山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 8
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問題文
(さはちがふっとめをあいた。)
佐八がふっと眼をあいた。
(「おなか」といって、さはちはあたりをみまわした、)
「おなか」と云って、佐八はあたりを見まわした、
(「おなかどうしてきたんだ」)
「おなかどうして来たんだ」
(しずかな、はっきりしたこえであった。)
静かな、はっきりした声であった。
(「わかれたかみさんです」とじへえがのぼるにささやいた、)
「別れたかみさんです」と治兵衛が登に囁いた、
(「じゅうしちはちねんもまえにわかれたんですがねえ、ええ、おなかというなまえでしたよ」)
「十七八年もまえに別れたんですがねえ、ええ、おなかという名前でしたよ」
(さはちのめはいってんでとまった。)
佐八の眼は一点で停った。
(「こなくってもいい」とさはちはまたはっきりしたこえでいった、)
「来なくってもいい」と佐八はまたはっきりした声で云った、
(「もうすぐにおれもいく、もうまもなくだからな、)
「もうすぐにおれもいく、もうまもなくだからな、
(ああ、そうだとも、もうそんなにまたせやあしないよ」)
ああ、そうだとも、もうそんなに待たせやあしないよ」
(かれはびしょうしながら、そこにそのひとがいるかのように、やさしくうなずいて、)
彼は微笑しながら、そこにその人がいるかのように、やさしく頷いて、
(そしてまためをつむった。じへえはのぼるのかおをみた。)
そしてまた眼をつむった。治兵衛は登の顔を見た。
(「うわごとだ」とのぼるはいった。)
「うわごとだ」と登は云った。
(「しぬびょうにんはよくこんなふうなうわごとをいうもんです」とじへえがささやいた、)
「死ぬ病人はよくこんなふうなうわごとを云うもんです」と治兵衛が囁いた、
(「だがわたしはこれをいましなせたくない、)
「だが私はこれをいま死なせたくない、
(どんなことをしてももういちどじょうぶにしてやりたい、)
どんなことをしてももういちど丈夫にしてやりたい、
(このさはちは、まるでかみかほとけのうまれかわりのようなおとこだったんですよ」)
この佐八は、まるで神か仏の生れ変りのような男だったんですよ」
(わたしもついしごにちまえにしったのだが、とじへえはうでぐみをし、)
私もつい四五日まえに知ったのだが、と治兵衛は腕組みをし、
(こえをひそめてかたった。)
声をひそめて語った。
(さはちがながやのひとたちのために、かせいだものをおしげもなくやっている、)
佐八が長屋の人たちのために、稼いだものを惜しげもなく遣(や)っている、
(ということはまえにもきいた。)
ということはまえにも聞いた。
(じぶんはまるできるものもきない、さけはもちろんたばこもすわず、)
自分はまるで着る物も着ない、酒はもちろん煙草も吸わず、
(くうものさえつめられるだけつめ、そうしてあましただけをぜんぶ、)
食う物さえ詰められるだけ詰め、そうして余しただけを全部、
(となりきんじょのこまっているかぞくにみついだ。)
隣り近所の困っている家族に貢いだ。
(ーーこのじじつはながいことわからずにいた。このむじなながやのような、)
ーーこの事実は長いことわからずにいた。このむじな長屋のような、
(ごくひんもののあつまるところでは、ながくていじゅうするものはまれで、)
極貧者の集まるところでは、長く定住する者は稀で、
(さんねんもたつとすっかりかおぶれがかわってしまうくらいである。)
三年も経つとすっかり顔ぶれが変ってしまうくらいである。
(さはちのしたことがながいあいだしれなかったのも、さはちがかたくくちどめをしたのと、)
佐八のしたことが長いあいだ知れなかったのも、佐八が固く口止めをしたのと、
(みつがれたあいてがつぎつぎにさってしまったからだろう。)
貢がれた相手が次つぎに去ってしまったからだろう。
(ごねんまえにさはちがやんでたおれたとき、はじめてそれがじへえのみみにはいった。)
五年まえに佐八が病んで倒れたとき、初めてそれが治兵衛の耳にはいった。
(「わたしはそのときほどほどにしろといってやりました」とじへえはいった、)
「私はそのときほどほどにしろと云ってやりました」と治兵衛は云った、
(「じぶんがやんでたおれるまでひとにしてやるばかがあるか、)
「自分が病んで倒れるまで人にしてやるばかがあるか、
(ほどということをかんがえろ、ってどなりつけました」)
ほどということを考えろ、ってどなりつけました」
(さはちはすまないとあやまったそうである。)
佐八は済まないとあやまったそうである。
(かれをたおしたのはろうがいであったが、いしゃにかかろうともせず、とおかばかりねると、)
彼を倒したのは労咳であったが、医者にかかろうともせず、十日ばかり寝ると、
(おきてしごとをはじめた。かれはじへえにむかって、)
起きて仕事をはじめた。彼は治兵衛に向かって、
(これからはめいわくをかけないようにきをつける、じぶんのみのことをかんがえるから、)
これからは迷惑をかけないように気をつける、自分の身のことを考えるから、
(とやくそくしたが、じっさいにはそのやくそくをすこしもまもらなかった。)
と約束したが、実際にはその約束を少しも守らなかった。
(ーーびょうじょうがおもわしくないので、じへえがむりにきょじょうのしんさつをもとめたところ、)
ーー病状が思わしくないので、治兵衛がむりに去定の診察を求めたところ、
(きょじょうからげんじゅうなようじょうをめいじられた。)
去定から厳重な養生を命じられた。
(「ところがです」とじへえはくんだうでをとき、)
「ところがです」と治兵衛は組んだ腕をとき、
(りょうてをひざへつきたてながらいった、)
両手を膝へ突き立てながら云った、
(「ついしごにちまえにわかったんですが、あいかわらずひとにみついでいる、)
「つい四五日まえにわかったんですが、相変らず人に貢いでいる、
(じようになるものをこれこれと、にいでせんせいからきんをいただいているので、)
滋養になる物をこれこれと、新出先生から金をいただいているので、
(くすりといっしょにきちんきちんとかかあにとどけさせました、)
薬といっしょにきちんきちんと嬶に届けさせました、
(いちどにやってはあんしんができないので、いちにちぶんずつとどけさせたんです、)
いちどにやっては安心ができないので、一日分ずつ届けさせたんです、
(これならだいじょうぶだろうとおもったんですが、)
これなら大丈夫だろうと思ったんですが、
(ーーきいてみるとそれもひとにやっていたんです、こめも、さかなやとりやたまごなど、)
ーー聞いてみるとそれも人にやっていたんです、米も、魚や鳥や卵など、
(おまけにくすりまでひとにやっていたんだそうです、くすりまでも、ですよせんせい」)
おまけに薬まで人にやっていたんだそうです、薬までも、ですよ先生」
(じへえのひそめたこえが、いかりのためにふるえた、)
治兵衛のひそめた声が、怒りのためにふるえた、
(「ーーなんといいようがありますか、わたしはのぼせあがるほどはらがたって、)
「ーーなんと云いようがありますか、私はのぼせあがるほどはらが立って、
(いきなりここへどなりこみました」)
いきなりここへどなりこみました」
(のぼるはびょうにんのかおをながめていた。)
登は病人の顔を眺めていた。
(ーーいったいなんのためだろう。)
ーーいったいなんのためだろう。
(さはちのげっそりとほねだったかおをながめながら、のぼるはこころのなかでそうつぶやいた。)
佐八のげっそりと骨立った顔を眺めながら、登は心の中でそう呟いた。
(さはちのしたことはじょうきにはずれている。)
佐八のしたことは常軌に外れている。
(おもいやりがふかい、などというしょうぶんだけでは、)
思い遣(や)りが深い、などという性分だけでは、
(そこまでひとにつくせるものではない。)
そこまで人に尽せるものではない。
(じへえは「かみかほとけのうまれかわりのような」といったが、)
治兵衛は「神か仏の生れ変りのような」と云ったが、
(のぼるにはそうはおもえなかった。)
登にはそうは思えなかった。
(もっとげんじつてきな、むしろ、にんげんくさいなにかのりゆうがあるのではないか、)
もっと現実的な、むしろ、人間臭いなにかの理由があるのではないか、
(というふうなものがかんじられたのであった。)
というふうなものが感じられたのであった。
(さはちがふかいたいそくをつき、まためをあいた。)
佐八が深い太息をつき、また眼をあいた。
(ちのけをうしなったしろいくちびるにびしょうがうかび、だれかにむかってうなずいた、)
血のけを失った白い唇に微笑がうかび、誰かに向かって頷いた、
(「きれいだ、うん」さはちはこんどもはっきりしたこえでいった、)
「きれいだ、うん」佐八はこんどもはっきりした声で云った、
(「おまえはきれいだ、そのえくぼがなんともいえないよ、)
「おまえはきれいだ、そのえくぼがなんともいえないよ、
(おなか、こっちへおいで」)
おなか、こっちへおいで」
(そしてとつぜん、さはちのかおにきょうふのひょうじょうがあらわれた。)
そして突然、佐八の顔に恐怖の表情があらわれた。
(ほねだったほおがこわばり、おおきくめをみひらき、)
骨立った頬が硬(こわ)ばり、大きく眼をみひらき、
(しろくかわいたくちびるがふるえて、はがあらわれた。)
白く乾いた唇がふるえて、歯があらわれた。
(「そのこ、ーー」とさはちはしゃがれたこえでうめいた、)
「その子、ーー」と佐八はしゃがれた声で呻いた、
(「いけない、そのこはいけない、このこをみせないでくれ、)
「いけない、その子はいけない、この子を見せないでくれ、
(そのこをそっちへやってくれ、そっちへ」)
その子をそっちへやってくれ、そっちへ」
(さはちはかたくめをつむってあえいだ。)
佐八は固く眼をつむって喘(あえ)いだ。
(そのときうらのあきちのほうで、けたたましいさけびごえと、)
そのとき裏の空地のほうで、けたたましい叫び声と、
(くるったようにいぬのほえたてるのがきこえた。)
狂ったように犬の吠えたてるのが聞えた。
(このあいだにかみなりはさり、あめもあがっていて、)
このあいだに雷は去り、雨もあがっていて、
(うらのさけびごえのなかに「がいこつだ」ということばが、はっきりときこえた。)
裏の叫び声の中に「骸骨だ」と云う言葉が、はっきりと聞えた。
(じへえはそっとたちあがった。)
治兵衛はそっと立ちあがった。