山本周五郎 赤ひげ診療譚 徒労に賭ける 13 終

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プレイ回数979難易度(4.3) 3928打 長文
映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第五話です。

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問題文

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(いだごあん、なにをいうか、とのぼるはおもった。)

井田五庵(ごあん)、なにを云うか、と登は思った。

(いだごあんはようじょうしょのいいんである、ちちのげんたんとともに、)

井田五庵は養生所の医員である、父の玄丹とともに、

(おかちまちでまちいをかいぎょうしているが、)

御徒町で町医を開業しているが、

(おやこふたりとも、かよいでようじょうしょのしんりょうにあたっている。)

親子二人とも、かよいで養生所の診療に当っている。

(ばかないいぬけをするやつだとのぼるはおもったが、きょじょうはてをはなしてたちあがった。)

ばかな云いぬけをするやつだと登は思ったが、去定は手を放して立ちあがった。

(「それにそういないだろうな」)

「それに相違ないだろうな」

(「ほかにもいます」おとこはおきなおって、くるしそうにのどをおさえながらいった、)

「ほかにもいます」男は起き直って、苦しそうに喉を押えながら云った、

(「このゆしまのあらまきっていうひとと、)

「この湯島の荒巻っていう人と、

(てんじんしたのせんせいなどにもまえからたのまれていました」)

天神下の先生などにもまえから頼まれていました」

(「それもいしゃか」)

「それも医者か」

(おとこはうなずいてせきをした、)

男は頷いて咳をした、

(「ふたりともおいしゃです、こんどはいだせんせいにせっつかれてやったんですが、)

「二人ともお医者です、こんどは井田先生にせっつかれてやったんですが、

(いだせんせいはともかく、あらまきさんとてんじんしたのせきあんさんは、)

井田先生はともかく、荒巻さんと天神下の石庵(せきあん)さんは、

(このしまでくらしをたててるようなもんですから、へえ」)

このしまでくらしを立ててるようなもんですから、へえ」

(「わかった、もうよせ」ときょじょうがさえぎった、)

「わかった、もうよせ」と去定が遮った、

(「きさまたって、そのへんからいたきれをにさんまいさがしてこい」)

「きさま立って、その辺から板切れを二三枚捜して来い」

(はばとながさはこのくらい、ときょじょうはてですんぽうをしめし、)

幅と長さはこのくらい、と去定は手で寸法を示し、

(おとこはよろよろたちあがった。)

男はよろよろ立ちあがった。

(きょじょうはのびているよにんをみてまわった。)

去定はのびている四人を診てまわった。

(ふたりはうでがおれてい、ひとりはきぜつ、ひとりはすねのほねにひびがはいっていた。)

二人は腕が折れてい、一人は気絶、一人は脛の骨に罅(ひび)が入っていた。

など

(そしてよにんとも、めのまわりやきょうこつのあたりにあざができていたり、)

そして四人とも、眼のまわりや頬骨のあたりに痣ができていたり、

(さけたくちびるからちがながれていたり、こぶだらけだったりした。)

裂けた唇から血が流れていたり、瘤(こぶ)だらけだったりした。

(きょじょうはまずきぜつしたおとこにかつをいれ、たけぞうにやくろうをあけさせて、)

去定はまず気絶した男に活をいれ、竹造に薬籠をあけさせて、

(すばやくそれぞれにてあてをしてやった。)

すばやくそれぞれに手当をしてやった。

(これだけのさわぎにもかかわらず、しょうかはみなおもてをしめているし、)

これだけの騒ぎにもかかわらず、娼家はみな表を閉めているし、

(あたりにはひとのすがたもなかった。)

あたりには人の姿もなかった。

(むろん、かかりあいになるのをおそれているのだろう。)

むろん、かかりあいになるのを怖れているのだろう。

(きょじょうはすばやくてあてをすませ、はだかのおとこがいたきれをもってくると、)

去定はすばやく手当を済ませ、裸の男が板切れを持って来ると、

(のぼるにさらしをさかせて、)

登に晒木綿(さらし)を裂かせて、

(ふたりのおれたうでにそえぎをあててやった。)

二人の折れた腕に副木(そえぎ)を当ててやった。

(「すこしやりすぎたようだな、うん」てあてをしながら、)

「少しやりすぎたようだな、うん」手当をしながら、

(きょじょうはしきりにひとりごとをいった、)

去定はしきりに独り言を云った、

(「もうすこしかげんすればよかった、うん、こいつはひどい、)

「もう少しかげんすればよかった、うん、こいつはひどい、

(こんならんぼうはよくない、いしゃともあるものがこういうことをしてはいけない」)

こんな乱暴はよくない、医者ともある者がこういうことをしてはいけない」

(のぼるはたけぞうをみた。)

登は竹造を見た。

(「はじめてじゃありませんよ」とたけぞうはどもりながらささやいた、)

「初めてじゃありませんよ」と竹造は吃りながら囁いた、

(「こいつらのしらないほうがふしぎなくらいです、まえにいくどもありましたよ」)

「こいつらの知らないほうがふしぎなくらいです、まえに幾度もありましたよ」

(のぼるはたんそくしながらくびをふった。)

登は嘆息しながら首を振った。

(「よし、つれてゆけ」きょじょうはたちあがって、はだかのおとこにいった、)

「よし、伴れてゆけ」去定は立ちあがって、裸の男に云った、

(「これはかりのてあてだ、いだのところへつれていってやりなおしてもらえ」)

「これは仮の手当だ、井田のところへ伴れていってやり直してもらえ」

(「しかし」とそのおとこはしぶった、)

「しかし」とその男は渋った、

(「こういうことになったいじょう、まさかいだせんせいのところへは、どうも」)

「こういうことになった以上、まさか井田先生のところへは、どうも」

(「いやならようじょうしょへこい」ときょじょうはいった、)

「いやなら養生所へ来い」と去定は云った、

(「きずのてあてだけではなく、しごとがほしければしごとのそうだんもしよう、)

「傷の手当だけではなく、仕事が欲しければ仕事の相談もしよう、

(いつまでやくざでいられるものじゃあないぞ」)

いつまでやくざでいられるものじゃあないぞ」

(「へえ」とおとこはあたまをかいた。)

「へえ」と男は頭を掻いた。

(「すこしどがすぎたようだ」ときょじょうがまたいった、「かんべんしてくれ」)

「少し度が過ぎたようだ」と去定がまた云った、「勘弁してくれ」

(そしてのぼるにふりむいて、あるきだした。)

そして登に振向いて、歩きだした。

(「かなしいものだ」たそがれのまちをあるいてゆきながら、きょじょうはのぼるにいった、)

「かなしいものだ」黄昏の街を歩いてゆきながら、去定は登に云った、

(「あのいしゃどもはしょうかとけったくして、おんなたちをふとうにしぼる、ろくなくすりもやらず、)

「あの医者どもは娼家と結託して、女たちを不当にしぼる、ろくな薬もやらず、

(ちりょうらしいちりょうもせず、ごまかしでたかいやくれいをしぼりとっている、)

治療らしい治療もせず、ごまかしで高い薬礼をしぼり取っている、

(おれはまえからしっていた、せいとうなちりょうもせずに、)

おれはまえから知っていた、正当な治療もせずに、

(ああいうあわれなおんなたちをしぼるのは、ごうとうさつじんにもおとらないひどうなやつだ、)

ああいう哀れな女たちをしぼるのは、強盗殺人にも劣らない非道なやつだ、

(きょうはそのいかりがおさえきれなくなったのだ、)

今日はその怒りが抑えきれなくなったのだ、

(ーーがこういうことはむずかしい」)

ーーがこういうことはむずかしい」

(「なにがですか」とのぼるはいどみかかるようにはんもんした、)

「なにがですか」と登は挑みかかるように反問した、

(「いだおやこはようじょうしょのいいんではありませんか、)

「井田親子は養生所の医員ではありませんか、

(ようじょうしょいいんというかんばんでまちいをかせぎながら、あんなやくざものをつかってまで」)

養生所医員という看板で町医を稼ぎながら、あんなやくざ者を使ってまで」

(きょじょうはてをあげてせいしした、)

去定は手をあげて制止した、

(「いだのことはべつだ、いだおやこのことはやがてしまつをつける、)

「井田のことはべつだ、井田親子のことはやがて始末をつける、

(おれはほかのふたり、あらまきとかせきあんとかいうもののことをかんがえたのだ」)

おれはほかの二人、荒巻とか石庵とかいう者のことを考えたのだ」

(「そのふたりにしろ、ひどうなてんにかわりはないでしょう」)

「その二人にしろ、非道な点に変りはないでしょう」

(「だが、かれらもまた、にんげんだ」)

「だが、かれらもまた、人間だ」

(くたびれはてたようなくちぶりで、きょじょうはいった、)

くたびれはてたような口ぶりで、去定は云った、

(「かなしいかな、かれらもにんげんだということをみとめなければならない、)

「かなしい哉(かな)、かれらも人間だということを認めなければならない、

(おそらくかぞくもあることだろう、いしゃとしてのさいのうがないとわかっても、)

おそらく家族もあることだろう、医者としての才能がないとわかっても、

(ほかにいきるしゅだんがなければどうするか、)

ほかに生きる手段がなければどうするか、

(さいしをやしないそのひのくらしをたてるためには、たとえひどうとわかっても、)

妻子をやしないその日のくらしを立てるためには、たとえ非道とわかっても、

(ならいおぼえたしごとにとりついているよりしようがない」)

ならい覚えた仕事にとりついているよりしようがない」

(「しかしそれはりくつにあっていません」)

「しかしそれは理屈に合っていません」

(「おれにはわからない、まるでわからない」ときょじょうはくびをふった、)

「おれにはわからない、まるでわからない」と去定は首を振った、

(「おれにはりくつなどはどうでもいい、かれもにんげん、これもにんげん、)

「おれには理屈などはどうでもいい、かれも人間、これも人間、

(かれもいきなければならないしこれもいきるけんりがある、)

かれも生きなければならないしこれも生きる権利がある、

(ただ、どこかでなにかがまちがっている、どこでなにがまちがっているのか、)

ただ、どこかでなにかが間違っている、どこでなにが間違っているのか、

(ふん、おれのあたまはすっかりおいぼれたらしいぞ」)

ふん、おれの頭はすっかり老髦(おいぼ)れたらしいぞ」

(のぼるはのどでくすっといった。)

登は喉でくすっといった。

(すっかりおいぼれたということばが、)

すっかり老耄れたという言葉が、

((いみはちがうにせよ)さっきろくにんのならずものをなげとばした、)

(意味は違うにせよ)さっき六人のならず者を投げとばした、

(ごうかいなすがたをおもいださせて、ふとおかしくなったのである。)

豪快な姿を思いださせて、ふと可笑しくなったのである。

(きょじょうがふしんそうなめでのぼるをみた。)

去定が不審そうな眼で登を見た。

(「いや、なんでもありません」とのぼるはくびをふりながらいった、)

「いや、なんでもありません」と登は首を振りながら云った、

(「なんでもありません」)

「なんでもありません」

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