山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 6

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

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問題文

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(せったいでちゃかのもてなしがあり、かわもとゆきえというかろうがあいさつにでた。)

接待で茶菓のもてなしがあり、川本靱負(ゆきえ)という家老が挨拶に出た。

(きょじょうはちゃにもてをつけず、あいさつがおわるとすぐに、)

去定は茶にも手をつけず、挨拶が終るとすぐに、

(「きょうはやくれいをもらってかえるからごよういをねがいたい」ときりこうじょうでいった。)

「今日は薬礼をもらって帰るから御用意を願いたい」と切り口上で云った。

(きんごじゅうりょうときいてゆきえは、とつぜんひたいをこづかれでもしたように、)

金五十両と聞いて靱負は、とつぜん額を小突かれでもしたように、

(ぐいとあごをそらした。)

ぐいと顎(あご)を反らした。

(「そのうちじゅうりょうだけはこつぶにしていただきたい」ときょじょうはへいきなかおでいった、)

「そのうち十両だけは小粒にしていただきたい」と去定は平気な顔で云った、

(「ではせんじつのものをはいけんしましょう」)

「では先日のものを拝見しましょう」

(「ごしんさつは」)

「御診察は」

(「こんだてをはいけんしてからです」)

「献立を拝見してからです」

(ゆきえはいそいででていった。)

靱負はいそいで出ていった。

(「いきどのはさんまんにせんごくだが、)

「壱岐どのは三万二千石だが、

(そうしゃばんをながくつとめているのでないふくだ」ときょじょうはいった、)

奏者番(そうしゃばん)をながく勤めているので内福だ」と去定は云った、

(のぼるにいったのかひとりごとかよくわからないが、)

登に云ったのか独り言かよくわからないが、

(そのくちぶりにはちょうしょうのようなひびきがかんじられた、)

その口ぶりには嘲笑のようなひびきが感じられた、

(「なんのごじゅっきんやひゃっきん、どうせじぶんでかせぐわけではなし、)

「なんの五十金や百金、どうせ自分で稼ぐわけではなし、

(いたくもかゆくもないだろう」)

痛くも痒くもないだろう」

(そしてまたくちのなかで、なんのごじゅっきんやひゃっきん、といまいましそうにつぶやいた。)

そしてまた口の中で、なんの五十金や百金、といまいましそうに呟いた。

(まもなくいわはしはやとというようにんがきて、まきがみにかいたものをさしだした。)

まもなく岩橋隼人(はやと)という用人が来て、巻紙に書いたものを差出した。

(いつかかんのこんだてひょうで、むろんいきのかみのぜんにのせるのだろう、)

五日間の献立表で、むろん壱岐守の膳(ぜん)にのせるのだろう、

(きょじょうはやたてをとって、しるしてあるひんめいをつぎつぎとけし、)

去定は矢立を取って、記してある品名を次つぎと消し、

など

(そしてすうぎょうのひんもくをかきくわえた。)

そして数行の品目を書き加えた。

(「ひゃくにちかんこのとおりにさしあげてください」)

「百日間このとおりに差上げて下さい」

(ときょじょうはまきがみをはやとにかえしながらいった、)

と去定は巻紙を隼人に返しながら云った、

(「とりにくたまごはげんきんです、ぎょかいとあんばいもこのしていをこえてはなりません、)

「鳥肉卵は厳禁です、魚介と塩梅もこの指定を越えてはなりません、

(めしはこのまえにもかたくもうしたはずだが、)

飯はこのまえにも固く申した筈だが、

(しらげたこめはおいのちをちぢめるばかりですから、)

精(しら)げた米はお命をちぢめるばかりですから、

(むぎしちにこめさんのわりをきっとまもってください」そしてはやとのへんじをまたずに、)

麦七に米三の割をきっと守って下さい」そして隼人の返辞を待たずに、

(ではおみゃくをはいけんしましょうといった。)

ではお脈を拝見しましょうと云った。

(いきのかみのしんさつにはのぼるもたちあわされた。)

壱岐守の診察には登も立会わされた。

(いきのかみはしじゅうごさいだそうであるが、えでみたせいうちのようにひまんし、)

壱岐守は四十五歳だそうであるが、絵で見た海象(せいうち)のように肥満し、

(すわっているのもくるしそうであった。)

坐っているのも苦しそうであった。

(ふくぶはしんじがたいほどきょだいで、みうごきをするたびにゆたゆたとなみをうち、)

腹部は信じがたいほど巨大で、身動きをするたびにゆたゆたと波を打ち、

(あごのにくはみえにくびれて、くびはみえず、じかにむねへたれさがっていた。)

顎の肉は三重にくびれて、頸(くび)は見えず、じかに胸へ垂れさがっていた。

(かおはまるく、ほおははりきれるばかりにふくれ、)

顔はまるく、頬は張り切れるばかりにふくれ、

(そのためにめがふさがれてほそくなっていた。)

そのために眼がふさがれて細くなっていた。

(ーーきょじょうはなにもせずに、げだんからじっとながめるばかりだった。)

ーー去定はなにもせずに、下段からじっと眺めるばかりだった。

(みゃくをみようともしない。)

脈をみようともしない。

(ただじっと、あわれむようなめで、ものもいわずにながめており、)

ただじっと、憐れむような眼で、ものも云わずに眺めており、

(するといきのかみはしだいにおちつきをなくし、)

すると壱岐守はしだいにおちつきをなくし、

(いきぐるしそうにえりをゆるめたり、)

息苦しそうに襟(えり)をゆるめたり、

(かいしでくちをふいたりしながら、ぜいぜいとのどをならせた。)

懐紙で口を拭いたりしながら、ぜいぜいと喉を鳴らせた。

(「ただいまおぜんのしながきをはいけんいたしました」とやがてきょじょうがいった、)

「ただいま御膳の品書を拝見いたしました」とやがて去定が云った、

(「かねてもうしあげるとおり、おかみはごびょうきではなく、)

「かねて申上げるとおり、お上は御病気ではなく、

(ごびょうきよりはるかにこのましからぬじょうたいにおわすのです、)

御病気よりはるかに好ましからぬ状態におわすのです、

(どこかにしっかんがあるなら、しっかんをちりょうすればよろしいが、)

どこかに疾患があるなら、疾患を治療すればよろしいが、

(おかみのおからだはあつみのおぜんをたしょくなさるため、)

お上のお躯は厚味の御膳を多食なさるため、

(ないぞうぜんたいにあぶらがたまってすいじゃくし、)

内臓ぜんたいに脂(あぶら)が溜って衰弱し、

(きゅうしゅうとはいせつのちょうわがまったくうしなわれているのです」)

吸収と排泄の調和がまったく失われているのです」

(やくしはんとき、きょじょうはようしゃのないくちぶりで、いきのかみをいおどしつけた。)

約四半刻(はんとき)、去定は容赦のない口ぶりで、壱岐守を威おどしつけた。

(きいているのぼるも、とちゅうでおどしだときづいたが、)

聞いている登も、途中で威しだと気づいたが、

(それにしても、しょくじのせいげんのきびしさにはおどろいた。)

それにしても、食事の制限のきびしさにはおどろいた。

(めしがむぎしちこめさん、とりやたまごをきんずることはせったいできいたが、)

飯が麦七米三、鳥や卵を禁ずることは接待で聞いたが、

(いきのかみをまえにしてようにんにくりかえすのをきくと、)

壱岐守を前にして用人に繰り返すのを聞くと、

(そのりょうとないようとは、ごくひんもののしょくじにもおとるものであった。)

その量と内容とは、極貧者の食事にも劣るものであった。

(しろいかわぶくろのようにこえふくれたいきのかみのかおには、)

白い革袋のように肥えふくれた壱岐守の顔には、

(ひょうじょうらしいうごきはほとんどみられなかったが、)

表情らしい動きは殆んど見られなかったが、

(そのちいさなほそいめだけには、おびえたようじのようなおそれと、)

その小さな細い眼だけには、怯えた幼児のような怖れと、

(かなしそうないろがあらわれていた。)

悲しそうな色があらわれていた。

(「まずしいにんげんがびょうきにかかるのは、だいぶぶんがしょくじのそあくなためだ」)

「貧しい人間が病気にかかるのは、大部分が食事の粗悪なためだ」

(せったいへもどってから、きょじょうはのぼるにそういった、)

接待へ戻ってから、去定は登にそう云った、

(「かねもちやだいみょうがやむのは、たいていびみのかしょくときまっている、)

「金持や大名が病むのは、たいてい美味の過食ときまっている、

(よのなかにどんしょくでみをほろぼすほどあさましいことはない、)

世の中に貪食(どんしょく)で身を亡(ほろ)ぼすほどあさましいことはない、

(あのかっこうをみるとおれはむねがわるくなる」そしてつばでもはきそうなかおをした。)

あの恰好を見るとおれは胸が悪くなる」そして唾でも吐きそうな顔をした。

(ようにんのいわはしはやとがきんをもってくると、きょじょうはくすりをちょうごうするといって、)

用人の岩橋隼人が金を持って来ると、去定は薬を調合すると云って、

(やくろうをとりよせた。そしてようにんがさると、)

薬籠をとりよせた。そして用人が去ると、

(こつぶのじゅうりょうのなかからにりょうだけかみにつつみ、)

小粒の十両の中から二両だけ紙に包み、

(これをもってむじなながやへいけと、のぼるにいった。)

これを持ってむじな長屋へいけと、登に云った。

(「おれはおうかくどうへよって、それからまわるところがある」)

「おれは黄鶴堂(おうかくどう)へ寄って、それから廻るところがある」

(ときょじょうはいった、「けいひさくげんとなると、まずくすりにてをうたなければならない、)

と去定は云った、「経費削減となると、まず薬に手を打たなければならない、

(おうかくどうのしゅじんをいいくるめるのはひとしごとだろうが、)

黄鶴堂の主人を云いくるめるのは一と仕事だろうが、

(ーーまあいい、さきにむじなながやへいって、じへえにこれをわたしてくれ」)

ーーまあいい、先にむじな長屋へいって、治兵衛にこれを渡してくれ」

(のぼるはかみづつみをたもとにいれてたちあがった。)

登は紙包みを袂に入れて立ちあがった。

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