山本周五郎 赤ひげ診療譚 徒労に賭ける 13 終
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問題文
(いだごあん、なにをいうか、とのぼるはおもった。)
井田五庵(ごあん)、なにを云うか、と登は思った。
(いだごあんはようじょうしょのいいんである、ちちのげんたんとともに、)
井田五庵は養生所の医員である、父の玄丹とともに、
(おかちまちでまちいをかいぎょうしているが、)
御徒町で町医を開業しているが、
(おやこふたりとも、かよいでようじょうしょのしんりょうにあたっている。)
親子二人とも、かよいで養生所の診療に当っている。
(ばかないいぬけをするやつだとのぼるはおもったが、きょじょうはてをはなしてたちあがった。)
ばかな云いぬけをするやつだと登は思ったが、去定は手を放して立ちあがった。
(「それにそういないだろうな」)
「それに相違ないだろうな」
(「ほかにもいます」おとこはおきなおって、くるしそうにのどをおさえながらいった、)
「ほかにもいます」男は起き直って、苦しそうに喉を押えながら云った、
(「このゆしまのあらまきっていうひとと、)
「この湯島の荒巻っていう人と、
(てんじんしたのせんせいなどにもまえからたのまれていました」)
天神下の先生などにもまえから頼まれていました」
(「それもいしゃか」)
「それも医者か」
(おとこはうなずいてせきをした、)
男は頷いて咳をした、
(「ふたりともおいしゃです、こんどはいだせんせいにせっつかれてやったんですが、)
「二人ともお医者です、こんどは井田先生にせっつかれてやったんですが、
(いだせんせいはともかく、あらまきさんとてんじんしたのせきあんさんは、)
井田先生はともかく、荒巻さんと天神下の石庵(せきあん)さんは、
(このしまでくらしをたててるようなもんですから、へえ」)
このしまでくらしを立ててるようなもんですから、へえ」
(「わかった、もうよせ」ときょじょうがさえぎった、)
「わかった、もうよせ」と去定が遮った、
(「きさまたって、そのへんからいたきれをにさんまいさがしてこい」)
「きさま立って、その辺から板切れを二三枚捜して来い」
(はばとながさはこのくらい、ときょじょうはてですんぽうをしめし、)
幅と長さはこのくらい、と去定は手で寸法を示し、
(おとこはよろよろたちあがった。)
男はよろよろ立ちあがった。
(きょじょうはのびているよにんをみてまわった。)
去定はのびている四人を診てまわった。
(ふたりはうでがおれてい、ひとりはきぜつ、ひとりはすねのほねにひびがはいっていた。)
二人は腕が折れてい、一人は気絶、一人は脛の骨に罅(ひび)が入っていた。
(そしてよにんとも、めのまわりやきょうこつのあたりにあざができていたり、)
そして四人とも、眼のまわりや頬骨のあたりに痣ができていたり、
(さけたくちびるからちがながれていたり、こぶだらけだったりした。)
裂けた唇から血が流れていたり、瘤(こぶ)だらけだったりした。
(きょじょうはまずきぜつしたおとこにかつをいれ、たけぞうにやくろうをあけさせて、)
去定はまず気絶した男に活をいれ、竹造に薬籠をあけさせて、
(すばやくそれぞれにてあてをしてやった。)
すばやくそれぞれに手当をしてやった。
(これだけのさわぎにもかかわらず、しょうかはみなおもてをしめているし、)
これだけの騒ぎにもかかわらず、娼家はみな表を閉めているし、
(あたりにはひとのすがたもなかった。)
あたりには人の姿もなかった。
(むろん、かかりあいになるのをおそれているのだろう。)
むろん、かかりあいになるのを怖れているのだろう。
(きょじょうはすばやくてあてをすませ、はだかのおとこがいたきれをもってくると、)
去定はすばやく手当を済ませ、裸の男が板切れを持って来ると、
(のぼるにさらしをさかせて、)
登に晒木綿(さらし)を裂かせて、
(ふたりのおれたうでにそえぎをあててやった。)
二人の折れた腕に副木(そえぎ)を当ててやった。
(「すこしやりすぎたようだな、うん」てあてをしながら、)
「少しやりすぎたようだな、うん」手当をしながら、
(きょじょうはしきりにひとりごとをいった、)
去定はしきりに独り言を云った、
(「もうすこしかげんすればよかった、うん、こいつはひどい、)
「もう少しかげんすればよかった、うん、こいつはひどい、
(こんならんぼうはよくない、いしゃともあるものがこういうことをしてはいけない」)
こんな乱暴はよくない、医者ともある者がこういうことをしてはいけない」
(のぼるはたけぞうをみた。)
登は竹造を見た。
(「はじめてじゃありませんよ」とたけぞうはどもりながらささやいた、)
「初めてじゃありませんよ」と竹造は吃りながら囁いた、
(「こいつらのしらないほうがふしぎなくらいです、まえにいくどもありましたよ」)
「こいつらの知らないほうがふしぎなくらいです、まえに幾度もありましたよ」
(のぼるはたんそくしながらくびをふった。)
登は嘆息しながら首を振った。
(「よし、つれてゆけ」きょじょうはたちあがって、はだかのおとこにいった、)
「よし、伴れてゆけ」去定は立ちあがって、裸の男に云った、
(「これはかりのてあてだ、いだのところへつれていってやりなおしてもらえ」)
「これは仮の手当だ、井田のところへ伴れていってやり直してもらえ」
(「しかし」とそのおとこはしぶった、)
「しかし」とその男は渋った、
(「こういうことになったいじょう、まさかいだせんせいのところへは、どうも」)
「こういうことになった以上、まさか井田先生のところへは、どうも」
(「いやならようじょうしょへこい」ときょじょうはいった、)
「いやなら養生所へ来い」と去定は云った、
(「きずのてあてだけではなく、しごとがほしければしごとのそうだんもしよう、)
「傷の手当だけではなく、仕事が欲しければ仕事の相談もしよう、
(いつまでやくざでいられるものじゃあないぞ」)
いつまでやくざでいられるものじゃあないぞ」
(「へえ」とおとこはあたまをかいた。)
「へえ」と男は頭を掻いた。
(「すこしどがすぎたようだ」ときょじょうがまたいった、「かんべんしてくれ」)
「少し度が過ぎたようだ」と去定がまた云った、「勘弁してくれ」
(そしてのぼるにふりむいて、あるきだした。)
そして登に振向いて、歩きだした。
(「かなしいものだ」たそがれのまちをあるいてゆきながら、きょじょうはのぼるにいった、)
「かなしいものだ」黄昏の街を歩いてゆきながら、去定は登に云った、
(「あのいしゃどもはしょうかとけったくして、おんなたちをふとうにしぼる、ろくなくすりもやらず、)
「あの医者どもは娼家と結託して、女たちを不当にしぼる、ろくな薬もやらず、
(ちりょうらしいちりょうもせず、ごまかしでたかいやくれいをしぼりとっている、)
治療らしい治療もせず、ごまかしで高い薬礼をしぼり取っている、
(おれはまえからしっていた、せいとうなちりょうもせずに、)
おれはまえから知っていた、正当な治療もせずに、
(ああいうあわれなおんなたちをしぼるのは、ごうとうさつじんにもおとらないひどうなやつだ、)
ああいう哀れな女たちをしぼるのは、強盗殺人にも劣らない非道なやつだ、
(きょうはそのいかりがおさえきれなくなったのだ、)
今日はその怒りが抑えきれなくなったのだ、
(ーーがこういうことはむずかしい」)
ーーがこういうことはむずかしい」
(「なにがですか」とのぼるはいどみかかるようにはんもんした、)
「なにがですか」と登は挑みかかるように反問した、
(「いだおやこはようじょうしょのいいんではありませんか、)
「井田親子は養生所の医員ではありませんか、
(ようじょうしょいいんというかんばんでまちいをかせぎながら、あんなやくざものをつかってまで」)
養生所医員という看板で町医を稼ぎながら、あんなやくざ者を使ってまで」
(きょじょうはてをあげてせいしした、)
去定は手をあげて制止した、
(「いだのことはべつだ、いだおやこのことはやがてしまつをつける、)
「井田のことはべつだ、井田親子のことはやがて始末をつける、
(おれはほかのふたり、あらまきとかせきあんとかいうもののことをかんがえたのだ」)
おれはほかの二人、荒巻とか石庵とかいう者のことを考えたのだ」
(「そのふたりにしろ、ひどうなてんにかわりはないでしょう」)
「その二人にしろ、非道な点に変りはないでしょう」
(「だが、かれらもまた、にんげんだ」)
「だが、かれらもまた、人間だ」
(くたびれはてたようなくちぶりで、きょじょうはいった、)
くたびれはてたような口ぶりで、去定は云った、
(「かなしいかな、かれらもにんげんだということをみとめなければならない、)
「かなしい哉(かな)、かれらも人間だということを認めなければならない、
(おそらくかぞくもあることだろう、いしゃとしてのさいのうがないとわかっても、)
おそらく家族もあることだろう、医者としての才能がないとわかっても、
(ほかにいきるしゅだんがなければどうするか、)
ほかに生きる手段がなければどうするか、
(さいしをやしないそのひのくらしをたてるためには、たとえひどうとわかっても、)
妻子をやしないその日のくらしを立てるためには、たとえ非道とわかっても、
(ならいおぼえたしごとにとりついているよりしようがない」)
ならい覚えた仕事にとりついているよりしようがない」
(「しかしそれはりくつにあっていません」)
「しかしそれは理屈に合っていません」
(「おれにはわからない、まるでわからない」ときょじょうはくびをふった、)
「おれにはわからない、まるでわからない」と去定は首を振った、
(「おれにはりくつなどはどうでもいい、かれもにんげん、これもにんげん、)
「おれには理屈などはどうでもいい、かれも人間、これも人間、
(かれもいきなければならないしこれもいきるけんりがある、)
かれも生きなければならないしこれも生きる権利がある、
(ただ、どこかでなにかがまちがっている、どこでなにがまちがっているのか、)
ただ、どこかでなにかが間違っている、どこでなにが間違っているのか、
(ふん、おれのあたまはすっかりおいぼれたらしいぞ」)
ふん、おれの頭はすっかり老髦(おいぼ)れたらしいぞ」
(のぼるはのどでくすっといった。)
登は喉でくすっといった。
(すっかりおいぼれたということばが、)
すっかり老耄れたという言葉が、
((いみはちがうにせよ)さっきろくにんのならずものをなげとばした、)
(意味は違うにせよ)さっき六人のならず者を投げとばした、
(ごうかいなすがたをおもいださせて、ふとおかしくなったのである。)
豪快な姿を思いださせて、ふと可笑しくなったのである。
(きょじょうがふしんそうなめでのぼるをみた。)
去定が不審そうな眼で登を見た。
(「いや、なんでもありません」とのぼるはくびをふりながらいった、)
「いや、なんでもありません」と登は首を振りながら云った、
(「なんでもありません」)
「なんでもありません」