山本周五郎 赤ひげ診療譚 徒労に賭ける 8

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第五話です。

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問題文

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(「そんなことはとろうだというだろう、)

「そんなことは徒労だというだろう、

(おれじしん、これまでやってきたことをおもいかえしてみると、)

おれ自身、これまでやって来たことを思い返してみると、

(ほとんどとろうにおわっているものがおおい」ときょじょうはいった、)

殆んど徒労に終っているものが多い」と去定は云った、

(「よのなかはたえずうごいている、のう、こう、しょう、がくもん、すべてがやすみなく、)

「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、

(まえへまえへとすすんでいる、)

前へ前へと進んでいる、

(それについてゆけないもののことなどかまってはいられない、)

それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、

(ーーだが、ついてゆけないものはいるのだし、かれらもにんげんなのだ、)

ーーだが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、

(いまとみさかえているものよりも、)

いま富み栄えている者よりも、

(ひんこんとむちのためにくるしんでいるものたちのほうにこそ、)

貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、

(おれはかえってにんげんのもっともらしさをかんじ、)

おれは却って人間のもっともらしさを感じ、

(みらいのきぼうがもてるようにおもえるのだ」)

未来の希望が持てるように思えるのだ」

(にんげんのすることにはいろいろなめんがある。)

人間のすることにはいろいろな面がある。

(ひまにみえてこうかのあるしごともあり、とろうのようにみえながら、)

暇に見えて効果のある仕事もあり、徒労のようにみえながら、

(それをじぞくしつみかさねることによってこうかのあらわれるしごともある。)

それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある。

(おれのかんがえること、してきたことはとろうかもしれないが、)

おれの考えること、して来たことは徒労かもしれないが、

(おれはじぶんのいっしょうをとろうにうちこんでもいいとしんじている。)

おれは自分の一生を徒労にうちこんでもいいと信じている。

(そこまでいってきて、きゅうにきょじょうはらんぼうにくびをふった。)

そこまで云ってきて、急に去定は乱暴に首を振った。

(「おれはなにをいおうとしているんだ、ばかばかしい」)

「おれはなにを云おうとしているんだ、ばかばかしい」

(そしてまたひげをごしごしこすった、)

そしてまた髯をごしごし擦った、

(「きょうはよっぽどどうかしている、)

「今日はよっぽどどうかしている、

など

(やすもとをよんだのはこんなはなしをするためじゃない、)

保本を呼んだのはこんな話をするためじゃない、

(ほかにいいたいことがあったからだ」)

ほかに云いたいことがあったからだ」

(のぼるはきょじょうをみた。)

登は去定を見た。

(「あまののむすめのことだ」ときょじょうはめをわきへそらしながらいった、)

「天野の娘のことだ」と去定は眼を脇へそらしながら云った、

(「わかっているだろう」)

「わかっているだろう」

(「はい」とのぼるはこたえた。)

「はい」と登は答えた。

(「おれはくわしいじじょうはしらない、げんぱくははなそうとしたが、)

「おれは詳しい事情は知らない、源伯は話そうとしたが、

(おれはじじょうはきかなかった、むろんおよそのさっしはつくが」)

おれは事情は聞かなかった、むろんおよその察しはつくが」

(きょじょうはことばをつづけるまえにちょっとやすんだ、)

去定は言葉を続けるまえにちょっと休んだ、

(「ようてんをいえば、あまのはいもうとむすめをやすもとにもらってくれというのだ、)

「要点を云えば、天野は妹娘を保本に貰ってくれというのだ、

(としはじゅうはちで、なは、なんとかいったな」)

年は十八で、名は、なんとかいったな」

(「まさをといったはずです」)

「まさをといった筈です」

(「とうにんをしっているのだな」)

「当人を知っているのだな」

(「かおかたちをおぼえているくらいです」)

「顔かたちを覚えているくらいです」

(「あねむすめのほうはぎぜつになったままだという、)

「姉娘のほうは義絶になったままだという、

(やすもとがいもうとむすめをもらってくれればしょじまるくおさまる、)

保本が妹娘を貰ってくれれば諸事まるくおさまる、

(これはおまえのりょうしんものぞんでいるそうだ、もしそうするきがあるのなら、)

これはおまえの両親も望んでいるそうだ、もしそうする気があるのなら、

(いちどこうじまちのいえへいってくるがいいだろう」)

いちど麹町の家へいって来るがいいだろう」

(「まだしゅぎょうちゅうですから」とのぼるはこたえた、)

「まだ修業ちゅうですから」と登は答えた、

(「けっこんのことなどかんがえたくありません」)

「結婚のことなど考えたくありません」

(きょじょうはのぼるをみた、「まだあねむすめのことにこだわっているのか」)

去定は登を見た、「まだ姉娘のことにこだわっているのか」

(「いや、ともうせばうそになるでしょうが」とのぼるはいった、)

「いや、と申せば嘘になるでしょうが」と登は云った、

(「いまのわたしにはしゅうぎょうのほうがだいじであり、またはりあいがありますから、)

「いまの私には修業のほうが大事であり、また張合いがありますから、

(とうぶんのうちはそういうことをかんがえたくないのです」)

当分のうちはそういうことを考えたくないのです」

(「ではやくそくだけでもしておいたらどうだ」)

「では約束だけでもしておいたらどうだ」

(のぼるのかおがするどくゆがんだ。)

登の顔がするどく歪んだ。

(「せっかくですが」とかれはかおをそむけながらいった、)

「せっかくですが」と彼は顔をそむけながら云った、

(「わたしにはそういうやくそくはできません」)

「私にはそういう約束はできません」

(きょじょうはじっとのぼるのかおをみつめていたが、やがてつくえのほうへむきなおり、)

去定はじっと登の顔をみつめていたが、やがて机のほうへ向き直り、

(ひくいせきをしていった。)

低い咳をして云った。

(「はなしはそれだけだ」)

「話はそれだけだ」

(のぼるはじぎをし、きろくのつつみをもってたちあがった。)

登は辞儀をし、記録の包みを持って立ちあがった。

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