山本周五郎 赤ひげ診療譚 三度目の正直 10
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問題文
(いのはてをふりながらさえぎった。)
猪之は手を振りながら遮った。
(たしかにじぶんはそうおもった、ところがこのあいだ、おまつにひまがでたので、)
慥(たし)かに自分はそう思った、ところがこのあいだ、お松に暇が出たので、
(さそいあわせてせんそうじへさんけいにゆき、)
さそい合わせて浅草寺へ参詣にゆき、
(そのかえりにこまがたのうなぎやでめしをたべた。)
その帰りに駒形の鰻屋で飯を喰(た)べた。
(うなぎがやけてくるまで、さけをのみながらはなしをし、おまつにもさかずきをさした。)
鰻が焼けて来るまで、酒を飲みながら話をし、お松にも盃を差した。
(おまつはいやがったが、さかずきにみっつばかりのみ、するとかおがぼうとあかみをおびて、)
お松はいやがったが、盃に三つばかり飲み、すると顔がぼうと赤みを帯びて、
(みごなしやめつきがたいそういろっぽくなってきた。)
身ごなしや眼つきがたいそう色っぽくなってきた。
(それはいい、そこまではいいんだが、やがておまつはしゃくをしながら、)
それはいい、そこまではいいんだが、やがてお松は酌をしながら、
(はすかいにこっちをにらんで、うわきをしちゃあいやよといった。)
斜交(はすか)いにこっちをにらんで、浮気をしちゃあいやよといった。
(ーーうわきなんかしないで、あたしはあなたのもの、)
ーー浮気なんかしないで、あたしはあなたのもの、
(あなたはあたしのものよ、よくって。)
あなたはあたしのものよ、よくって。
(おらあそうみがぞっとなった。)
おらあ総身がぞっとなった。
(ーーきまってやがら、ととうきちがいった。)
ーーきまってやがら、と藤吉が云った。
(またせぼねをどうかされたようなきもちがしたんだろう。)
また背骨をどうかされたような気持がしたんだろう。
(ーーあにきはなんともかんじねえか。)
ーーあにきはなんとも感じねえか。
(ーーふうふになるものなら、そのくらいのことをいうのにふしぎはねえだろう。)
ーー夫婦になる者なら、そのくらいのことを云うのにふしぎはねえだろう。
(ーーあなたはあたしのもの、うっ。)
ーーあなたはあたしのもの、うっ。
(いのはほんとうにかたをすくめてみぶるいをした。それはちょうど、)
猪之は本当に肩をすくめて身震いをした。それはちょうど、
(けむしのきらいなものがえりくびへけむしをいれられでもしたような、)
毛虫の嫌いな者が衿首へ毛虫を入れられでもしたような、
(しんそこはだがあわだつというかんじであった。)
しんそこ肌が粟立(あわだ)つという感じであった。
(「しょうがねえ、おいかえすのもかわいそうだから、)
「しょうがねえ、追い返すのも可哀そうだから、
(そのままみとへとめておきました」ととうきちはいった、)
そのまま水戸へ留めておきました」と藤吉は云った、
(「ただし、あっしはただしとねんをおしました、もうこんどはおんなにほれるな、)
「但し、あっしは但しと念を押しました、もうこんどは女に惚れるな、
(おれはにどとふたたびえんだんにはかかわらねえからって」)
おれは二度とふたたび縁談にはかかわらねえからって」
(いのはほっとしたようにわらっていった。)
猪之はほっとしたように笑って云った。
(ーーもうけっしてめいわくはかけねえ。)
ーーもう決して迷惑はかけねえ。
(そのかわりおうみやのほうはたのむ、といのはぬけめなくつけこんだ。)
その代り近江屋のほうは頼む、と猪之はぬけめなくつけこんだ。
(いいだろう、ととうきちはひきうけた。)
いいだろう、と藤吉は引受けた。
(こんなこともあろうかと、せいしきなはなしはのばしてあったので、)
こんなこともあろうかと、正式な話は延ばしてあったので、
(ことわるのもそれほどこんなんではないとおもったからである。)
断わるのもそれほど困難ではないと思ったからである。
(さがみやのふしんはながびき、)
相模屋の普請は長びき、
(にども「だいまさ」のとうりょうがえどからみにきたくらいだったが、)
二度も「大政」の頭梁が江戸から見に来たくらいだったが、
(それでもつゆにかかるまえにはしあげることができた。)
それでも梅雨にかかるまえには仕上げることができた。
(だがこのあいだに、いのはまたかみさんをみつけたのであった。)
だがこのあいだに、猪之はまたかみさんをみつけたのであった。
(じぶんからはいいださなかったけれども、みとへきてはんつきばかりすると、)
自分からは云いださなかったけれども、水戸へ来て半月ばかりすると、
(ようすがおかしくなった。)
ようすがおかしくなった。
(しょくにんたちはふしんばにたてたこやでねとまりをしていたが、)
職人たちは普請場に建てた小屋で寝泊りをしていたが、
(とうきちはとうりょうだいりなので、さがみやがじないにいえをいっけんあけてくれ、)
藤吉は頭梁代理なので、相模屋が地内に家を一軒あけてくれ、
(しょくじなどもまかなってくれていた。)
食事なども賄ってくれていた。
(「いのもあっしのところへおきました、)
「猪之もあっしのところへ置きました、
(なにしろそばにいねえととしよりのおとこやもめみてえなきもちになるってんですからね」)
なにしろ側にいねえと年寄りの男やもめみてえな気持になるってんですからね」
(とうきちはよいはじめたらしく「ふざけたやろうでさあ」といってわらった、)
藤吉は酔い始めたらしく「ふざけた野郎でさあ」と云って笑った、
(「さがみやでばんめしにさけをつけてくれるんだが、いのがさかずきにてをださなくなった、)
「相模屋で晩飯に酒をつけてくれるんだが、猪之が盃に手を出さなくなった、
(はじめはほしくねえというんで、こっちはただそうかとおもっていました」)
初めは欲しくねえというんで、こっちはただそうかと思っていました」
(そのうちにおかしいなときがついた。)
そのうちにおかしいなと気がついた。
(ふろからあがってぜんにむかう。)
風呂からあがって膳に向かう。
(いのはとぼんとすわったまま、さかずきもとらずにぜんのうえをながめている。)
猪之はとぼんと坐ったまま、盃も取らずに膳の上を眺めている。
(どうした、のまねえのか、ととうきちがきくと、うん、となまへんじをするだけで、)
どうした、飲まねえのか、と藤吉が訊くと、うん、となま返辞をするだけで、
(いつまでもぜんのうえをながめている。)
いつまでも膳の上を眺めている。
(ーーどうしたんだ、のまねえのか。)
ーーどうしたんだ、飲まねえのか。
(ーーうん、ほしくねえんだ。)
ーーうん、欲しくねえんだ。
(ーーはらぐあいでもわるいのか。)
ーー腹ぐあいでも悪いのか。
(ーーはらにべつじょうはねえ、おれはいいからあにきはかってにやってくれ、)
ーー腹に別状はねえ、おれはいいからあにきは勝手にやってくれ、
(おれのことはいいんだ。)
おれのことはいいんだ。
(そんなことがしごにちつづき、あるひ、おなじようなもんどうをしながら、)
そんなことが四五日続き、或る日、同じような問答をしながら、
(とうきちはふと、せすじがひやっとするようなかんじにおそわれた。)
藤吉はふと、背筋がひやっとするような感じにおそわれた。
(あのときとおなじだ、ととうきちはおもい、それからできるだけ、)
あのときと同じだ、と藤吉は思い、それからできるだけ、
(いののほうをみないようにしていた。)
猪之のほうを見ないようにしていた。