山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 1
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問題文
(つゆにはいるすこしまえ、やすもとのぼるはじぶんからいいんようのうわぎをきるようになった。)
梅雨にはいる少しまえ、保本登は自分から医員用の上衣を着るようになった。
(うすねずみいろにそめたもめんのつつそでと、たっつけににたそのはかまとは、)
薄鼠色に染めた木綿の筒袖と、たっつけに似たその袴とは、
(よくのりがきいてごわごわしており、はじめてきたときには、)
よく糊がきいてごわごわしており、初めて着たときには、
(ひとにじろじろみられるようでかなりきまりがわるかった。)
人にじろじろ見られるようでかなり気まりが悪かった。
(にいできょじょうともりはんだゆうはだまっていたし、)
新出去定と森半太夫は黙っていたし、
(かれがうわぎをきはじめたということにさえ、きづかないふりをしていた。)
彼が上衣を着はじめたということにさえ、気づかないふりをしていた。
(ほかのいいんたちもくちではなにもいわなかったが、)
他の医員たちも口ではなにも云わなかったが、
(かれをみるたびにひにくなめつきをしたり、)
彼を見るたびに皮肉な眼つきをしたり、
(くちびるにうすわらいをうかべたりするのがみとめられた。)
唇にうす笑いをうかべたりするのが認められた。
(ーーこういうなかでひとりだけ、かれのためによろこび、)
ーーこういう中で一人だけ、彼のためによろこび、
(それをしょうじきにくちにだしていったものがいた。)
それを正直に口に出して云った者がいた。
(それはだいどころではたらいている、おゆきというむすめであった。)
それは台所で働いている、お雪という娘であった。
(おゆきはのぼるがうわぎをきているのをみるなり、まあとてをうちあわせ、)
お雪は登が上衣を着ているのを見るなり、まあと手を打ち合わせ、
(かおじゅうでこぼれるようにびしょうした。)
顔じゅうでこぼれるように微笑した。
(「ようやくうわぎをおめしなさいましたのね、よかったこと」とおゆきはいった、)
「ようやく上衣をお召しなさいましたのね、よかったこと」とお雪は云った、
(「これでやっとあたしのかちになりましたわ」)
「これでやっとあたしの勝ちになりましたわ」
(「おまえのかちだって」のぼるはいぶかしそうにきいた、)
「おまえの勝ちだって」登は訝しそうに訊いた、
(「だれかとかけてでもいたのか」)
「誰かと賭けてでもいたのか」
(「ええ」おゆきはちょっとろうばいしながら、たくみにびしょうでそれをつくろった、)
「ええ」お雪はちょっと狼狽しながら、巧みに微笑でそれをつくろった、
(「かけたといえばかけたんですけれど、)
「賭けたといえば賭けたんですけれど、
(あたしやすもとせんせいがそういうおきもちになってくださるようにって、)
あたし保本先生がそういうお気持になって下さるようにって、
(ねがっていたんですの」)
願っていたんですの」
(「そういうきもちとは、どういうことだ」)
「そういう気持とは、どういうことだ」
(「このようじょうしょにおちついてくださるというおきもちですわ」おゆきはゆうかんにいった、)
「この養生所におちついて下さるというお気持ですわ」お雪は勇敢に云った、
(「あたしなんかがいうのはおかしいでしょうけれど、)
「あたしなんかが云うのはおかしいでしょうけれど、
(ここにはいいおいしゃさまがひつようですし、ほんとうにいしゃらしいおいしゃなら、)
ここにはいいお医者さまが必要ですし、本当に医者らしいお医者なら、
(ここでおしごとをなさるきにならないはずはありませんもの、そうでしょう」)
ここでお仕事をなさる気にならない筈はありませんもの、そうでしょう」
(のぼるはそのとききがついた。)
登はそのとき気がついた。
(ーーもりはんだゆうのくちまねだ。)
ーー森半太夫の口まねだ。
(おゆきがはんだゆうをこいしているということは、つがわげんぞうにきき、)
お雪が半太夫を恋しているということは、津川玄三に聞き、
(またきょうじょおゆみにつきそっているおすぎからもきいた。)
また狂女おゆみに付添っているお杉からも聞いた。
(はんだゆうはむかんしんらしいが、おゆきはむちゅうになっているという。)
半太夫は無関心らしいが、お雪は夢中になっているという。
(もりさんのおかたいのはりっぱだけれど、おゆきさんのきもちをかんがえるとにくらしくなる、)
森さんのお堅いのは立派だけれど、お雪さんの気持を考えると憎らしくなる、
(とおすぎはいった。)
とお杉は云った。
(のぼるじしんもときどき、ふたりではなしているようなところをみたことがある。)
登自身もときどき、二人で話しているようなところを見たことがある。
(とおりかかったはんだゆうをおゆきがよびとめて、)
通りかかった半太夫をお雪が呼びとめて、
(ちょっとたちばなしをするといったていどであるが、)
ちょっと立ち話をするといった程度であるが、
(いつかいちど、やくえんのさくのところで、)
いつかいちど、薬園の柵のところで、
(おゆきがないているのをみかけたことがあった。)
お雪が泣いているのを見かけたことがあった。
(ーーばんしゅんのたそがれだったとおもう。)
ーー晩春の黄昏だったと思う。
(はんだゆうはうでぐみをし、ぼうのようにたってそらをみあげており、)
半太夫は腕組みをし、棒のように立って空を見あげており、
(そのわきでおゆきが、たもとでかおをおおってないていた。)
その脇でお雪が、袂(たもと)で顔を掩(おお)って泣いていた。
(かなりはなれていたうえに、のぼるはすぐめをそむけてさったが、)
かなりはなれていたうえに、登はすぐ眼をそむけて去ったが、
(うすくもやのかかった、かたあかりのひかりのなかで、)
うすく靄(もや)のかかった、片明りの光の中で、
(ふたりのすがたはかげえでもみるような、ひげんじつてきなものかなしさをかんじさせたものだ。)
二人の姿は影絵でも見るような、非現実的なものかなしさを感じさせたものだ。
(ーーたしかに、これははんだゆうのくちまねだ。)
ーーたしかに、これは半太夫の口まねだ。
(のぼるはそうおもいながら、さりげないちょうしでおゆきにいった。)
登はそう思いながら、さりげない調子でお雪に云った。
(「それはもりのいけんなのか」おゆきはわるびれずにうなずき、びしょうした、)
「それは森の意見なのか」お雪はわるびれずに頷き、微笑した、
(「ええ、もりせんせいもそうおっしゃっていますわ」)
「ええ、森先生もそう仰しゃっていますわ」
(「おれにはおれでいけんがあるさ」そういってからきゅうにのぼるはかおをしかめ、)
「おれにはおれで意見があるさ」そう云ってから急に登は顔をしかめ、
(つっかかるようなくちぶりになった、)
突っかかるような口ぶりになった、
(「もりはじぶんをごまかしているんだ、だれだってほんしんはしゅっせをしたい、)
「森は自分をごまかしているんだ、誰だって本心は出世をしたい、
(なをあげさんをなすことは、にんげんほんらいのもっともつよい、せいとうなよくぼうだ、)
名をあげ産をなすことは、人間本来のもっとも強い、正当な欲望だ、
(あかひげはいいさ、かれはもうめいいとしてしられているし、だいみょうしょこうやふごうなどから、)
赤髯はいいさ、彼はもう名医として知られているし、大名諸侯や富豪などから、
(れいをあつくしてむかえられる、しかももんこをかまえもせず、)
礼を厚くして迎えられる、しかも門戸を構えもせず、
(こんなせりょうじょではたらいていることは、かれのめいせいをさらにたかめるだけだろう、)
こんな施療所で働いていることは、彼の名声をさらに高めるだけだろう、
(しかしおれたちはそうじゃあない、おれたちはむめいのみならいいだ、)
しかしおれたちはそうじゃあない、おれたちは無名の見習医だ、
(こんなところにいつまでもいれば、しょうがいむめいのままでおわるほかはない、)
こんなところにいつまでもいれば、生涯無名のままで終るほかはない、
(おれはそんなことはまっぴらだ」)
おれはそんなことはまっぴらだ」
(「つかれていらっしゃるのよ、やすもとせんせい」とおゆきはいたわるようにいった、)
「疲れていらっしゃるのよ、保本先生」とお雪は劬(いたわ)るように云った、
(「そんないじわるなことをおっしゃるのは、おつかれになっているしょうこよ、)
「そんな意地わるなことを仰しゃるのは、お疲れになっている証拠よ、
(いっておやすみなさいましな」)
いっておやすみなさいましな」
(のぼるはりょうてをたれ、そしてあゆみさった。)
登は両手を垂れ、そして歩み去った。