山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 7

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プレイ回数708難易度(4.2) 2705打 長文
映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

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問題文

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(なかとみさかのながやへつくちょっとまえに、)

中富坂の長屋へ着くちょっとまえに、

(すっかりくもにおおわれてかみなりがなりだし、)

すっかり雲に掩(おお)われて雷が鳴りだし、

(さはいのじゅうきょへはいるとたんに、はげしいゆうだちがふりだした。)

差配の住居へはいるとたんに、激しい夕立が降りだした。

(ーーじへえはわらじをつくっていたが、のぼるをみると、)

ーー治兵衛は草鞋(わらじ)を作っていたが、登を見ると、

(それをほうりだすようにしてたちあがったなり、)

それを抛(ほう)りだすようにして立ちあがったなり、

(ようじょうしょへむかいをやったところだといった。)

養生所へ迎いをやったところだと云った。

(「さはちがとけつしたものですから」とじへえはかさをだしながらいった、)

「佐八が吐血したものですから」と治兵衛は傘を出しながら云った、

(「ーーつかいのものにおあいでしたか」)

「ーー使いの者にお会いでしたか」

(「いや、よそへまわっていたのだ」といってのぼるはかみづつみをじへえにわたした、)

「いや、よそへ廻っていたのだ」と云って登は紙包みを治兵衛に渡した、

(「これをにいでさんからたのまれてきた」)

「これを新出さんから頼まれて来た」

(じへえはかさをしたにおき、だまったまま、りょうてでおしいただいてうけとり、)

治兵衛は傘を下に置き、黙ったまま、両手で押し戴いて受取り、

(ぶつだんのなかへしまった。)

仏壇の中へしまった。

(それからもあいがさでろじへはいり、どぶいたをふみながらさはちのいえへいった。)

それからもあい傘で路地へはいり、どぶ板を踏みながら佐八の家へいった。

(そのいったいはとちがきゅうにひくくなっているため、)

その一帯は土地が急に低くなっているため、

(つよいふりになるとたちまちみずがあふれる。)

強い降りになるとたちまち水が溢れる。

(こいしかわぼりへつうずるおおみぞへのはけがわるいから、)

小石川堀へ通ずる大溝への排(は)けが悪いから、

(ーーそのときも、わずかなあいだにどぶいたがうきかかっており、)

ーーそのときも、僅かなあいだにどぶ板が浮きかかっており、

(ながやのにょうぼうたちがどしゃぶりのなかで、)

長屋の女房たちがどしゃ降りの中で、

(いさましくはけぐちのじんかいをさらっていた。)

いさましく排け口の塵芥(じんかい)をさらっていた。

(さはちのじゅうきょはながやとはなれていた。)

佐八の住居は長屋とはなれていた。

など

(もとはそこもながやだったが、)

もとはそこも長屋だったが、

(しちねんほどまえにがけくずれがあってつぶされ、)

七年ほどまえに崖崩れがあって潰され、

(はしにあったいっけんだけがのこった。)

端にあった一軒だけが残った。

(くずれたつちがたりょうなので、やぬしはたてなおすことをだんねんしたが、)

崩れた土が多量なので、家主は建て直すことを断念したが、

(さはちはじぶんでてをくわえ、そののこったいっけんだけをきりはなして、)

佐八は自分で手を加え、その残った一軒だけを切りはなして、

(すめるようにしたのだという。)

住めるようにしたのだという。

(ーーしちねんのあいだに、くずれたつちのおおくはみずであらわれ、)

ーー七年のあいだに、崩れた土の多くは水で洗われ、

(いまではほとんどたいらなあきちになっているため、)

いまでは殆んど平らな空地になっているため、

(やぬしはまたながやをたてるきになったそうで、)

家主はまた長屋を建てる気になったそうで、

(そこへはふるざいもくがはこびこまれているし、)

そこへは古材木が運びこまれているし、

(じならしもはじめている、ということであった。)

地均(じなら)しも始めている、ということであった。

(さはちのじゅうきょにはじへえのつまのおことがいた。)

佐八の住居には治兵衛の妻のおことがいた。

(「よくねむってますよ」おことはのぼるにあいさつしてから、)

「よく眠ってますよ」おことは登に挨拶してから、

(ていしゅにそうささやいた、)

亭主にそう囁いた、

(「ときどきおかしなことをいうけれど、)

「ときどきおかしなことを云うけれど、

(きっとねつのためにいううわごとでしょう、くるしいのはおさまったようですよ」)

きっと熱のために云ううわごとでしょう、苦しいのはおさまったようですよ」

(「せんせいはよそへまわっていらっしったんだ」とじへえはすわりながらいった、)

「先生はよそへ廻っていらっしったんだ」と治兵衛は坐りながら云った、

(「つかいがもどったらせんせいはいらしったといってくれ、)

「使いが戻ったら先生はいらしったと云ってくれ、

(そのかさをさしていったら、すぐにいっぽんとどけといてくんな」)

その傘をさしていったら、すぐに一本届けといてくんな」

(おことがでていったとたんに、まうえのそらでつんざくようなかみなりがなり、)

おことが出ていったとたんに、真上の空で劈(つんざ)くような雷が鳴り、

(おことのひめいがきこえた。いえぜんたいがしんどうしたようなかんじで、)

おことの悲鳴が聞えた。家ぜんたいが震動したような感じで、

(じへえはとぐちへとびだしていき、ろじのむこうをのぞいてみた。)

治兵衛は戸口へとびだしていき、路地の向うを覗いてみた。

(なにごともなかったのだろう、「こどもみてえなやつだ」とつぶやきながら、)

なにごともなかったのだろう、「子供みてえなやつだ」と呟きながら、

(もどってきてすわった。のぼるはびょうにんをながめていた。)

戻って来て坐った。登は病人を眺めていた。

(「いっときばかりまえですが」とじへえがはなしだした、)

「一刻ばかりまえですが」と治兵衛が話しだした、

(「うちのかかあにかゆをもたせてよこすと、)

「うちの嬶(かかあ)に粥(かゆ)を持たせてよこすと、

(ええ、きのうのひるからねていたんで、)

ええ、昨日の午(ひる)から寝ていたんで、

(かゆをこさえてもってこさせると、)

粥を拵(こさ)えて持って来させると、

(そこのしごとばでたおれていたんだそうです」)

そこの仕事場で倒れていたんだそうです」

(ろくじょうとにじょうのじゅうきょにくっつけて、さんつぼばかりのいたじきのしごとばがある。)

六帖と二帖の住居にくっつけて、三坪ばかりの板敷の仕事場がある。

(さはちがじぶんでつくったのだろう、てんじょうもないいたかべの、)

佐八が自分で造ったのだろう、天床(てんじょう)もない板壁の、

(ほったてごやのようなもので、くるまのやをつくるざいりょうやどうぐるいが、)

掘立て小屋のようなもので、車の輻(や)を作る材料や道具類が、

(いちまいしいたうすべりのまわりにちらばっていた。)

一枚敷いた薄縁のまわりにちらばっていた。

(ーーおことがきたとき、さはちはそこにたおれたままうめいており、)

ーーおことが来たとき、佐八はそこに倒れたまま呻いており、

(いたじきにちがながれていた。おことのしらせでじへえがかけつけ、)

板敷に血が流れていた。おことの知らせで治兵衛が駆けつけ、

(ねどこへいれるとまたとけつした。)

寝床へ入れるとまた吐血した。

(「かなだらいへはんぶんもはきましたよ」とじへえはこえをひそめていった、)

「金盥(かなだらい)へ半分も吐きましたよ」と治兵衛は声をひそめて云った、

(「だいているこっちもはきそうになりました、)

「抱いているこっちも吐きそうになりました、

(わたしはてっきりこれでいっちまうもんだとおもいましたよ」)

私はてっきりこれでいっちまうもんだと思いましたよ」

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