山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 7
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問題文
(なかとみさかのながやへつくちょっとまえに、)
中富坂の長屋へ着くちょっとまえに、
(すっかりくもにおおわれてかみなりがなりだし、)
すっかり雲に掩(おお)われて雷が鳴りだし、
(さはいのじゅうきょへはいるとたんに、はげしいゆうだちがふりだした。)
差配の住居へはいるとたんに、激しい夕立が降りだした。
(ーーじへえはわらじをつくっていたが、のぼるをみると、)
ーー治兵衛は草鞋(わらじ)を作っていたが、登を見ると、
(それをほうりだすようにしてたちあがったなり、)
それを抛(ほう)りだすようにして立ちあがったなり、
(ようじょうしょへむかいをやったところだといった。)
養生所へ迎いをやったところだと云った。
(「さはちがとけつしたものですから」とじへえはかさをだしながらいった、)
「佐八が吐血したものですから」と治兵衛は傘を出しながら云った、
(「ーーつかいのものにおあいでしたか」)
「ーー使いの者にお会いでしたか」
(「いや、よそへまわっていたのだ」といってのぼるはかみづつみをじへえにわたした、)
「いや、よそへ廻っていたのだ」と云って登は紙包みを治兵衛に渡した、
(「これをにいでさんからたのまれてきた」)
「これを新出さんから頼まれて来た」
(じへえはかさをしたにおき、だまったまま、りょうてでおしいただいてうけとり、)
治兵衛は傘を下に置き、黙ったまま、両手で押し戴いて受取り、
(ぶつだんのなかへしまった。)
仏壇の中へしまった。
(それからもあいがさでろじへはいり、どぶいたをふみながらさはちのいえへいった。)
それからもあい傘で路地へはいり、どぶ板を踏みながら佐八の家へいった。
(そのいったいはとちがきゅうにひくくなっているため、)
その一帯は土地が急に低くなっているため、
(つよいふりになるとたちまちみずがあふれる。)
強い降りになるとたちまち水が溢れる。
(こいしかわぼりへつうずるおおみぞへのはけがわるいから、)
小石川堀へ通ずる大溝への排(は)けが悪いから、
(ーーそのときも、わずかなあいだにどぶいたがうきかかっており、)
ーーそのときも、僅かなあいだにどぶ板が浮きかかっており、
(ながやのにょうぼうたちがどしゃぶりのなかで、)
長屋の女房たちがどしゃ降りの中で、
(いさましくはけぐちのじんかいをさらっていた。)
いさましく排け口の塵芥(じんかい)をさらっていた。
(さはちのじゅうきょはながやとはなれていた。)
佐八の住居は長屋とはなれていた。
(もとはそこもながやだったが、)
もとはそこも長屋だったが、
(しちねんほどまえにがけくずれがあってつぶされ、)
七年ほどまえに崖崩れがあって潰され、
(はしにあったいっけんだけがのこった。)
端にあった一軒だけが残った。
(くずれたつちがたりょうなので、やぬしはたてなおすことをだんねんしたが、)
崩れた土が多量なので、家主は建て直すことを断念したが、
(さはちはじぶんでてをくわえ、そののこったいっけんだけをきりはなして、)
佐八は自分で手を加え、その残った一軒だけを切りはなして、
(すめるようにしたのだという。)
住めるようにしたのだという。
(ーーしちねんのあいだに、くずれたつちのおおくはみずであらわれ、)
ーー七年のあいだに、崩れた土の多くは水で洗われ、
(いまではほとんどたいらなあきちになっているため、)
いまでは殆んど平らな空地になっているため、
(やぬしはまたながやをたてるきになったそうで、)
家主はまた長屋を建てる気になったそうで、
(そこへはふるざいもくがはこびこまれているし、)
そこへは古材木が運びこまれているし、
(じならしもはじめている、ということであった。)
地均(じなら)しも始めている、ということであった。
(さはちのじゅうきょにはじへえのつまのおことがいた。)
佐八の住居には治兵衛の妻のおことがいた。
(「よくねむってますよ」おことはのぼるにあいさつしてから、)
「よく眠ってますよ」おことは登に挨拶してから、
(ていしゅにそうささやいた、)
亭主にそう囁いた、
(「ときどきおかしなことをいうけれど、)
「ときどきおかしなことを云うけれど、
(きっとねつのためにいううわごとでしょう、くるしいのはおさまったようですよ」)
きっと熱のために云ううわごとでしょう、苦しいのはおさまったようですよ」
(「せんせいはよそへまわっていらっしったんだ」とじへえはすわりながらいった、)
「先生はよそへ廻っていらっしったんだ」と治兵衛は坐りながら云った、
(「つかいがもどったらせんせいはいらしったといってくれ、)
「使いが戻ったら先生はいらしったと云ってくれ、
(そのかさをさしていったら、すぐにいっぽんとどけといてくんな」)
その傘をさしていったら、すぐに一本届けといてくんな」
(おことがでていったとたんに、まうえのそらでつんざくようなかみなりがなり、)
おことが出ていったとたんに、真上の空で劈(つんざ)くような雷が鳴り、
(おことのひめいがきこえた。いえぜんたいがしんどうしたようなかんじで、)
おことの悲鳴が聞えた。家ぜんたいが震動したような感じで、
(じへえはとぐちへとびだしていき、ろじのむこうをのぞいてみた。)
治兵衛は戸口へとびだしていき、路地の向うを覗いてみた。
(なにごともなかったのだろう、「こどもみてえなやつだ」とつぶやきながら、)
なにごともなかったのだろう、「子供みてえなやつだ」と呟きながら、
(もどってきてすわった。のぼるはびょうにんをながめていた。)
戻って来て坐った。登は病人を眺めていた。
(「いっときばかりまえですが」とじへえがはなしだした、)
「一刻ばかりまえですが」と治兵衛が話しだした、
(「うちのかかあにかゆをもたせてよこすと、)
「うちの嬶(かかあ)に粥(かゆ)を持たせてよこすと、
(ええ、きのうのひるからねていたんで、)
ええ、昨日の午(ひる)から寝ていたんで、
(かゆをこさえてもってこさせると、)
粥を拵(こさ)えて持って来させると、
(そこのしごとばでたおれていたんだそうです」)
そこの仕事場で倒れていたんだそうです」
(ろくじょうとにじょうのじゅうきょにくっつけて、さんつぼばかりのいたじきのしごとばがある。)
六帖と二帖の住居にくっつけて、三坪ばかりの板敷の仕事場がある。
(さはちがじぶんでつくったのだろう、てんじょうもないいたかべの、)
佐八が自分で造ったのだろう、天床(てんじょう)もない板壁の、
(ほったてごやのようなもので、くるまのやをつくるざいりょうやどうぐるいが、)
掘立て小屋のようなもので、車の輻(や)を作る材料や道具類が、
(いちまいしいたうすべりのまわりにちらばっていた。)
一枚敷いた薄縁のまわりにちらばっていた。
(ーーおことがきたとき、さはちはそこにたおれたままうめいており、)
ーーおことが来たとき、佐八はそこに倒れたまま呻いており、
(いたじきにちがながれていた。おことのしらせでじへえがかけつけ、)
板敷に血が流れていた。おことの知らせで治兵衛が駆けつけ、
(ねどこへいれるとまたとけつした。)
寝床へ入れるとまた吐血した。
(「かなだらいへはんぶんもはきましたよ」とじへえはこえをひそめていった、)
「金盥(かなだらい)へ半分も吐きましたよ」と治兵衛は声をひそめて云った、
(「だいているこっちもはきそうになりました、)
「抱いているこっちも吐きそうになりました、
(わたしはてっきりこれでいっちまうもんだとおもいましたよ」)
私はてっきりこれでいっちまうもんだと思いましたよ」