山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 11

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

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問題文

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(そのよる、のぼるはなかなかねむれなかった。)

その夜、登はなかなか眠れなかった。

(こうふんしてねむれなかったのではなく、しずかなはんせいとくいのためというにちかかった。)

昂奮して眠れなかったのではなく、静かな反省と悔いのためというに近かった。

(かれのあたまのなかで、ちぐさのおもかげがはじめて、おさななじみとしてよみがえり、)

彼の頭の中で、ちぐさのおもかげが初めて、幼な馴染としてよみがえり、

(かれにむかってゆるしをこうようにおもえた。)

彼に向かって赦しを乞うように思えた。

(ーーひどくおとなびてみえるときでも、)

ーーひどくおとなびてみえるときでも、

(ちぐさはじぶんのおもうことをくちにはだせない。)

ちぐさは自分の思うことを口には出せない。

(くちにだせないだけでなく、そぶりにあらわすこともできない、)

口にだせないだけでなく、そぶりにあらわすこともできない、

(というふうであった。)

というふうであった。

(のぼるはそれをふちゅういにみすごしていたのだ。)

登はそれを不注意に見すごしていたのだ。

(ちぐさはおくてのうえに、のんびりしたうまれつきで、)

ちぐさはおくてのうえに、暢(のん)びりした生れつきで、

(まだおんならしいきもちになっていない。)

まだ女らしい気持になっていない。

(けっこんなどはもっとさきのことだ、とおもっていた。)

結婚などはもっとさきのことだ、と思っていた。

(「ちいさいじぶんからみなれていたので、かえってめがにぶっていたんだな」)

「小さいじぶんから見馴れていたので、却って眼が鈍っていたんだな」

(かれはやぐのなかでそうつぶやいた、)

彼は夜具の中でそう呟いた、

(「ーーもしそこにきがついていたら、ながさきへゆくまえにけっこんしていたろうし、)

「ーーもしそこに気がついていたら、長崎へゆくまえに結婚していたろうし、

(じじょうはすっかりかわっていたにちがいない」)

事情はすっかり変っていたに違いない」

(おくてでのんびりしていて、まだこいごころなどはまったくあるまい、)

おくてで暢びりしていて、まだ恋ごころなどはまったくあるまい、

(とおもっていたために、うらぎられたいたでもおおきかったのだ。)

と思っていたために、裏切られた痛手も大きかったのだ。

(「おれはじぶんのことだけにとらわれていたようだ」)

「おれは自分のことだけにとらわれていたようだ」

(やがてまたかれはつぶやいた、「おれをここへいれたのは、)

やがてまた彼は呟いた、「おれをここへ入れたのは、

など

(ちちがあまのさんにろうらくされたのだとおもった、)

父が天野さんに籠絡(ろうらく)されたのだと思った、

(ちちはむかしからあまのさんにはあたまがあがらなかったし、)

父は昔から天野さんには頭があがらなかったし、

(おれのしょうらいについてもあまのさんにたよりきっていたからな、)

おれの将来についても天野さんに頼りきっていたからな、

(ーーおれはちぐさをにくみ、ちちを、あまのさんをにくみ、)

ーーおれはちぐさを憎み、父を、天野さんを憎み、

(おまけにこのようじょうしょまでにくんだ」)

おまけにこの養生所まで憎んだ」

(のぼるはかおをしかめながら、まくらのうえであたまをさゆうにふった。)

登は顔をしかめながら、枕の上で頭を左右に振った。

(「ちぐさはじぶんのしたあやまちできずついた、)

「ちぐさは自分のしたあやまちで傷ついた、

(あまのさんも、ちちも、それぞれのいみできずついた、そのなかで、)

天野さんも、父も、それぞれの意味で傷ついた、そのなかで、

(おれひとりだけおもいあがり、じぶんだけがいたでをこうむったとしんじていた、)

おれ一人だけ思いあがり、自分だけが痛手を蒙(こうむ)ったと信じていた、

(いいきなものだ」かれはもっとかおをしかめた。)

いい気なものだ」彼はもっと顔をしかめた。

(「いいきなものだ、ーーここへきてからのことをかんがえてみろ、)

「いい気なものだ、ーーここへ来てからのことを考えてみろ、

(おい、はずかしくはないか」のぼるはやぐのなかで、みをちぢめた。)

おい、恥ずかしくはないか」登は夜具の中で、身をちぢめた。

(あくるあさ、すこしねすごしたのぼるが、おくれたちょうしょくをたべおわるとまもなく、)

明くる朝、少し寝すごした登が、おくれた朝食をたべ終るとまもなく、

(むじなながやからむかえのものがきた。)

むじな長屋から迎えの者が来た。

(さはちのようだいがおかしいからきてくれ、というのである。)

佐八の容態がおかしいから来てくれ、というのである。

(きょじょうはすぐにいけといい、いちじょうのこなぐすりをわたして、)

去定はすぐにいけと云い、一帖の粉薬を渡して、

(もしひどくくるしむようだったら、これをのませてやれといった。)

もしひどく苦しむようだったら、これをのませてやれと云った。

(「ひつようがなかったらもちかえって、おれのてへかえせ」ときょじょうはいった、)

「必要がなかったら持ち帰って、おれの手へ返せ」と去定は云った、

(「ふつうにはつかわないくすりだからわすれないようにきをつけてくれ」)

「ふつうには使わない薬だから忘れないように気をつけてくれ」

(のぼるはしたくをしてでかけた。)

登は支度をしてでかけた。

(でんづういんのわきまでいったとき、よこちょうからはしりでてきたちゅうねんのおんなが、)

伝通院の脇までいったとき、横丁から走り出て来た中年の女が、

(のぼるをみてよびとめた。)

登を見て呼びとめた。

(ようじょうしょのせんせいかときくので、そうだとこたえると、)

養生所の先生かと訊くので、そうだと答えると、

(こどものびょうきがわるいからみてもらえないか、とはげしくあえぎながらいった。)

子供の病気が悪いから診てもらえないか、と激しく喘ぎながら云った。

(はんとしばかりやんでいるが、)

半年ばかり病んでいるが、

(たまっているやくれいがはらえないためにいしゃがきてくれない、)

溜っている薬礼が払えないために医者が来てくれない、

(こどもはいまにもしにそうにみえるのだ、とうったえるのであった。)

子供はいまにも死にそうにみえるのだ、と訴えるのであった。

(ーーこのうわぎのおかげだな。)

ーーこの上衣のおかげだな。

(そのうわぎは、ようじょうしょいいんだということをしめしている。)

その上衣は、養生所医員だということを示している。

(やくれいがとどこおっているためにいしゃがこない、おんなはいえをとびだしてきて、)

薬礼がとどこおっているために医者が来ない、女は家をとびだして来て、

(そのうわぎをみとめるなりよびかけたのだ。)

その上衣を認めるなり呼びかけたのだ。

(あかひげか、いいおやじだな、とのぼるはおもった。)

赤髯か、いいおやじだな、と登は思った。

(「ようじょうしょへおいでなさい」とかれはおんなにいった、)

「養生所へおいでなさい」と彼は女に云った、

(「わたしもきとくのびょうにんがあっていくとちゅうだから、)

「私も危篤の病人があっていく途中だから、

(ようじょうしょへいってたのむがいいでしょう、もうひとはしりですよ」)

養生所へいって頼むがいいでしょう、もうひと走りですよ」

(おんなはれいをのべて、こばしりにさかをのぼっていった。)

女は礼を述べて、小走りに坂を登っていった。

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