生きている腸6(終) 海野十三

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生きている腸/海野十三 著
青空文庫より引用
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問題文

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(「ごさん」)

【誤算】

(いがくせいふきやりゅうじは、ついなのかかんもそとにあそびくらしてしまった。)

医学生吹矢隆二は、つい七日間も外に遊びくらしてしまった。

(いっぽしきいをそとにふみだすと、そとにはすばらしいかんきといあんとが、かれを)

一歩敷居を外に踏みだすと、外には素晴らしい歓喜と慰安とが、彼を

(まっていたのだ。かれのほんのうはにわかにせすじをつたわってこうずいのようにながれだした。)

待っていたのだ。彼の本能はにわかに背筋を伝わって洪水のように流れだした。

(かれはほんのうのおもむくままに、よをてっしひをついで、かんらくのちまたをおよぎまわった。)

彼は本能のおもむくままに、夜を徹し日を継いで、歓楽の巷を泳ぎまわった。

(そしてなのかめになって、すこしわれにかえったのである。ちこのしょくじのことが)

そして七日目になって、すこしわれにかえったのである。チコの食事のことが

(ちょっときになった。ひをくってみると、あのさとうみずはもうそろそろそこに)

ちょっと気になった。日をくってみると、あの砂糖水はもうそろそろ底に

(なっているはずだった。「まあいちにちぐらいは、いいだろう」そうおもってかれは)

なっているはずだった。「まあ一日ぐらいは、いいだろう」そう思って彼は

(またあそんだ。そのひのゆうがた、かれはなにをおもったか、あしをまるまるけいむびょういんにむけた。)

また遊んだ。その日の夕方、彼はなにを思ったか、足を〇〇刑務病院にむけた。

(そしてくまもとはかせをほうもんしたのであった。はかせは、ふきやがあまりににんげんくさいにんげんに)

そして熊本博士を訪問したのであった。博士は、吹矢があまりに人間臭い人間に

(かわっておうせつしつにすわっているのをみておどろいた。「このまえのいっけんは、)

かわって応接室に坐っているのを見て愕いた。「この前の一件は、

(どうしたですか」と、はかせはそっとたずねた。)

どうしたですか」と、博士はそっとたずねた。

(「ああ、いきているはらわたのことだろう。あれはいずれはっぴょうするよ、いひひひ」)

「ああ、生きている腸のことだろう。あれはいずれ発表するよ、いひひひ」

(「いっけんはなんにちぐらいうごいていましたか」)

「一件は何日ぐらい動いていましたか」

(「あはっ、いずれはっぴょうする、だがねくまもとくん。はらわたというやつはかんじょうを)

「あはっ、いずれ発表する、だがね熊本君。腸というやつは感情を

(あらわすんだね。なにかこう、おれにあいじょうみたいなものをしめすんだ。ほんとうだぜ。)

あらわすんだね。なにかこう、俺に愛情みたいなものを示すんだ。本当だぜ。

(まったくおどろいた。ーーときにあれは、なんというしゅうじんのはらわたなんだ。おしえたまえ」)

まったく愕いた。ーー時にあれは、なんという囚人の腸なんだ。教えたまえ」

(「・・・・・・」はかせはへんとうをしなかった。いつものふきやだったら、はかせがへんとうを)

「……」博士は返答をしなかった。いつもの吹矢だったら、博士が返答を

(しなかったりすると、あたまごなしにきめつけるのであるが、そのひにかぎりかれは)

しなかったりすると、頭ごなしにきめつけるのであるが、その日に限り彼は

(たいへんいいきげんらしく、あごをなでてにこにこしている。)

たいへんいい機嫌らしく、頤をなでてにこにこしている。

など

(「それからね、くまもとくん。ほるもんにかんするぶんけんをまとめて、おれにくれんか。)

「それからね、熊本君。ホルモンに関する文献をまとめて、俺にくれんか。

(ーーほるもんといえば、このびょういんにいたれいのびじんのこうかんしゅはどうした。)

ーーホルモンといえば、この病院にいた例の美人の交換手はどうした。

(にじゅうしにもなって、どくしんでがんばっていたあのむすめのことだよ」と、ふきやはへんに)

二十四にもなって、独身で頑張っていたあの娘のことだよ」と、吹矢は変に

(いやらしいえみをうかべてくまもとはかせのかおをのぞきこんだ。)

いやらしい笑みをうかべて熊本博士の顔をのぞきこんだ。

(「あ、あのむすめですかーー」はかせは、さっとかおいろをかえた。)

「あ、あの娘ですかーー」博士は、さっと顔色をかえた。

(「あのむすめなら、もうしにましたよ、もうちょうえんでね、だ、だいぶまえのことですよ」)

「あの娘なら、もう死にましたよ、盲腸炎でね、だ、だいぶ前のことですよ」

(「なあんだ、しんだか。しんだのなら、しようがない」)

「なあんだ、死んだか。死んだのなら、しようがない」

(ふきやは、とたんにそのむすめのことにきょうみをうしなったようなこえをだした。そして)

吹矢は、とたんにその娘のことに興味を失ったような声をだした。そして

(またくるといって、すたすたとしつをでていった。そのよふけのごぜんいちじ。)

また来るといって、すたすたと室を出ていった。その夜更けの午前一時。

(いがくせいふきやりゅうじは、ようやくようかめに、じたくのまえにかえってきた。)

医学生吹矢隆二は、ようやく八日目に、自宅の前に帰ってきた。

(かれはおもはゆく、いりぐちのじょうまえにかぎをさした。(すこしあそびすぎたなあ。)

彼はおもはゆく、入口の錠前に鍵をさした。(すこし遊びすぎたなあ。

(いきているはらわたーーそうだちこというなをつけてやったっけ。ちこはまだ)

生きている腸ーーそうだチコという名をつけてやったっけ。チコはまだ

(いきているかしら。なあにしんでもいいや。とにかくせかいのいがくしゃにこしを)

生きているかしら。なあに死んでもいいや。とにかく世界の医学者に腰を

(ぬかさせるくらいのろんぶんしりょうは、もうじゅうぶんにあつまっているからなあ))

ぬかさせるくらいの論文資料は、もう十分に集まっているからなあ)

(かれは、いりぐちのかぎをはずした。そしてとびらをひらいてなかにはいった。)

彼は、入口の鍵をはずした。そして扉をひらいて中に入った。

(ぷーんとかびくさいにおいが、はなをうった。それにまじって、なんだか)

ぷーんと黴くさい匂いが、鼻をうった。それにまじって、なんだか

(おんなのたいしゅうのようなものがしたとおもった。(おかしいな)しつないはまっくらだった。)

女の体臭のようなものがしたと思った。(おかしいな)室内は真暗だった。

(かれはてさぐりで、かべのすいっちをひねった。ぱっとあかりがついた。)

彼は手さぐりで、壁のスイッチをひねった。ぱっと明りがついた。

(かれはまぶしそうなめで、しつないをみまわした。ちこのすがたは、てーぶるのうえにも)

彼は眩しそうな眼で、室内を見まわした。チコの姿は、テーブルの上にも

(なかった。(おや、ちこはしんだのか。それともすきまからおうらいへ)

なかった。(おや、チコは死んだのか。それとも隙間から往来へ

(にげだしたのかしら)とおもったが、ふときがついて、でかけるときに)

逃げ出したのかしら)と思ったが、ふと気がついて、出かけるときに

(ちこのためにつくっておいたさとうみずのがらすばちにめをやった。がらすばちのなかには、)

チコのために作っておいた砂糖水のガラス鉢に眼をやった。ガラス鉢の中には、

(さとうみずがまだはんぶんものこっていた。かれはおどろきのこえをあげた。)

砂糖水がまだ半分も残っていた。彼は愕きの声をあげた。

(「あれっ、いまごろはさとうみずがもうすっかりからになっているとおもったのにーー)

「あれっ、今ごろは砂糖水がもうすっかりからになっていると思ったのにーー

(ちこのやつどうしやがったかな」そういったせつなのできごとだった。)

チコのやつどうしやがったかな」そういった刹那の出来事だった。

(ふきやのめのまえに、なにかしろいすてっきのようなものがきみょうなうなりごえをあげて)

吹矢の目の前に、なにか白いステッキのようなものが奇妙な呻り声をあげて

(ぴゅーっととんできた。「あっ!」とおもうまもなく、それはふきやのけいぶに)

ぴゅーっと飛んできた。「呀っ!」とおもう間もなく、それは吹矢の頸部に

(まきついた。「ううっーー」ふきやのくびは、もうれつなちからをもって、ぎゅっと)

まきついた。「ううっーー」吹矢の頸は、猛烈な力をもって、ぎゅっと

(しめつけられた。かれはこくうをつかんでそのばにどっとたおれた。)

締めつけられた。彼は虚空をつかんでその場にどっと倒れた。

(いがくせいふきやのしたいがはっけんされたのは、それからはんとしもたってのちの)

医学生吹矢の死体が発見されたのは、それから半年も経ってのちの

(ことであった。いちねんぶんずつおさめることになっているやちんを、おおやがさいそくにきて、)

ことであった。一年分ずつ納めることになっている家賃を、大家が催促に来て、

(それとはじめてしったのだ。かれのしたいはもうすでにはっこつにかしていた。)

それとはじめて知ったのだ。彼の死体はもうすでに白骨に化していた。

(ふきやのしいんをしるものは、だれもなかった。そしてまた、かれがのこした)

吹矢の死因を知る者は、誰もなかった。そしてまた、彼が残した

(「いけるはらわたちこ」にかんするいだいなるじっけんについても、まただれもしるものが)

「生ける腸チコ」に関する偉大なる実験についても、また誰も知る者が

(なかった。「いけるはらわた」のじっけんは、すべてくうはくになってしまった。ただひとり、)

なかった。「生ける腸」の実験は、すべて空白になってしまった。ただ一人、

(くまもとはかせはふきやにゆうずうした「いけるはらわた」のことをときおりおもいだした。)

熊本博士は吹矢に融通した「生ける腸」のことをときおり思いだした。

(じつはあのはらわたはどのしゅうじんのものでもなかったのである。「いけるはらわた」はいったい)

実はあの腸はどの囚人のものでもなかったのである。「生ける腸」はいったい

(だれのふくこうからとりだしたものであろうか。それはまるまるけいむびょういんにつとめていた)

誰の腹腔から取り出したものであろうか。それは〇〇刑務病院につとめていた

(にじゅうよんさいのしょじょであるこうかんしゅのものであった。かのじょはもうちょうえんでなくなったが、)

二十四歳の処女である交換手のものであった。彼女は盲腸炎で亡くなったが、

(そのときしっとうしたのはくまもとはかせであったといえば、あとはせつめいしないでも)

そのとき執刀したのは熊本博士であったといえば、あとは説明しないでも

(いいだろう。しょじょのふくこうからきりはなされた「いきているはらわた」がいがくせいふきやのくびに)

いいだろう。処女の腹腔から切り放された「生きている腸」が医学生吹矢の首に

(まきついて、かれをころしたことは、かれのしをひそかによろこんでいるくまもとはかせも)

まきついて、彼を殺したことは、彼の死をひそかに喜んでいる熊本博士も

(しらない。いわんや「いけるはらわた」のちこが、ふきやとどうせいひゃくにじゅうにちにおよび、)

しらない。いわんや「生ける腸」のチコが、吹矢と同棲百二十日におよび、

(かれにひじょうなるあいちゃくをもっていたこと、そしてようかめにかえってきたかれのこえを)

彼に非常なる愛着をもっていたこと、そして八日目にかえってきた彼の声を

(きき、うれしさのあまりふきやのくびにとびつき、ふこうにもかれをしめころしてしまった)

聞き、嬉しさのあまり吹矢の首にとびつき、不幸にも彼を締め殺してしまった

(てんまつなどは、そうぞうもしていないだろう。あの「いきているはらわた」が、まさか)

顛末などは、想像もしていないだろう。あの「生きている腸」が、まさか

(そういうじょせいのはらわたとはきがつかなかったいがくせいふきやりゅうじこそ、)

そういう女性の腸とは気がつかなかった医学生吹矢隆二こそ、

(じつにきのどくなことをしたものである。)

実に気の毒なことをしたものである。

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