山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 19 終

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

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問題文

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(それからにねん、たきちというこどももうまれて、そのおとことのせいかつも、)

それから二年、太吉という子供も生れて、その男との生活も、

(それなりにおちついてきたとおもったとき、せんそうじでさはちとであった。)

それなりにおちついて来たと思ったとき、浅草寺で佐八と出会った。

(おなかはめがさめたようにおもったという。)

おなかは眼がさめたように思ったという。

(ながいことねむっていて、そのときふっとめがさめたようなきもちだった。)

長いこと眠っていて、そのときふっと眼がさめたような気持だった。

(かみかくしにあったものがひょいとじぶんのいえへかえった、とでもいうようなきもちで、)

神隠しにあった者がひょいと自分の家へ帰った、とでもいうような気持で、

(かじからあとのことは、げんじつのものではないようにかんじられてきた。)

火事からあとのことは、現実のものではないように感じられてきた。

(ーーいまでもそうなの、)

ーーいまでもそうなの、

(いまこうしてはなしているのがあたしだということはわかるけれど、)

いまこうして話しているのがあたしだということはわかるけれど、

(ほかにおっとやこどもをもったじぶんがいるとは、)

ほかに良人(おっと)や子供を持った自分がいるとは、

(どうしてもかんがえられないのよ。)

どうしても考えられないのよ。

(そういっておなかはみもだえをした。)

そう云っておなかは身もだえをした。

(ーーあたしそれで、あなたのところへかえってきたの、)

ーーあたしそれで、あなたのところへ帰って来たの、

(わかってくれるわね、あなた、あたしかえってきたのよ。)

わかってくれるわね、あなた、あたし帰って来たのよ。

(ーーそれはほんきでいうのか。)

ーーそれは本気で云うのか。

(ーーだいてちょうだい。)

ーー抱いてちょうだい。

(ーーまたむこうへもどりたくなるんじゃあないのか。)

ーーまた向うへ戻りたくなるんじゃあないのか。

(ーーおねがいよ、だいて。)

ーーお願いよ、抱いて。

(さはちはそっと、おなかをだきよせた。)

佐八はそっと、おなかを抱きよせた。

(おなかはかたてでなにかをなおし、それからそうのうでをさはちにかけて、)

おなかは片手でなにかを直し、それから双の腕を佐八に掛けて、

(ちからいっぱいだきつき、どうじに「ひ」とみじかく、するどいひめいをあげた。)

力いっぱい抱きつき、同時に「ひ」と短く、するどい悲鳴をあげた。

など

(ーーはなさないで。)

ーー放さないで。

(おなかはしがみついたままいった。)

おなかはしがみついたまま云った。

(ーーあたしをはなさないで。)

ーーあたしを放さないで。

(そしておなかはぜっそくした。)

そしておなかは絶息した。

(「ひだりのちちのしたを、あいくちでひとつきでした」とさはちはいった、)

「左の乳の下を、匕首(あいくち)で一と突きでした」と佐八は云った、

(「いしゃをよぶまでもない、ひとつきでそくしです、)

「医者を呼ぶまでもない、一と突きで即死です、

(・・・・・・これでもうおわかりでしょう、あいつははなさないでくれといいました、)

……これでもうおわかりでしょう、あいつは放さないでくれと云いました、

(わたしもはなしたくはなかった、いちどはそのあいくちをてにとってみたが、)

私も放したくはなかった、いちどはその匕首を手に取ってみたが、

(おなかのやつがしんではいけないといっているようで、)

おなかのやつが死んではいけないと云っているようで、

(しぬことはあきらめました、そして、そうです」)

死ぬことは諦めました、そして、そうです」

(さはちはせきこんだ。)

佐八は咳こんだ。

(たいりょくがしょうもうしきっているため、からだをおりまげ、まくらをりょうてでつかんで、)

躰力が消耗しきっているため、躯を折り曲げ、枕を両手で掴んで、

(いまにもいきがたえるかとおもうほど、くるしげにせきいった。)

いまにも息が絶えるかと思うほど、苦しげに咳いった。

(のぼるはすりよって、ほねのあらわなせをなでてやり、せきがおさまるのをまって、)

登はすり寄って、骨のあらわな背を撫でてやり、咳がおさまるのを待って、

(そっとみずをすすらせた。「そうです」さはちはしばらくして、)

そっと水をすすらせた。「そうです」佐八は暫くして、

(しゃがれたよわよわしいこえでいった、「きのうこのうらでほりだされたのが、)

しゃがれた弱よわしい声で云った、「昨日この裏で掘り出されたのが、

(おなかです、がけくずれのあるまえには、あそこがわたしのしごとばでした、)

おなかです、崖崩れのあるまえには、あそこが私の仕事場でした、

(わたしはしごとばのしたにおなかをうめて、ずっといっしょにくらしてきたのです」)

私は仕事場の下におなかを埋めて、ずっといっしょにくらして来たのです」

(きんじょのひとたちにしたことは、おなかにたいするくようのきもちだった。)

近所の人たちにしたことは、おなかに対する供養の気持だった。

(けっしてかんしゃされたり、ほめられたりするいわれはない。)

決して感謝されたり、褒められたりするいわれはない。

(おなかのおっとやこどもがどうなったかはしらないが、)

おなかの良人や子供がどうなったかは知らないが、

(じぶんはかれらにかなしいおもいをさせ、おなかをころしたもどうぜんである。)

自分はかれらに悲しいおもいをさせ、おなかを殺したも同然である。

(いつかはこのじじつのあばかれるときがくるだろう、)

いつかはこの事実のあばかれるときが来るだろう、

(それまではおなかへのくようと、じぶんのつみほろぼしのために、)

それまではおなかへの供養と、自分の罪ほろぼしのために、

(すこしでもひとのやくにたってゆきたいとおもった。)

少しでも人の役に立ってゆきたいと思った。

(「むかえがきた、といったのはこういうわけだったのです」とさはちはいった、)

「迎えが来た、と云ったのはこういうわけだったのです」と佐八は云った、

(「ーーきのう、うらでひとのさわぐこえをきいたとき、わたしはああそうかとおもいました、)

「ーー昨日、裏で人の騒ぐ声を聞いたとき、私はああそうかと思いました、

(おなかがむかえにきた、これでほんとうにふたりがいっしょになれる、)

おなかが迎えに来た、これで本当に二人がいっしょになれる、

(これでやっとあんらくになれるんだって」)

これでやっと安楽になれるんだって」

(あがりがまちにごろねをしていたへいきちが、とつぜんうなりごえをあげ、)

上り框にごろ寝をしていた平吉が、とつぜん唸り声をあげ、

(みずをもってこい、とばかげたこうせいでわめきだした。)

水を持って来い、とばかげた高声で喚きだした。

(「さはいのいんごうじじい、おうめばばあのしみったれ」とかれはわめいた、)

「差配の因業(いんごう)じじい、お梅ばばあのしみったれ」と彼は喚いた、

(「さはちのばかやろう、あかひげのへちゃむくれ、)

「佐八のばか野郎、赤髯のへちゃむくれ、

(おめえらはみんなおおばかのひょっとこだ、)

おめえらはみんな大ばかのひょっとこだ、

(へっ、どうせこのよはこなからよ、)

へっ、どうせこの世は二合五勺(こなから)よ、

(むずかしいつらあしたってそこはしれてらあ、さけでもひっかけてよっぱらうほかに、)

むずかしい面あしたって底は知れてらあ、酒でもひっかけて酔っぱらうほかに、

(ーーやい、きこえねえのか、みずをもってこい」)

ーーやい、聞えねえのか、水を持って来い」

(「やすもとせんせい」とさはちがいった、)

「保本先生」と佐八が云った、

(「どうか、さはいのところへいって、そうおっしゃってください、そのほねはおなかで、)

「どうか、差配のところへいって、そう仰しゃって下さい、その骨はおなかで、

(わたしがうめたものだって、ーーよけいなてすうがはぶけますからね」)

私が埋めたものだって、ーーよけいな手数が省けますからね」

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