

いては、何かしら完全でないような気がしたのだ。ほんとうの彼女の

(にくごまではないようなきがしたのだ。)

肉ゴマではないような気がしたのだ。

(このようなかんがえが、いちびょうかんに、ときこのあたまのなかをとおりすぎた。「ぎゃっ」という)

このような考えが、一秒間に、時子の頭の中を通り過ぎた。「ギャッ」という

(ようなさけびごえをたてたかとおもうと、おどりくるっているにくかいをそのままにして、)

ような叫び声を立てたかと思うと、躍り狂っている肉塊をそのままにして、

(ころがるようにかいだんをかけおり、はだしのままくらやみのそとへはしりだした。)

ころがるように階段を駈けおり、はだしのまま暗やみのそとへ走り出した。

(かのじょはあくむのなかでおそろしいものに、おっかけられてでもいるかんじで、むちゅうに)

彼女は悪夢の中で恐ろしいものに、追っ駈けられてでもいる感じで、夢中に

(はしりつづけた。うらもんをでて、そんどうをみぎてへ、でも、いくさきがさんちょうほどへだたった)

走りつづけた。裏門を出て、村道を右手へ、でも、行く先が三丁ほど隔たった

(いしゃのいえであることはいしきしていた。)

医者の家であることは意識していた。

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