山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 9
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問題文
(やすもとのぼるはたそがれがたまでさはちのそばにいた。)
保本登は黄昏(たそがれ)がたまで佐八の側(そば)にいた。
(さはいのじへえはうらのさわぎをきいて、ちょっとみてくる、)
差配の治兵衛は裏の騒ぎを聞いて、ちょっと見て来る、
(といってでていったまま、いっときちかくももどってこなかった。)
と云って出ていったまま、一刻(とき)ちかくも戻って来なかった。
(びょうにんはすっかりおちついたようすで、なかばくちをあけたままよくねむっているし、)
病人はすっかりおちついたようすで、半ば口をあけたままよく眠っているし、
(のぼるはひどくはらがへってきたので、かえるためにそっとたちあがった。)
登はひどく腹がへってきたので、帰るためにそっと立ちあがった。
(すると、そこへじへえがもどってきた。)
すると、そこへ治兵衛が戻って来た。
(「どうもすみません」とじへえはてぬぐいでひたいをふきながらあがってきた、)
「どうも済みません」と治兵衛は手拭で額を拭きながらあがって来た、
(「うらのじならしをしているところで、)
「裏の地均しをしているところで、
(にんそくたちがいやなものをほりだしたもんですから」)
人足たちがいやな物を掘り出したもんですから」
(「わたしはかえる」とのぼるがこえをひそめていった、「びょうにんはよくねむっているし、)
「私は帰る」と登が声をひそめて云った、「病人はよく眠っているし、
(きゅうへんのおそれもないようだ、めをさましたらくすりをのませて、)
急変のおそれもないようだ、眼をさましたら薬をのませて、
(おもゆのこいのをやってくれ」)
重湯の濃いのをやってくれ」
(「ゆうはんをいかがですか」とじへえがいった、)
「夕飯をいかがですか」と治兵衛が云った、
(「ろくなものはありませんが、いまばあさんがしたくをしていますから、)
「ろくなものはありませんが、いまばあさんが支度をしていますから、
(よろしかったらめしあがってください」)
よろしかったらめしあがって下さい」
(のぼるはれいをいってことわり、そのながやをでた。)
登は礼を云って断わり、その長屋を出た。
(ようじょうしょへかえると、ちょうどじきどうのおわったときで、)
養生所へ帰ると、ちょうど食堂(じきどう)の終ったときで、
(もりはんだゆうだけがのこってい、のぼるはそのとなりにすわった。)
森半太夫だけが残ってい、登はその隣りに坐った。
(いたじきにいたばりの、がらんとしたじきどうはすっかりかたづいており、)
板敷に板張りの、がらんとした食堂はすっかり片づいており、
(もうあんどんもふたつしかないため、あたりはひっそりとくらかった。)
もう行燈(あんどん)も二つしかないため、あたりはひっそりと暗かった。
(とうばんのきゅうじはおはつというちゅうねんのおんなで、しるはあたためてくれたが、)
当番の給仕はお初という中年の女で、汁は温めてくれたが、
(やきざかなとなのにひたしはひえていた。)
焼魚と菜の煮浸しは冷えていた。
(はんだゆうはちゃをのみおわって、そこをたちながらいった。)
半太夫は茶を飲み終って、そこを立ちながら云った。
(「あとでわたしのへやへきてくれないか、こっちからいってもいいが、)
「あとで私の部屋へ来てくれないか、こっちからいってもいいが、
(ーーちょっとはなしたいことがあるんだ」)
ーーちょっと話したいことがあるんだ」
(「きょうはつかれてるんだ、いそぐのか」)
「今日は疲れてるんだ、いそぐのか」
(「るすにあまのというおじょうさんがたずねてきたんだ」)
「留守に天野というお嬢さんが訪ねて来たんだ」
(のぼるはあしをすくわれでもしたようなかおで、はしをとめながらはんだゆうをみた。)
登は足をすくわれでもしたような顔で、箸を止めながら半太夫を見た。
(「あまののまさをさんというひとだ」)
「天野のまさをさんという人だ」
(はんだゆうはそういって、じきどうからでていった。)
半太夫はそう云って、食堂から出ていった。
(「またおのこしなすったのね」おはつがはんだゆうのぜんをかたづけにきていった、)
「またお残しなすったのね」お初が半太夫の膳を片づけに来て云った、
(「おゆきちゃんのおきゅうじじゃなければきにいらないのかしら、)
「お雪ちゃんのお給仕じゃなければ気にいらないのかしら、
(あたしがばんのときにもりせんせいがきれいにたべたっていうためしがないんですから」)
あたしが番のときに森先生がきれいに喰べたっていうためしがないんですから」
(のぼるはだまってたべていた。)
登は黙って喰べていた。
(きゅうじのせいではない、はんだゆうははるさきからしょくよくがおとろえていた。)
給仕のせいではない、半太夫は春さきから食欲がおとろえていた。
(おゆきのとうばんのときは、おゆきのあいがんするようなひょうじょうにまけて、)
お雪の当番のときは、お雪の哀願するような表情に負けて、
(むりにもたべるようであるが、そうでないときや、)
むりにも喰べるようであるが、そうでないときや、
(おかずのきにいらないときなどは、はしをとるのがくつうだというふうにさえ、)
おかずの気にいらないときなどは、箸を取るのが苦痛だというふうにさえ、
(みえることがすくなくなかった。)
みえることが少なくなかった。
(びょうきがあるんだ、しょくよくのないのはびょうきがあるからだ。)
病気があるんだ、食欲のないのは病気があるからだ。
(それもおそらくろうがいであろうと、のぼるはまえからすいさつしていた。)
それもおそらく労咳(ろうがい)であろうと、登はまえから推察していた。
(じぶんではきがつかずにいるのか、それとも、おおくのびょうにんがそうであるように、)
自分では気がつかずにいるのか、それとも、多くの病人がそうであるように、
(きづいていながらじじつにめをそむけているのか、)
気づいていながら事実に眼をそむけているのか、
(どちらともはっきりとはわからない。)
どちらともはっきりとはわからない。
(きょじょうははんだゆうをあいしており、ちりょうにはかならずかれをともなうし、)
去定は半太夫を愛しており、治療には必ず彼を伴うし、
(がいしんでるすにするときは、あとのことをかれにすっかりまかせている。)
外診で留守にするときは、あとのことを彼にすっかり任せている。
(じぶんのこうけいしゃにとおもっているようにみえるが、)
自分の後継者にと思っているようにみえるが、
(かれのけんこうについてはなにもいわないようである。)
彼の健康についてはなにも云わないようである。
(きょじょうのめに、はんだゆうのからだのむしばまれていることがわからないはずはない。)
去定の眼に、半太夫の躯のむしばまれていることがわからない筈はない。
(いしゃのふようじょうということもあるし、)
医者の不養生ということもあるし、
(みぢかなものにはかえってちゅういがとどかないということもあるが、)
身近な者には却(かえ)って注意が届かないということもあるが、
(きょじょうほどのひとにそんなことはかんがえられない。)
去定ほどの人にそんなことは考えられない。
(ーーたぶんしっているのだろう。)
ーーたぶん知っているのだろう。
(そして、「そうだ」とのぼるはおもった。)
そして、「そうだ」と登は思った。
(いつか、きょじょうはせいめいりょくといじゅつについて、こういういみのことをいった。)
いつか、去定は生命力と医術について、こういう意味のことを云った。
(あるこたいはびょうきをこくふくするが、ほかのこたいはまけてたおれる。)
或る個躰(こたい)は病気を克服するが、他の個躰は負けて倒れる。
(いしゃはそのしょうじょうとけいかをみとめることができるし、)
医者はその症状と経過を認めることができるし、
(せいめいりょくのつよいこたいにはたしょうのじょりょくをすることもできる、)
生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、
(だがそれいじょうののうりょくはない。)
だがそれ以上の能力はない。
(また、いじゅつがもっとしんぽすればかわってくるかもしれないが、)
また、医術がもっと進歩すれば変ってくるかもしれないが、
(それでもこたいのもっているせいめいりょくをしのぐことはできないだろう、)
それでも個躰のもっている生命力を凌ぐことはできないだろう、
(というのであった。)
というのであった。
(「いじゅつほどなさけないものはない、といったな」)
「医術ほどなさけないものはない、と云ったな」
(のぼるはちゃをすすりながらつぶやいた、「ーーいしゃをながくやっていればいるほど、)
登は茶を啜りながら呟いた、「ーー医者をながくやっていればいるほど、
(いじゅつというものがどんなにむりょくかということがわかる、)
医術というものがどんなに無力かということがわかる、
(そんなふうにいっていた」そうつぶやきながら、のぼるはきゅうにめをあげた。)
そんなふうに云っていた」そう呟きながら、登は急に眼をあげた。
(かれはあたまのなかで、どうじにいくつかのことをかんがえていたのである。)
彼は頭の中で、同時に幾つかのことを考えていたのである。
(さはちのことと、はんだゆうのことと、それから、)
佐八のことと、半太夫のことと、それから、
(るすにまさをがたずねてきたということを。そのまさをのことが、)
留守にまさをが訪ねて来たということを。そのまさをのことが、
(とつぜんはっきりといしきのひょうめんにうかびあがってき、)
とつぜんはっきりと意識の表面にうかびあがって来、
(かれはひどくうっとうしいきぶんにおそわれた。)
彼はひどく鬱陶しい気分におそわれた。